第三章4 『歯科医院の犬の置物』
このたびの三人での現場検証企画が立ち上がったのは、そもそもとして浅野前さんがメールでいっしょに放火現場を見たいと申し出たからだ。
だから、回る場所が三つしかない理由として、ちょうど浅野前さんから連絡が来る前にそれ以外は回っていたということにした。
「そうでしたか。わたしも今日一日で全部回れるかはわかりませんでしたし、そうですよね、三つくらいのほうがいいのかもしれませんね」
と、少し残念そうではあったけれど納得してくれた。
しかし。
「でも、昨日柳屋さんが言ってましたよ。明智さん、密さんといっしょにレンタルビデオ屋で聞き込みしていたって」
凪のヤツ、浅野前さんに俺の話をしたのか。
「店員さんから話を聞けそうな喫茶店とレンタルビデオ屋については、助手の逸美ちゃんと先に聞いておこうと思ったんですよ。それくらいはこっちでしておかないと」
「そうですよね。わたしといっしょより、密さんといっしょのほうが聞き込みはしやすいですよね」
浅野前さんは、おまえでは実力不足だと言い渡されて一軍から二軍への降格を宣言された野球選手のような顔をしていた。
「いえ。俺、もともと郷ちゃんと三人で行くと思っていたので、三人より二人のほうが聞き込みには向いている場所を選んだだけですよ」
すると浅野前さんが足を止めた。俺と郷ちゃんも足を止める。
「それもそれで複雑ですね。明智さんは、女の子からのお誘いがあったのに、二人で行く可能性は考えなかったんですか?」
「え?」
捜査に行くのとデートに出かけるのを一緒くたにするような言い方をされても、それはそれで困るのだけれど。
「嘘ですよ。冗談です、冗談」
浅野前さんは同年代の男の子とのおしゃべりを楽しむ乙女のようにふふっと笑った。
「明智さんの困った顔が見たかっただけです。ごめんなさい」
「いいえ。ほんと、困っちゃいましたよ」
さっきまで困った顔でぽけーっとしていただろう俺だけど、それが冗談だと言われても結局困った顔で笑うしかできない。つかみきれない人だ。
「明智さんって可愛いから、つい試すようなことしたくなっちゃうっていうか」
「開が可愛いということには賛成だが、開に変な絡み方をするでない」
と、今度は郷ちゃんが言う。
「えー。蒲生さん、明智さんを独占しようとしてるんですか?」
揶揄するような意地悪な言い方を浅野前さんにされて、郷ちゃんはたじたじになって言い返す。
「やめんか! からかうでない!」
それから、郷ちゃんが俺と浅野前さんの背中を押した。
「まったく、なにくだらんことを言っておるか。わたしたちは、現場を見に行くのであろう?」
歩きはじめる浅野前さんはおかしそうに笑った。
「あははっ。そうですね。さすがは蒲生さん、目的がハッキリしてらっしゃいます」
「おちょくるのはやめんか。それに、わたしの開にちょっかいを出すな!」
俺は苦笑いで、
「郷ちゃんのものになった覚えはないよ」
「む……。言葉の綾だ」
これも、逸美ちゃんのそれと同じ姉心というやつなのだろうか。郷ちゃんからは俺に対する庇護欲のようなものを感じるしな。
それにしても、逸美ちゃんは郷ちゃんのことを気にしているようだったけれど、郷ちゃんのほうはそんなこともないよな。元からあまり考えない性格をしていたし、郷ちゃんらしいといえば郷ちゃんらしい。
逸美ちゃんのほうが郷ちゃんよりひとつ上なのに、郷ちゃんのほうがしっかりしているというか、自立できているように見えるし、逸美ちゃんはなんだかんだ俺がいないとダメな感じがするから仕方ないか。まあ、本人には言わないけれど。
歯科医院は犬の置物がなくなってさっぱりしていた。
放火があったのは三日前ということになるから、置物の撤去もすでに済んでいるのだろう、燃やされたのが置物だけということもあって、壁のすすけた汚れもなく、傍目には犬の置物がなくなっただけに見える。
「開。なつかしいな。ここには、犬の置物があったんだぞ。覚えているだろう?」
「うん。俺はいまでもここに通ってるけど、郷ちゃんは?」
「わたしもだ。高校入学と同時に戻ってきたが、それ以来またここに通っている」
浅野前さんに聞いてもよかったのだけれど、もし彼女も通っているなら新聞を俺に見せたときに言っているだろう。
「写真を撮っておきましょう!」
「いや。浅野前さんはしなくても大丈夫ですよ。俺がやりますから」
「いいえ。わたしも参加したいので」
ならばもう言うまい。参加意欲が強い彼女のことだ、これくらいは自分でも役立てると考えていそうだ。
郷ちゃんが胸の前で腕を組んで、
「開、どうするのだ? 中に入って話でも聞くか? ならば、わたしが聞いて来てやろう」
「なにも一人で行かなくても。いっしょに行こうよ」
「そうですよ蒲生さん。水くさいです」
「う、うむ。そうだな。みんなで行くか。わたし一人でもできるのだがな」
ははーん。さては郷ちゃん、姉貴分として、俺の前でいい恰好をしたいんだな。いつもはカッコイイ郷ちゃんだけれど、こういうところは可愛いな。
「こら開! なにをニヤニヤしておるか! 行くぞっ」
「うん」
待ってくださーいと浅野前さんが郷ちゃんと俺の後ろをついてくる。石造りの階段を上って、先頭の郷ちゃんがドアを引いた。
カランカラン。
涼しげなドアベルが鳴った。
スリッパに履き替えて、郷ちゃんを先頭に受付に行く。
「すみません」
「はい。診察カードと保険証を出してください」
マスクをつけたお姉さんに言われて、郷ちゃんがせっせとカバンから財布を出そうとする。
「いや、違う。そうではないのだ。そうではなくて、聞きたいことがあるのですが」
「あら。保険証をお忘れですか?」
「持っているのです。保険証は常に財布に入っているのだ」
「診察カードのほうでしたか」
「うむ。それは、引出しに入れていたので、いまは……ではない! 聞きたいことがあるのですが」
「大丈夫ですよ。次は持ってきてくださいね」
「そうか、大丈夫か。次からは気をつけ……ではない!」
そろそろ茶番みたいな会話を収めてくれないか。いや、見ているのも楽しいのだけれど。
「先日の放火に際してなのだが、よろしいですか?」
「……ええ」
「では、それを教えてください」
堂々とそう言った郷ちゃん。
しかし受付のお姉さんは困り顔だ。
「それと言われましても」
これはもうどっちもどっちでダメだった。
やっぱり、郷ちゃんは聞き込みには向いていない。この様子では、なにを聞くかすら考えていなかっただろう。受付のお姉さんも困り果てているじゃないか。郷ちゃんが助けを求めるようにこちらを振り返るので、俺が横から聞いた。
「すみません。僕たち事情があって、連続放火事件について調べているんです。だから今日は診察ではないんです。それに、いつもなら予約を入れますけど、今日は入れてませんし」
と、冗談めかしたように言う。これで、この受付のお姉さんが俺のことを知らなくても、俺がここの常連客だとわかるだろう。こういうのは心の距離が大事なのだ。お姉さんはマスク越しにニコリと微笑み、
「そうでしたか。今日は違うんですね」
どうやら俺の顔を知っている口ぶりだった。これなら変に怪しまれずに話が聞ける。
「それで、どんな話が聞きたいんですか? わたしにわかることでよろしければ、お話します」
まずはいかにも期待しているように、
「ありがとうございます。質問、させてもらっていいんですか?」
その期待が相手に向けてのものだと認識させるため、あえて確認を取るよう疑問形にして返した。このとき、助かりますとか言ってしまうと、自分の情報がなにかに使われる可能性を考えるから、あくまで言葉選びは慎重にする。
お姉さんはさらにニコリとうなずいてくれた。
「いいですよ。なんでも聞いてください」
さて。『わたしにわかることでよろしければ』から『なんでも聞いてください』になったところで、質問を開始させてもらおう。
「犯人の目撃談って聞いてないですか? どんなささいなことでも構いませんので」
「それなら、高校生を見かけたって方が数人いましたよ。中央高校の男子生徒を見かけたとか、北高の女子生徒を見かけたとか、北高は男子生徒の目撃談もありましたね。他の高校もあったかもしれませんが、わたしが聞いたのはそれくらいです」
なるほど。他にないだろうか。ほんとにささいなことでもいいから、もう少しほしい。悪いけどここは、知っているフリをさせてもらおう。
「……うーん。それはさっき聞いたのと同じだな……」
独り言をつぶやいて、相手の顔は見ないようにしながらも、反応を確かめる。
が。
ほう、と郷ちゃんが俺の隣で腕を組む。
「開はすでにそこまで知っていたのか。わたしに言ってくれればいいものを」
いや、知らなかったが。頼むからいまは黙っていてくれ。
お姉さんは眉根を寄せて考えて、やがて、
「あ、参考になるかわかりませんけど、女の子の目撃談もありますよ。十一時の何分かな、五分かそれくらいから、女子高生が現場から少し離れたところで、口を押さえて怪しげに電話していたって、お客さんが言ってましたよ」
お、どうやらまだ情報を持っていたらしい。こういうとき、期待されている分、その期待に応えたい、もしくは応えなきゃという気になる。自分の提供した情報を相手が既知だった場合、もっと深く考えてより深い情報をくれるものなのだ。
俺は初めて知った情報に驚く調子で、「そうだったんですか」と笑顔を作って喜んでみせ、
「ありがとうございます」
心から感謝した。情報が役立つか否かはわからないけれど、感謝の念を忘れてはいけないのだ。
それにしても、また高校生か。しかし北高も中央高校も合わせると、レンジが広いな。ただ犯人はいよいよ高校生に絞ってもいいように思う。また、怪しげに電話をしていた女子高生というのも気掛かりではある。現場からは少し離れた場所だから、事件とは関係がないのかもしれないけれど。
もうひとつ聞いておこう。
「あの。犬の置物ってどうされましたか?」
「それはもう、処分してしまいました。ほとんど原形を留めていなかったので」
「残念です。いつも見ていたので、さみしいですね」
「そうですね。でも、建物に被害がなくてよかったですよ」
「怪我がないのが一番ですからね」
横で一生懸命メモを取っている浅野前さんからは質問はなさそうであり、郷ちゃんも質問なんて思い浮かばないようでもある。だったらこれで引き上げてもいいか。
「いろいろと教えていただき、ありがとうございました。とっても参考になりました」
いいえ、とお姉さんは優しく微笑む。
「でも、なんで放火事件についてを?」
やっぱりそれ、聞かれるか。なんて答えよう……。
「わたしたち、新聞部の者なんです! 今日は貴重なお話ありがとうございました! 記事を作る際の参考にさせていただきます! では急ぐので失礼します!」
俺が適当な口実を考える前に、浅野前さんが押し切るように説明してお礼まで告げると、受付のお姉さんも笑顔で「はーい」としか言えず、俺たちは逃げるように外に出て行った。




