第三章2 『自動販売機Ⅱ』
今日は週に二回の体育が一時限目からあり、朝からは動きそうもない身体を縮こまらせて、またも晴ちゃんとサッカーの試合を見学している最中のことである。
晴ちゃんは言った。
「さっそく噂になってるみたいだよ。明日また、放火があるんだってさ。おれの聞いた話だと、ハナミズキ通りのクリーニング店周辺らしいね」
これは今朝、浅野前さんから聞いた話と合致していた。この二人の証言に齟齬がないということは、おそらくこの情報は真実、明日にはまた放火が起きるのだろう。
凪も言っていた――情報はひとつのソースからでは信頼性に欠ける、と。こうして二つのソースから裏付けされれば信頼に足るといえるだろう。
「聞いたよ。依頼人がさ、そういう噂だって言ってた。さすがは晴ちゃん、耳が早いね」
「そんなことないよ。いまは情報化社会だからね。いくらでも入ってくるよ。まあ、おれの場合は伝聞だけどね。ああ、伝聞って、電子メールの電文じゃないよ」
「わかってるよ」
つまらない冗談を人のよい笑顔で説明する晴ちゃんである。
「それより、おれは開ちゃんに驚いたよ。こういうことって、開ちゃんは知らないこと多いから。あとさ、おれは開ちゃんの噂も聞いたよ。昨日ワールド・オブ・システムの前で、聞き込みをしてたんだって?」
もうそんな情報まで入ってきていたか。
「うん。でも、なんで知ってるの?」
「おれの友達がさ、見かけたらしいんだ。五組の小中くんだよ。小中高大くん」
コナカタカヒロ? 悪いけど、まったく心当たりがない。
「開ちゃん昔から、目立つから顔と名前すぐに覚えられるもんね」
「まあ、知らない人から声かけられて、誰だって思うこともあるけどさ」
「それでも、一年も同じ学校で生活していれば、同級生くらいは覚えているものだと思うけどね」
「晴ちゃんは特別だよ」
これ以上は事件について詳しく聞けるようなこともなく、サッカーボールをぼんやり眺める俺に、晴ちゃんは言った。
「なにかわかったら連絡するよ」
今度は俺を目撃した話ではなく、犯人の目撃談だとうれしい。晴ちゃんの善意に感謝して、あとは自分たちの試合の順番が回ってくるまで、なんでもない話をしただけだった。
昼休みになり、この前と同じ時間に自動販売機の前に行けば郷ちゃんに会えるかと期待して足を運んでみると、案の定、郷ちゃんは自動販売機の前で立ち尽くして考え込んでいた。
「……予想通り」
独りごちて、近づいていく。
長い黒髪を白いリボンでひとつに束ねて、凛と立つ後姿。高い身長。見間違えるはずもなく、郷ちゃんだった。
覗き見れば、またコインを入れたのにボタンを押すのを躊躇しているらしかった。なるほど。これはあれだ。お約束というやつだ。だったらやるのがお約束である。
「よっと」
ボタンを押そうと手を伸ばす。しかし、腕をつかまれた。
「開だな」
よくわかったね。さすがは郷ちゃんだ。
郷ちゃんは俺の腕をつかんだまま振り返り、俺であることを確認すると得意そうに鼻を鳴らした。
「やはりな。だと思ったのだ。二度も同じ手はくわん」
戦に勝利した野武士のようにハッハッハと笑い、やっと俺の腕から手を離した。
「郷ちゃん、また悩んでるの?」
「そうなのだ。今日はリンゴジュースかバナナミルクで悩んでいた。どちらがよいものか」
「リンゴジュースだね」
「うむ。そうしよう」
言い終わる前にすでにボタンを押して、ガタコンとリンゴジュースが出てきた。
「俺はどれにしようかな」
目的通りに郷ちゃんに会うことはできたが、ここまで来てなにも買わないのもどうかと思ったので、またリンゴジュースでも買うことにする。
出てきた紙パックのリンゴジュースにストローを刺し、一口飲んで喉を潤す。少し酸味が効いていておいしい。頭がスッキリする。
「ねえ、郷ちゃん」
「ん? どうしたのだ?」
「昨日、一件目の放火があったっていう、廃工場に行って来たんだけどさ、思い出してね、郷ちゃんといっしょに行ったときのこと」
郷ちゃんは勉強ができないスポーツ選手が難しい英語の文章を見るような顔をして、やがて、それがアルファベットで書かれた日本語の文章だったと気づいたように顔を綻ばせ、
「おお。あれか。覚えているぞ。わたしと開で赤レンジャーをやったのだったな。なつかしい」
「郷ちゃんがなかなか赤レンジャーを譲ってくれなくてね」
「ちゃんとやらせてやったではないか」
「最後にはね。あと、ドングリを持って行ったのに、全然それでは遊ばなくて、全部捨ててきたんだよね」
郷ちゃんは首をかしげる。
「ドングリか?」
「前の日に、虫取りカゴいっぱいに入れて行ったじゃん」
「あれか! うむ。思い出した。結局、なんでドングリを廃工場なんかに持って行ったのだろうな」
「俺に聞かれてもね。言い出したの、郷ちゃんだし。むしろ俺が聞きたいくらいだよ」
本当に郷ちゃんとまたこうして話せる日が来てよかった。高校に入学してはじめて郷ちゃんを見たとき、俺は気づきもしなかった。母親から同じ高校だと聞かされて、郷ちゃんの存在に気づいたのは、しばらく経ってからだった。
去年の六月頃。
廊下で見かけたとき、郷ちゃんもこちらに気づいた。
「開か?」
「うん」
「わたしは郷里だ。覚えてるか?」
母に言われて、校内で見かけたとき、あれが郷ちゃんか、と思い当たってからは、そうだとしか見えなくなった。まったく昔の姿のままに思えた。
「随分変わったね。背が伸びたし、顔も大人っぽくなって、全然気づかなかったよ」
「開も変わったではないか。大きくなったぞ。成長している」
それから二言三言話し、「またな、開」と言ったものの、以降あまり会話らしい会話はなかった。いくら幼なじみとはいえ、お互い高校生になってどんどん大人に近づいていくと、そんなものなのだろうと思った。
ただ、昔みたいに「郷ちゃん」と呼べなかったのは、ちょっと残念だった。そう呼ぶには少し照れが入る。
しかしやはり、放火事件のせいとはいえ、郷ちゃんとまたこうして話せるのは、なんというか、うれしかった。また昔のように「郷ちゃん」と呼べるのもうれしかった。実は郷ちゃんが探偵事務所に来るまで、「郷ちゃん」とは呼べなかったのだけれど、少し話したら自然にそう呼んでいた自分がいた。焼け木杭に火がつくとはこのことだ。
目の前に郷ちゃんがいるのがもう自然に感じる。浅野前さんが家に迎えに来てくれることよりも当然に思える。
「浅野前さんから聞いたよ。郷ちゃん、弓道部だったんだね。今日も練習?」
「うむ。開は部活はやっておらんのか」
「高校に入ってからはやってないよ。探偵の仕事があるしさ」
「そうか。開もがんばっているのだな」
てっきり、最初に浅野前さんからいっしょに放火現場に行く話を聞いたときは郷ちゃんもついてくるものと思っていたけれど、部活があるのなら仕方ない。
「確認だけど、郷ちゃんは、俺と浅野前さんで今日の放課後に放火現場へ行くって話、聞いてる?」
「なぬ……!」
なんてわかりやすい驚愕だろう。まるで鬼でも見たかのような形相になって、間髪入れずに言った。
「開。わたしも同行しよう」
「え? 部活は?」
「そんなものは構わん。元はといえば、わたしの家が被害に遭ったことが原因である。浅野前だけに背負わせるワケにはいかんのだ」
「背負うとか、そう言うんじゃないと思うけど」
まあ、自分でそうと決めたらまっすぐな郷ちゃんだ。潔さもさることながら、決意も固い彼女に、俺はこれ以上説得を試みるつもりは毛頭なかった。
「よし。学校が終わったら、一度家に帰って、集合だな」
「いや、郷ちゃん。そんな面倒なことはしないで、下駄箱前集合だよ。そのまま現場に直行」
眉間にしわを寄せた郷ちゃんが俺を見て、
「なにを言っておる! 寄り道はいけないと、校則にも書いてあろうが。開は不良になってしまったのか」
また面倒くさいこと言い出したよ。そんなこと言う高校生いないって。でも、そこがいいところでもあるんだけど。
「俺は不良じゃないから。もう、そんなこと言ってると、郷ちゃんだけおいてっちゃうよ。回らないといけないところはたくさんあるんだから」
「むぐぐ……」
決まりの悪そうな顔もわかりやすく表情に出ている。
「なんて意地の悪いことを。嗜虐趣味にでも芽生えたか。姉も同然たるこのわたしに、なんて選択肢を迫るのだ」
変な選択肢を持ち出すからだよ。俺は呆れながらに心の中でつっこみを入れて、
「俺に嗜虐趣味なんてないから。それに、変な選択肢を追加しないで、いっしょに現場を見に行こうよ」
やっと決心したのか、郷ちゃんは肩で息を吸って、
「わかった。わたしも下駄箱前で待っているぞ」
「うん。決まりね。浅野前さんには、郷ちゃんから言っておいて。同じクラスなんだし」
「うむ。任せておけ」