第二章12 『バンザイジャンプ』
翌朝も花音が学校に出かけようと家を出ると、またまた引き返してきて大声で言った。
「お兄ちゃーん! 昨日のひと、きてるよー」
わかったよと返事をして、俺もさっさと準備を済ませる。
今朝は昨日より少し時間に余裕をもって起床したので、あまり待たせずに済みそうだ。しかし来るのが若干早いように思うのだけど。いまの時間に家を出たら、チャイムの二十分前に教室に入れる計算になるぞ。
準備が終わって、外に出る。
浅野前さんがいた。
俺の姿を認めると、パッと明るい笑顔になる。
「おはようございます、明智さん!」
ペコリと頭を下げて、赤いリボンを揺らした。
「おはようございます。早いですね。待たせてしまって、ごめんなさい」
と、彼女の前まで歩いていく。
「いいえ。わたしが早く来たかったんです。それにわたし、朝にはめっぽう強いもので」
「めっぽうですか」
逆に俺は朝強くないからうらやましい。
「それしても。いいですよねぇ、兄妹って。妹さんのお名前はなんというんですか?」
「花音です。フラワーの花に音って書いて、花音」
浅野前さんはブレザーのポケットからメモ帳を取り出す。
「花音さんというんですね。へえ」
名前なんてメモしてどうするのやら。メモ帳を常備しているのもそうだけれど、ちょっとしたことでもメモりたがるのは、凪に似てるな。
「妹がどうかしました? メモなんてして」
「いいえ。いいなって思ったんです。では明智さん、行きましょうか」
「そうですね」
登校中、浅野前さんは俺と郷ちゃんの昔話を聞きたがった。
「明智さん、もっとわたしに蒲生さんとの思い出話を聞かせてください! 蒲生さんのこともそうですけど、わたし明智さんのことも、もっともっと知りたいです!」
そう言われてもな。本当はあまり自分のことを話すのは好きではないんだよな。いやそれ以前に、昔のことだからどんなことがあったか、記憶を引っ張り出すのが大変だ。
「なにがあったかな……」
ぴょん、と浅野前さんは俺の目の前にジャンプした。
「なにかありますか?」
そういえば。
いまの浅野前さんのジャンプで、ちょっと思い出したことがある。
「バンザイジャンプ」
「ん? バンザイジャンプ……ですか?」
こんな奇妙な単語を聞いて「ああ、あれね」なんて言う人はいないと思う。言ってわかるのは郷ちゃんくらいのもので、しかしそれでも数秒間は考えてから、「おお、あれか」と言って、懐かしいなと笑ってくれるだろう。
俺は浅野前さんに歩幅を合わせて歩きながら、十年前の夏休みへと記憶を辿っていく。
バンザイジャンプを思いついたのは、川遊びをしていたときのことだ。
思いついたのは俺ではなく、十年前の郷ちゃんである。
十年前の夏休み、小学一年生になった郷ちゃんは近所の川に俺を連れてきた。
つまり当時俺は幼稚園の年長さんで、まだ六歳だった。
陽射しが強くてもおかまいなしに汗を流して走り回る俺たちは、夏休みに終わりがあることを知らない、はしゃいでいる姉弟のように見えただろう。
そこは近所にある川で、川幅は三メールあったかどうかくらい、背の高い大人なら立つことができるほどの深さだったと思う。いや、それよりもう少し深かったろうか。
最初はおそるおそる川に足を入れて、夏のほてった肌に沁みる水の冷たさを楽しんでいただけだった。
しかし。
川には、車一台分しか通れないような小さな橋が架かっていて、それを見上げた俺は言った。
「したから見ると、なんだかこわいね」
それを聞いた郷ちゃんは、腕を組んで考え始める。そしてその手を腰に当てて、
「開。飛ぶぞ!」
「どういうこと? きょうちゃん」
手足だけを濡らして、それだけでも満足だった俺と違って、郷ちゃんは言い放った。
「わたしはもう小学生なのだ。飛ぶのもこわくはない!」
「やめようよ。あぶないよ」
俺は止めたが、わんぱく娘の郷ちゃんは聞きもしない。
「まっていろ! 飛んで見せてやる!」
タッタッタと橋の上まで駆けて行って、そこから橋の下を見る。
郷ちゃんの顔が歪んだ。怖かったのだろう。高さが三、四メートルもあれば小さな子供には十分に怖かった。
「きょうちゃんやめよーよー」
下から呼びかけても、郷ちゃんは下りてくる気配がない。普段姉貴ぶっているからこそ、こんなところで弱い姿を見せられなかったに違いない。
ちょっとのあいだ立ちすくんでいた郷ちゃんだったけれど、急になにか思いついたように両手を空高くに上げるポーズを取って、顔が晴れやかになった。
「バンザーイ」
俺はなにをしているのかわからない。
「なにしてるの?」
「きょうテレビで見たのだ。せーじかのおとなたちがバンザイをしていた。勝ったらバンザイをすると、母さんは言っていたのだ」
「なんできょうちゃんがしてるの?」
郷ちゃんはヒマワリにも負けない笑顔で、
「わたしは、こわいのに勝ったのだ! こうすれば、勝ったからもうこわくはない! 飛べるぞ、開!」
「うんっ!」
俺は、いつものカッコイイ郷ちゃんが戻ってきた気がして、ワクワクした。さっきまでの怖がっている郷ちゃんはもうそこにはいなかった。ヒーローショーで憧れのヒーローを見るみたいに郷ちゃんを見上げていると。
郷ちゃんは飛んだ。
ザバーンと水しぶきが上がる。
キラキラと光る水しぶきが顔に跳ね、郷ちゃんがどうなったのか見てみると、すうっと水面に浮き上がり、俺の前まで泳いできた。
土手に上がり、郷ちゃんは胸を張った。
「バンザイジャンプなのだ」
俺は楽しくなって笑った。
「すごいね! きょうちゃんすごーい」
郷ちゃんがカッコよくジャンプするのがうれしかったのかもしれない。
得意そうな顔をして郷ちゃんは言った。
「開、お前も飛んでみろ」
「え。むりだよ」
「だいじょうぶだ。わたしもいっしょに飛んでやる。いっしょにバンザイをすれば、こわいのに勝てる!」
「うん、わかった」
郷ちゃんを信頼していたからもしれないし、バンザイをすれば本当に恐怖に勝てると思っていたのかもしれない。
それから俺は、郷ちゃんと橋の上に行って、いっしょに手を上げた。
「バンザーイ」
二人でそう言って、迷いもなく飛んだ。
意外と怖くなかった。水しぶきの音も楽しかったし、ジャンプ自体が気持ち良かった。
「バンザイジャンプをするぞ」
先に土手に上がって待っていた郷ちゃんは、俺が上がるとすぐにそう言った。
「バンザイジャンプするっ」
恐怖はもうなくなっていた俺は、すぐに賛成した。
そのあと。
俺たちは何度もバンザイジャンプをした。子供は一度大丈夫だと確信したものに恐怖心などなくなるもので、あとはひたすら「バンザーイ」と手を上げて、時にはいっしょに、時には交互にジャンプした。
全身びしょびしょになって帰ったら、また母親に怒られて、郷ちゃんが謝るのにつられて俺も謝ったのだった。
そんなことを話しながら、俺は今日もまた、浅野前さんと学校へ向かうのだった。
結局、連続放火事件についての話をすることなく、俺と浅野前さんは校門を抜けることになった。
「ごめんなさい。連続放火事件について、なにも話してませんでしたね」
そんなふうに話題を振ってみると、浅野前さんはふと足を止めた。俺の足もそれに合わせて止まる。
「いえ。いいんですよ。こうしてお話できるだけで、わたしは楽しいですから」
「聞き込みは明日でいいですか?」
いまはあまり聞くことはないと思ったので、メールで確認したことを再度尋ねた。
「はい。わたしは帰宅部ですから。放課後はヒマなんです。予備校には行ってますけどね」
「そうでしたか」
聞いていなかったけれど、郷ちゃんはなにか部活に入っているのだろうか。運動部に入っていそうなイメージだ。
浅野前さんは視線を下げて考えるようにしながら、
「実際、事件の詳細は、柳屋さんに聞くのがいいと思うんですけどね……」
ぽつりと、そう言った。
ちょっと待て。
柳屋?
俺の中で柳屋といえば、あの柳屋しかいない。柳屋凪以外にそんな名字のヤツに心当たりはなく、それ以上に一体全体、どうして浅野前さんが凪なんかを知っているんだ。
いや、まだ本人と断定できたわけではない。
「あの。柳屋って?」
浅野前さんは我に返ったように俺を見返した。
「いいえ。独り言です。知人にわたしよりこの件について詳しい人がいるので、今日あたり、その方に聞いてもいいかもしれないと思ったんです」
この事件に詳しいということは、やはり柳屋凪である可能性が高い。もったいぶる必要はないと思ったので、単刀直入に聞く。
「それって、柳屋凪ですか?」
浅野前さんは大きな瞳をひと際大きく見開いて、驚きを表現した。
「明智さん、知っているんですか?」
「なんていうか、中学時代のクラスメートです」
それ以上でもそれ以下でもない。あいつが俺を勝手に相棒とか大親友だとか言っていただけだ。
「まさか! お二人が知り合いだったとは」
むしろ逆だ。浅野前さんと凪との接点がいかなるものか、そのほうが気になるし、意外だ。
「浅野前さんは、凪とはどういう関係なんですか?」
「ああ、はい。そうですよね。わたしと柳屋さんとの繋がりのほうが予想外ですよね。ええとですね、柳屋さんとは予備校がいっしょなんです」
「予備校?」
「はい。あ、でもそれじゃあ学年が違うから、話す機会なんてないって思いますよね? 実際、ないんですよ、本来は。ただ自習室というのが常に解放されている予備校ですので、そこで話すキッカケができたんです。あれは、先週の火曜日でした。わたしが自習室で新聞を開いて、自分のメモ帳とにらめっこしていたときです。そのとき、唐突に声がかけられたんですよ。『犯人ってどんな人だと思う?』って」
切り出し方が凪っぽいな。注意を引きつけてから名を名乗るだろう、凪は。興味本位で質問してから、あとから思い出したように名乗るタイプだ。
「それで、浅野前さんはなんて?」
「わたし、ちょっとビックリして。月並みなことしか言えませんでした。『知りません』って。そしたら柳屋さんは続けて、『ぼくは、高校生の可能性を考える。それ以外で言うなら、そうだね、悪い人、かな』。おもしろいことを言いますよね、柳屋さん。わたしは『確かに、放火をするのは悪い人ですよね』って答えたんです。すると、『その緑色のリボン、北高の二年生だ。ぼくは柳屋凪、中央高校の一年生さ』。そう自己紹介されて、わたしもとっさに『わたしは浅野前まひるです』と挨拶しました。以降、互いに放火事件について関心があるということで、話をしたんです」
あの凪の性質を考えると、人に声をかけるのをためらいはしないが、するなら興味がある場合、つまりこの件にはかなり関心があるとみえる。
「でも一度だけですか? 話をしたのって」
「いいえ。なぜだか、翌々日にも図書館でバッタリ会ってしまって。そのときにも話をして、それ以降は見かけたら少し話すようになったくらいです。今日も予備校があるので、すれ違うことがあれば、また話をすることになるでしょう」
ふぅん。しかし凪が取る行動パターンとしては首尾一貫している。俺の知っている凪の行動パターンは首尾一貫などせず滅茶苦茶なのに。
それにしても、こんなところで意外な人物と意外な人物が繋がるとは思わなかった。ブレザーからメモ帳を取り出す浅野前さんの姿が、メモ帳を持つ凪の姿とイメージが重なった。浅野前まひると柳屋凪の接触……なんて偶然なんだ。
いや、必然か?
偶然を誘発する材料を誰かが持っていると考えることは、果たしてできるのだろうか。
……まあ。いま考えることでもないな。
この事件を追っている限り、また凪には会うだろうし、浅野前さんが今日にでも凪から話を聞くことになる。
俺もこの偶然に組み込まれた一人なら、きっとそのうち……。
「明智さん。そろそろ行きましょうか。そうしないと、五分前に教室に入れませんよ」
「浅野前さんは行動が早いですね。俺なんていつもギリギリに登校するのに」
「逆ですよ。行動が遅いからこそ、早めに動き始めるんです。わたしは何事にも時間をかけてしまうタチなので」
「そうは見えませんけどね」
俺と浅野前さんは昇降口まで並んで歩いて、そこで昨日と同じように別れた。
「明智さん、ではまた」
と手を振る彼女に手を振り返し、俺は一人一年一組教室へと歩いていった。