第三章7 『星』
翌日。
土曜日ということで、俺は朝から探偵事務所に来ていた。
この日は珍しく所長がいて、お客様用のソファーで休日の父親みたいに横になって新聞を読んでいた。
逸美ちゃんはメガネを掛けて本を読んでいる。普段はあまりメガネを掛けない逸美ちゃんだけど、文字が小さい本を読むときや長い時間パソコンで作業をするときにはメガネを掛けるのだ。大人っぽさと合わさって、図書館司書や出来る家庭教師みたいで、逸美ちゃんにはよく似合っている。
「なあに? 開くん。わたしのことぼーっと見ちゃって」
「別に。見てないし」
逸美ちゃんの横に腰を下ろす。
それより、マネキン人形がソファーに横たわっているみたいな状態の所長に話しかける。
「珍しいですね。所長がこんな時間に事務所にいるなんて」
新聞から目を離すことなく所長は答える。
「ん。ちょっとな、用事があるのだよ。だから、これからここに迎えが来る」
「迎え? 所長これからどこか行くんですか?」
「ん。行くぞ」
またなにかの事件か。お忙しいことだ。
所長は新聞をテーブルに置いて、おもむろに立ち上がった。背の高い所長からは遥か高くから見下ろすような格好である。
「さて。逸美、開くん。これからわたしは、しばらくのあいだここに来ることができない。出張に行くのでな。大阪に行くことになっているが、いつ帰れるかわからないのだ」
逸美ちゃんが落ち着いた様子で問う。
「千秋さん。日程的な目安はある?」
「いや。わたしの腕次第だ。しかも、事件は一件ではないのだ。大阪で起きている事件を、三つまとめて解決しようというのでな。今日も向こうに着いたらさっそく仕事がある。番は頼んだぞ、逸美」
「はい。わかりました」
「なにかあったら電話でもしてくれ」
「はい」
所長はバッグを持って一流モデルさながらにスタイリッシュにドアのほうへと歩いていく。
「ではな。迎えが来たらしい。そろそろ行くとしよう」
どうやって迎えが来たのがわかったんだ。車のエンジン音も聞こえなかったぞ。でもまあ、そこは所長の超人的な推理か勘だろう。所長は意味深に謎のアイコンタクトを逸美ちゃんに向ける。
「逸美、開くんのサポート、してやってくれ」
「はい。いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
俺には特になにも言わず、最後にチラリと視線を送るだけで、ドアを開けては出て行く所長だった。
さて。
俺は俺で今晩にも起きるという放火について頭を巡らせることにしよう。張り込みをする予定ではいるものの、場所も特定していないし時間だって決め兼ねている。
これは俺一人でもいいのだけれど、逸美ちゃんもついてくる気満々でいる。
でもまずは、今日仕入れた情報を教えたよう。
「今日俺が聞いたのは、まず歯医者さんでは北高の女子と中央高校の男子の目撃談。一応、北高は男子の目撃談もあったみたいだね。で、公園では、夜の犯行前後に見かけたって話はないんだけど、昼間に見かけた人がいたよ。観察してるみたいだって。その人が言うには、放火のための下見だろうってさ。二人いて、どちらも高校生。それも、北高女子と中央高校男子。ああ、でも。浅野前さんが中央高校の男子生徒を見た人がいたって言ってたな。でもいつだろう。深夜のことか、それとも昼間のことか。ちなみに、オフィスビルではなにも聞けなかった」
「そっか。北高の女子と中央高校の男子ねぇ……」
「あとさ、晴ちゃんから聞いたんだけど、凪を見た人がいたんだって。確かそれは歯医者さんのとき。だからきっと、その中央高校の男子っていうのは凪だと思う」
逸美ちゃんが目を細める。
「開くんは、凪くんが犯人だと思ってるの?」
そこまで言ったつもりじゃなかったんだけどな。
「可能性としてね。目撃談と今回の事件への関わり方がおかしい。あくまで可能性は捨てられないって思ってるだけ」
「うん。でも、本当にそうとは思っていない、というか、断定してないよね、全然」
「あいつの性格的には、やるなら、もっと違うことをしそうだと思ってさ。火というより風だから」
「火より風、かぁ。そういえば、小アルカナのスートには、『剣』っていうのがあるのよ」
「ああ。他にもスートってあったよね。全部で四つ?」
「うん。タロットでは、棒、聖杯、硬貨、剣の四つ。『剣』はトランプでいうところの『スペード』に当たるわ。そして、四大元素では『風』に当たる。ちなみに、それぞれのスートの意味はね、棒・火・クラブは富。聖杯・水・ハートは愛。硬貨・地・ダイヤは金銭。そして、剣・風・スペードは死。唯一の危険信号がこのスート。でも、単純にわたしが凪くんを風っぽいって言ったのも、別に悪い意味じゃないのよ」
「それはわかってるよ」
これが極上のミステリなら、誰が犯人なのか疑うなんて、語り部は最後の最後までしないものなんだろうけれど、ただの高校生の少年探偵にはそんな名探偵のような真似はできないさ。
「でも逸美ちゃん、なんで俺が凪を疑ってるって思ったの?」
「そんな顔、してるもん。お姉ちゃんにはなんでもお見通しなのよ」
まったく。敵わないな。しかし凪犯人説を立てるには、目撃証言以外の根拠がまるでないのだ。だからその説について考えることは、いまはやめることにした。
さて。
「それで、クリーニング店前にあったっていうタロットカードは、なんだったの?」
逸美ちゃんは手帳を繰る。
「うん。それなんだけどね――『星』よ。『星』の逆位置。意味は、幻滅・失望・高望み・無気力・悲哀。正位置においては、希望とかひらめき、願いが叶うっていう、いいカードなんだけどね」
「意味が百八十度違うね」
「写真がこれよ」
逸美ちゃんがケータイを見せてくれる。
逆さまになったカード。湖のようなところから、女性が壷で水をすくっている絵だ。女性の頭上には大きな星があり、カード下部には「THE STAR」と書かれている。
にしても、幻滅や失望というのは意味がありそうだ。悲哀も意味付けしやすそうである。
さっそくだけれどもののついでに、今日の張り込みについての算段でもしようか。
「逸美ちゃん。張り込みは、場所と時間を決めて集合する?」
「うん。いいよ」
場所、時間、持ち物を決めて、俺と逸美ちゃんは今日の晩、現地集合をすることにした。
夕方前に探偵事務所を出た俺は、まっすぐ家に帰った。
家では花音が居間でテレビを見ていた。
「花音。今日、お母さんいないんだよね?」
「うん。この前言ったじゃん、仕事のアレだって」
「アレじゃわかんねえよ。飲み会だろ? お父さんも今日は出張で泊まりだしな」
「土曜日に出張とか大変だよね、お父さん」
「しょうがないよ。仕事なんだし。花音、今日の夕飯は、冷蔵庫のもので適当に食べろって言われてるんだけど、何時くらいに食べる?」
花音が目を輝かせる。
「え? お兄ちゃん、料理作るの? 早く作ってっ!」
「もう食べる気かよ」
花音は手をパタパタさせて、
「だってお兄ちゃん、ほんとは料理うまいのに、全然作ってくれないんだもんっ。たまにしか食べられないんだもんっ」
「たまにでも作るだけマシだろ。じゃあ七時くらいでいい?」
「いいよー」
あっさりとした返事だ。
「あと、俺夜出かけるから、おまえは早く寝とくんだぞ」
「ええー。お兄ちゃん、留守番しなきゃダメなんだよー」
「用事があるんだよ」
「もしかして、まひるお姉ちゃんと会うの?」
まひるお姉ちゃんって。いつの間に仲良くなったんだか。よく朝のあの時間で仲良くなれるものだ。
「違うよ。別の事件」
まあ、正確には同じ事件なんだけれど。
「ふーん。まひるお姉ちゃんに遊んでもらおうと思ったのに。もう、わかったよー」
よろしい。でも一応、母親にはバレないようにしなければならない。つまり花音に口止めしないといけないのだけれど、夕飯にオムライスでも作ってやれば大人しくなるだろう。
このあと、「夕飯はなにー?」と聞いてくる花音にオムライスだと言ったら口を大きく開けて喜んでいたので、問題ない。
逸美ちゃんと約束した時間は、夜の十時。
放火事件が起きるのが、夜の十時半から深夜一時のあいだということから、ちょっと早目にスタンバイするわけだ。
場所は、クリーニング店から歩いてすぐのコンビニの前にした。
クリーニング店の前だと、他にも張り込みをするような人がいたり、変に俺と逸美ちゃんがそこにいるのを見られたりするとあとで面倒だ。だから、少し離れていて人がいても自然な場所を集合場所にしたのである。
持ち物は、カメラ。
これは逸美ちゃんに任せているので、特に俺が準備するモノはない。
さて。
妹がオムライスのケチャップで口の回りを赤くしながらバクバク食べているところに、しっかりと口止めをする。
「うん、お兄ちゃんのオムライスおいしかったし、わかった」
聞き分けよく返事してくれたので、俺も心置きなく張り込みに行くことができるというものだ。
洗い物も済ませると、俺は家を出ることにした。
犯人を無事捕らえることができれば、この件はそれで片がつく。
果たして犯人に出会えるものか……。
夜道を歩きながら考える。
もし犯人が屈強な大男だったら、捕まえるどころか声をかけるのもためらってしまいそうだ。逸美ちゃんも傍にいたら危険なことはできない。
マフラーに口をうずめるようにしながらつぶやく。
「ま、あんまり考えても仕方ないんだけどさ」
そんなことはわかっていても、考えながら歩く俺だった。