第三章9 『カタストロフ』
百メートルは歩いただろうか。
俺はようやく追いついた。
背後から声をかける。
「なにやってんだよ」
彼はびくりともせず振り返った。おまけにその顔には、穏やかで柔和な笑顔さえしたためていた。
「やあ。奇遇だね。開」
「本当にこれは奇遇なのか? 凪」
柳屋凪はおかしそうに笑った。
「キミと同じさ、開。ぼくも犯人を捕まえようと思ってね。いや、正確には違う。犯人を目撃しようとしただけさ。ぼくに推理は向いていないからね」
飄々と俺の質問を受け流す凪。現場に居合わせながらのこの穏やかな笑顔は、神経が図太いとしか言いようがない。
「で、凪は見てないわけ?」
「なにをだい? 主語を明確にしないと伝わるモノも伝わらないよ。昔からのキミの悪いクセだ」
「とぼけんなよ。この場合、犯人以外ないだろ」
「ははっ。この場合はそうだ。犯人以外に見るモノなんてない。そうだね。ぼくは、見てない。犯人を見ることは叶わなかった」
凪は表情を崩さない。
「なんだい? 怖い顔だね。どういう料簡かな?」
「別に。知り合いを見かけたら挨拶くらいするだろ。だから声かけただけだよ」
凪はどういうつもりか、急にカタカナ言葉を言い出した。
「ときに開。カタルシスって知ってるかい? カタルシスだ」
なんだっけか。確か前に、伏線回収が見事な推理小説のうたい文句にそのワードが使われていた。「今世紀最大のカタルシス」とかなんとか。しかし詳しい意味は知らなかった。
「満足感みたいな意味で、どこかで聞いた気がするよ」
「そうかい。満足感か。そうだね。一般的には、心にあるわだかりを一気に解消することを指す。うん、それもひとつだ。でもね、開。あれの本当の意味――元来の意味は、悲劇のあとで味わう浄化のことなんだよ」
「それが?」
「似たところで、カタストロフという言葉があるけど、あれは大詰めのことであり、その多くは悲劇なんだってさ。カタストロフとカタルシス、この二つの言葉が同時に使われることがないのは、どうしてだろうね。ぼくはこう考える。本来的なカタルシスはなくなった。だから、悲劇はカタストロフにしかならなくなった」
「つまり、悲劇のあとにおける浄化はなくなった、と。おまえはそう言いたいわけだな」
「いかにも」
つまらない話じゃない。逸美ちゃんからは聞かないような種類の話だし、凪の好みそうな話に見えなくもないな。
「カタルシスには、巧緻なプロットが必要だと思われているかもしれないけどね、本来的なカタルシスを与えるには、顛末が重要なのさ。気をつけたまえ」
「なんの忠告だよ」
「でなきゃ、カタストロフだって言ってるのさ」
凪が言いたいことは、この連続放火事件に関してなのだろうか。なにが言いたいのかさっぱりだ。
……まったく。
質問をする気が削がれるこの気持ちはなんだろう。凪の飄々とした佇まいを見ていると、いまいち、いまが放火事件発生中であることを忘れてしまう。
にしても、カタストロフか……。
やはり、凪がなにを考えているのか、俺にはわからない。垣間見せる不審さも不思議さも、わからない。俺には、凪の胡乱な行動――その一挙手一投足が理屈で推し量れなかった。
「開。黙ってしまってどうしたんだい? ぼくの言葉を精察しているというところかな。キミのその、懐疑的な思考は美点ではあるが、同時に欠点だ。いや、欠陥だ。まだまだそんなこと考えるには、足りていないよ」
「よくそんな失礼なこと言えるな」
「承知しているよ、ぼくがキミに対して失礼なヤツであることは」
また、飄々とそんなことを言ってのける。
「懐疑的な思考が生きるのは、おたくのところの所長さんくらいでないといけない。もっともあれは人間のレベルを超越してるけどね。でもそれくらいでないと、懐疑心は心配性の類語になってしまうとぼくは考える。シェイクスピアも言うじゃないか。『人の言葉は善意にとれ、そのほうが五倍賢い』ってさ。だから、ぼくは普段、なにも考えていないんだ」
「おまえは馬鹿だな。少しは考えろ。そうやってノコノコ放火現場に行くから、所々でおまえを見かけたって情報が入るんだよ。犯人に間違えられるぞ」
聞いた瞬間、穏やかそうな目を愛嬌たっぷりにくっと見開き、
「しまったぞ。これではぼくは、犯人有力候補だ」
と笑った。おかしそうに笑うその顔は、童顔なせいか笑い方のせいか、まだ中学生のようで、純粋に楽しそうだった。
「で。凪は、放火現場の様子は見てないの?」
笑うのをやめて、しかし笑顔のままで目を眇める。
「よくぞ聞いてくれたね。そうくると思っていたよ」
どこか楽しそうにメモ帳を取り出し、ページをめくって書かれている内容を確認する。
「放火された時間は、二十三時二十三分。ぼくは第一発見者ではないけど、時間はこれで間違いないね。放火現場についてだけど、開はどこだと思う?」
「床屋だと思った。燃やすなら、サインポールかなって」
「物騒なことを言うね。まるで開が犯人みたいな言い草じゃないか」
「おまえ、ふざけんてんのか?」
凪はわざとらしく、いやいやと手を振った。
「まさか。それにしても驚いたよ。開がサインポールという名称を知っているとはね。逸美さんに教わったのかな。できればぼくも、また彼女と話をする機会が欲しいものだね。あの卓抜した知識量を、理が非でも、一欠片でもいいからいただきたいよ」
俺は反射的に言う。
「おまえにやる分なんてねえよ」
「おまえにやる分なんてねえよ、か。ほとほと、開の独占欲には呆れるね」
一瞬、言葉に詰まる。
「う、うるさいな。独占欲とかじゃないさ」
「そうかい」
そのあっさりとした受け答えも、こうも適当な言い方をされるとちょっと腹が立つ。
「で、どこなの? 放火された場所は」
そうだね、と凪はメモ帳を確認する。
「放火現場は、不動産屋だ。建物自体が燃えてしまったようだね。最近、過激になっているんだ。ぼくはもう、最終プロセスにあると考える。いまや、風前の灯火だ。どうかな? 開」
「さて。どうかな」
事件は収斂する。もう終わりに近いってことか。確かに、次第次第に被害は大きくなっているようだし、これ以上は大きくしようがないだろう。いくらなんでも建物を全焼するなんてことはないように思う。
さて。
これ以上は凪から聞き出せることもないだろうな。
「それじゃあ凪。俺は帰るよ」
しかし、凪はぴくりとも動かず、俺の前に立ちふさがる。
俺は顎を引いて、言った。
「なんだよ。まだ他に、話したいことでもあるのか?」




