第三章8 『スピカ』
約束のコンビニ前に着いた。
そこにはすでに、逸美ちゃんが彦星を待つ織姫のように静かに空を見上げて待っていた。目の前にはコンビニもあるけれど、星も見える。
「早いね」
逸美ちゃんの元へ歩み寄っていくと、逸美ちゃんはまず腕時計を確認して、
「開くん、時間ピッタリ。正確には一分前だけど」
と、にっこり微笑んだ。
「どうする? もう移動する?」
もう一度空を見上げ、逸美ちゃんはうなずいた。
「そうね。いこっか」
逸美ちゃんは、俺の横に並ぶと慈悲深いシスターのような顔で聞く。
「開くん、寒くない? 今晩は冷えるみたいだけど、わたしのマフラー貸そうか?」
「俺もマフラーしてるから平気」
「そう?」
「それに、それ貸したら逸美ちゃんが寒いだろ」
まったく、こっちの姉は心配性だな。郷ちゃんだったら気合を入れろとか言うのだろうか。いや、さすがにそんな熱血系というわけでもないよな。
夜になって冷えてきた空の下を並んで歩く。
周囲には住宅以外の建物は少なかった。しかし、ハナミズキ通りには、住宅以外に三つの建物があった。
クリーニング店の向かいに薬局。
横断歩道を渡って不動産屋。
そして不動産屋のすぐ隣に床屋。
徒歩三分圏内だと他にも銀行や学習塾、二階建の小さな会社などもあるが、可能性として考えやすいのがこの三つだ。
「場所は、床屋の先でいいんだよね」
「うん。そこなら、犯人が通る可能性が高いと思うし、捕まえられなくても、写真を撮るくらいはできるからね」
床屋の先の駐車場で、待機することにする。そこなら人に見られる心配はないだろうし、いざというとき、すぐに駆け付けられる。
「ただ難点なのが、床屋さんと不動産が見えないのよね。通りをこっちから来るのであれば、犯人の顔も確認できると思うんだけど」
「まあ。あからさまに待つことはできないよ。それより、いち早く駆け付けられる場所にいるほうがいい。実際、床屋と決まったわけじゃないし、銀行の可能性もあるんだから」
あとは、長丁場にならないことを祈るばかりだ。寒い星空の下、ひたすら動かずじっとしたまま待つというのは、体力的にもきついだろうし。まあ、これが一月や二月じゃなかっただけマシか。
車が通り過ぎる。極めて車の通りが多い通りではないけれど、一台過ぎればまた間隔を空けてもう一台過ぎて行く。
いまが十時五十分だから、時間的にはそろそろ放火が起きてもおかしくはない。
しかし。
人の通りはなかった。俺と逸美ちゃんが張り込みを始めてから、人が一人も通らない。普段、この時間にこの通りを歩かないから知らなかったけれど、どうやらこの時間帯にこの通りを歩く人は少ないらしい。
駐車場は、床屋とは三つ建物を隔てている。
床屋には昔ながらの赤と青と白の縞々模様のクルクルしたアレがある。俺は、アレが今回燃やされるのではないかと考えていた。逸美ちゃんに聞けば、それは「サインポール」という名称らしい。
「日本のサインポールは、右肩上がりに回る、Z巻きが多いのよ」
「日本のってことは、外国にもあるの?」
「そうよ。世界共通のマークなんだって」
世界共通というのは多いモノで、発祥国の文化を取り入れているだけなら当然そうなる。タロットカードだってそうだし、似たところでトランプもそうだ。
車の陰にしゃがみ込んでいたところ、不意に手に温もりを感じた。あったかい。逸美ちゃんが俺の手を握る感触だった。
「ん? なに?」
「いいじゃない? たまにはこうやって温め合うのも。だって開くん、寒そうなんだもん」
「……」
「ううん。なんていうかね、開くんは、温めてあげないと、凍えてしまいそうな感じがあるから」
「なにそれ」
と、俺は笑った。
でも確かに、握ってくれた逸美ちゃんの手は温かかった。俺は寒がりだから、それを知っている逸美ちゃんは余計心配してくれるのだ。星空の下でこうして温め合って、もしこれで見張りなんて目的がなければ、流星群を見るような雰囲気だ。
「開くん、もう片方の手も冷えちゃってるね。お姉ちゃんが温めてあげる」
「別に平気だよ」
そうは言っても、逸美ちゃんの手に包まれているまま、俺はそっぽを向くだけだった。
逸美ちゃんは空を見上げて指差す。
「ねえ開くん。あそこにあるのがスピカよ。おとめ座の星で、一等星だからよく見えるでしょ。他の星は見えにくいけどね」
北斗七星の取っ手からうしかい座のアルクトゥルスまでと同じ長さを伸ばした場所に、スピカはあるらしい。そう探すと簡単に見つかるのだそうだ。また、その伸ばした線を春の大曲線というらしい。
「スピカは春の星なのよ」
その言葉で、いまがもう春なのかもしれないと思った。たぶん、この事件が解決したときに春を実感できる気がする。
それから、スピカにまつわるおとめ座のギリシャ神話に関する話を聞かされた。
「そうそう。火について。わたし、まだ話したことなかったよね。ギリシャ神話についてのお話よ。昔々、ティタン神族に、プロメテウスという一人の神がいたの。たくさんいる中の神の一人。ギリシャ神話は神々のお話だから、たくさん神がいるんだけどね、その中でもプロメテウスは、神々の元からあるものを盗み人間に与えたとして、大神ゼウスの怒りを買ってしまったわ。そのあるものというのが、『火』。天界から火を盗み、人間たちに与え、その使い方まで教え込んだ。そしてプロメテウスは、ゼウスに罰を与えられたの。カフカス、つまりコーカサスの山の岩に、生きたまま縛り付け、自分の鷲を遣わした。巨大な鷲が毎日プロメテウスの肝臓をついばみ、昼間食い荒らされた肉は、夜のうちに元に戻る。だから、プロメテウスの激痛は永遠に止まなかったの」
プロメテウスは不老不死なの、と逸美ちゃんは言い添えた。
「人間のために火を盗んだんだ、プロメテウスは」
「うん。人類が幸せになると信じて火を与えた。でも、ゼウスは争いの元になるから反対だった。結果、どっちの意見も正しかったのよね。火によって文明が発達したのはよかったけれど、火を使って戦争を起こしてしまう」
「まあ、俺は神話に口を出すつもりはないけど、確かに一長一短かもね」
「一利一害一得一失ね。火は、争いを生むけど、世界を豊かにもする。皮肉な話ね」
「それで、結局プロメテウスはどうなったの? いまもそのままってわけでもないでしょ?」
逸美ちゃんは苦笑した。
「そうね。言い忘れてたわ。そのまま終わったら、あんまりだもんね。結局、最終的には、英雄ヘラクレスに助けられて、ゼウスとも和解し、神々の仲間に戻ったの」
これにてプロメテウスのお話は終わった。
めでたしめでたし、よかったね、とか言おうとしたところで、声が聞こえてきた。騒がしい。人を呼ぶような声で、直感的に放火されたのだとわかった。
「火事だー!」
中年男性の声だ。現場には、他に誰もいないのだろう。何度か同じ言葉で呼びかけている。
やられた。放火された。
しかし俺は逸美ちゃんの話を聞きながらも、通りから注意を離さなかったはずだ。つまり誰も通っていない。犯人は俺たちがいるのとは逆のほうからやってきたことになる。
「声は、床屋のほうからだね」
「うん。そうね。行く?」
まだだ。すぐにノコノコ出て行ったところで怪しまれてしまう。いや、少なくともその可能性はあった。できれば人だかりに紛れる程度に留めておきたい。
「もう少ししてから行こう」
こくりと逸美ちゃんはうなずく。
逸美ちゃんは腕時計を確認して、時間を手帳にメモしている。時刻は現在、午後の十一時二十五分。
俺は逸美ちゃんの手帳から、また通りに視線を戻した。火の手が大きくなっているのか、「火事だー!」という呼びかけが効果を発揮したのか、ずるずると人が通って行く。しかしまだ三、四人。その中に紛れるのはためらわれる。せめてあと五人くらいは見てからだ。
「あとすこ……」
あれは――。突然、通りを歩いていく人影を見つけた。突然というのは変な表現だったかもしれない。その人影がおかしかったのは、進行方向が逆だったからだ。まるで放火現場から遠ざかるようなその姿は、違和感があった。
「開くんっ」
急に立ち上がった俺を見上げる逸美ちゃん。
「逸美ちゃんはここにいて」
あそこなら、逸美ちゃんが一人でいても大丈夫だ。逸美ちゃんのことだから、機を見計らって現場を見ることができるだろう。
それより、俺はあとを追う。
走って駐車場を抜けて、足早に歩いていく。
その後姿。知っている後姿を追った。