星におかしなまじないを
11月3日19時頃に本文ラストを少し修正致しました。
星見の塔には近寄ってはならない。この町の子供達は皆そう教わって育っている。塔の近くで遊ぶことも、ホウキで近くを飛ぶことも禁止だ。
魔物が棲んでいるだとか、怖い魔法使いが実験をしている。それに、幽霊が現れる。理由は様々なことが言われていて、どれが本当のことなのか今ではすっかりわからない。
けれど、不気味な獣の声が聞こえていくる。そんな噂は時折囁かれていた。
ササラもその教えを聞いて育ったものの一人だ。
この時期はお菓子の注文が多くて、ホウキで飛ぶことのできる歳になってからはササラも手伝いに借り出されている。家族経営のパティスリーだから猫の手も借りたい状況なのだろう。ササラも手伝えることがあるならと、文句を言わずに手伝っていた。
ただし、今日はやけに注文が多かった。一度戻ってきたのに再度出かけるはめになった程だ。文句の一つも言いたくなったが、忙しそうに駆け回る両親の姿を見ればそんなことは言えない。
「悪い、急ぎのものはないから!」
父はササラを送り出しながらそう言っていた。ササラがホウキに乗って再度飛び出した時なので、もしかしたら聞き間違えている可能性もあるが。
急ぎは無いからと、籠の上のものから順番に配っていって残り二つとなった時だ。
ちょうど時計台の鐘の音が響いた。七時の鐘だ。
この鐘が鳴り終わる頃には終われるだろう。そう思って片方の包みを見て、驚いた。
アルファ教会、七時頃までに。
もう七時だ。慌ててもう一つの包みを見ても、そちらには時間指定が書かれていない。それならばとササラは急いで教会へと向かった。
お父さんの嘘つき! と心の中で父に怒鳴りつける余裕すらないほどに急がざるを得なかった。
鐘の音が鳴り終わる前にシスターに手渡して、さぁ最後の一つ! とササラは気合を入れて確認する。ふわりと空へと浮き上がりつつ札を見ると、教会とは真逆の位置だった。
籠の中に入れる際にある程度整理されているはずだが、今回は流石にそんな余裕がなかったらしい。今日くらいは文句を言ってしまってもいいんじゃないか。ササラは一人大きな溜息を吐き出した。
さて、どうしようか。屋根あたりまで上がってきて少し考えた。
時間指定はないので普段通りに飛んで行けばいいのだけれど、今日は疲れ果てている。魔力だって残りが少ないので、出来れば早く帰りたい。
普段通りに飛ぶと星見の塔を避ける遠回りの道のりだ。星見の塔の近くを急いで通り抜けさえすればかなり時間は短縮できる。
星見の塔の周りを成人するまでは飛んではいけない。近付いてもいけない。これがこの街の約束だ。
ぷかぷかとホウキに揺られながらササラしばらく考えた。風で少し揺れるホウキはササラの決断に焦れている様でもある。そして
(あと半月で成人だから、大丈夫!)
ササラは結論を出すと宙空を滑るように動き出した。
十八歳の誕生日は来月なのでもう大丈夫だろう。ここまでくれば誤差だ。四捨五入すれば届くなんてものじゃない。
ごちゃごちゃ頭の中では屁理屈をならべているが、実際のところは一日飛び回って疲れているので早く帰ってお風呂に入りたい。その一心だ。
とはいえ、星見の塔に近付くことは初めてだ。柄を握っている手に汗が滲んでいる気がする。
急いで飛びぬけるつもりなので、ぶら下げたカンテラの火を消しておく方がよかったかもしれない。バレたら怒られるかな。でももう成人だから大丈夫だよね。塔に住んでる魔物や幽霊が出たらどうしよう。
頭の中の屁理屈がどこかに去ると、今度は不安が占拠し始めた。ぐるぐると様々な言葉が巡っていく。
ホウキを強く握り締めて、星見の塔へと差しかかった時だ。ふわりといい匂いがササラの鼻をくすぐった。
「あれ、甘くて美味しそうな匂いがする」
ササラは自分の声が出たのかと思ったが、全く違う声だったのですぐに違うと気がついた。そして今度は見つかった! とホウキが跳ねた。
咎める言葉も続いてこない。おかしい、一体誰? とホウキの柄を握りしめながらゆっくりと首を動かして、固まった。
星見の塔の窓が開いていて、そこから銀髪の青年が顔を出している。
向こうもこちらに驚いているらしい。目を丸くして、何度も瞬いている。彼のラベンダー色の瞳は中の光が反射してとても煌めいていた。
「……えっと、魔女さんこんばんは?」
「こ、こんばんは?」
お互い何故か疑問符をつけて挨拶をしてしまっていた。
少なくとも魔物や幽霊の類には見えない星見の塔の青年のやわらかな笑みに、ササラはホウキを握り直して会釈を返した。
あの日は配達があったのですぐに飛び去ったが、「魔女さんまたね!」と背後からかけられた言葉に何となく立ち寄ってしまった。
お菓子の匂いに気がついて窓を開けていたようだったし、もしかしたら今度も同じかもしれない。
そう思って今日はパンプキンパイを籠にいれていた。父が焼いた商品ではなくササラが作ったものなので、見た目も味も少し劣り商品には無理だがお金をとらない分には全く問題ないものだ。
ランタンは星屑を燃やした魔法の炎をいれたし、ホウキの先だって綺麗に整えた。髪の毛も飛ぶ前に整えたのでそこまで乱れていないはずだ。
とまでして、何でこんなに気をつかっているのかと慌ててしまったが、ササラが引き返すより前に「甘い匂いがする!」と窓が開いていた。
窓から勢いよく顔を出した青年が、これまた勢いよく振り向いてササラの姿を捉える。前と同じ様に目を丸くした青年は、「こんばんは、魔女さん」とまたあの笑顔をこちらへと向けてくれた。
注文されたわけでもないパンプキンパイを持ってきたが、どうしようかと今更ササラが悩んでいるうちに向こうからお菓子が食べたいと切り出さた。有難いことこの上ない。
そうしてササラは今、近寄ってはならないとされている星見の塔の中へと招かれていた。
「へぇー。じゃあ、ササラは学生さんなんだ」
「あ、はい」
「それじゃあリゲルは知ってる? 君と同じ学園じゃない?」
「リゲルくんなら有名ですよ」
「へぇ……あの堅物坊ちゃんがねぇ」
アルグルと名乗った青年は魔法で高く浮かせたポットからカップへ、跳ねさせることなく紅茶を注いでいる。昔街へ訪れていた曲芸士の腕前にも劣らない程だ。
さぁどうぞとササラの前に紅茶が置かれ、パンプキンパイも並べられる。二切れだけ持ってくるのもおかしいかと思い、ホールにしたけれど流石に二分の一ずつはおかしい。
「あの、あと三等分にしてもいいですか? その一切れあれば十分です」
「そんなに少なくていいの?!」
「まぁ時間も時間ですし、夕飯も食べた後なので」
「そっかぁ……。じゃあこれは残りは有難く僕が頂戴することにしよう」
ササラの皿の上からきっかり三分の二を切り取って、アルグルは自身の皿へと移した。今食べるつもりらしい。
いただきますと言った彼はフォークをパイへと突き刺すと、一口にしては大きすぎる欠片を口へと運んでいる。そのまま入るのだからササラは感心してしまった程だ。
「あの、アルグルさんは」
「あるぐるでいーよ?」
「ア、アルグルはいつもここに?」
パンプキンパイを口の中いっぱいに頬張っている姿は、どうにも歳上には見えなかった。はっきりとした年齢は聞いていないのでわからないが、多分ササラよりは少し歳上だろう。同じ学園内では見た事がないので、三歳は離れていそうだ。
モゴモゴと口の中を動かして、紅茶で喉を潤した彼はこてんと首を横に倒した。確実に成人しているはずなのにその仕草は妙に彼に似合っている。
「あぁ、星見の塔の噂のことだ」
「そうです」
「うーん、僕はその真相をもう随分昔に知ってしまっているからなぁ。怖いとかそういうことは考えたことがないね」
そういうと彼はカップを置いてパイをもう一口食べている。美味しいねと言われて、ササラがお礼を言いかけたところでアルグルはあっと呟いた。
彼が手に持ったフォークの先がゆらゆら揺れる。アルグルの顔はいたずらっぽく笑っていた。
「ササラさぁ。まだこの近く通っちゃダメなんじゃない?」
「そんなことは」
「あるはずだ。君はこの前通った時、僕が顔を出したらとても驚いて固まっていた。つまり誰かに見つかってはいけないと思ったからに違いない! ササラは悪い子だ!」
芝居がかった口調とにやけた顔で言われ、ササラは戸惑った。アルグルは叱ったり怒ったりする訳ではないらしい。
これは多分からかわれているだけなんだろうか。そう思いつつ、ササラは両手を合わせてアルグルに頭を下げた。彼がよくても、他の者ならわからない。
「お、お願い! 他の人には黙っておいて」
「どうしようかなぁー。だって君はまだ成人しきっていない子供だろう? 子供はこの塔に立ち寄ってはならないと言われていたはずなんだもの。僕はこの塔に居る以上、言わなきゃならない義務があるんだよね。ほら例えばリゲルとか」
「リゲルくん?」
そこで何故最初に名前を挙げられた真面目な同級生が出てくるのか。ササラが目を瞬いていることも気にせずに、アルグルはまたパンプキンパイを一口食べている。
「リゲルはここの塔を管理してる一族なんだよね。僕は平たくいうと使われてる身分だから、リゲルに報告義務があって……黙ってるのも難しいんだよねぇ」
「そこをなんとか!」
リゲルは真面目で優秀な首席生徒で、とてつもない堅物だ。勿論アルグルはそんなことを分かっていて言っているのだろう。
ササラは直接話したことが一度もないが、彼がいかに真面目で、いかに優秀で、いかに……堅物すぎて厄介な同級生だということは知っている。真面目すぎて冗談がきかないのだ。
そんな彼にこんな未成年の魔法使いのササラが星見の塔に入り込んでいることがバレたら。しかも、彼はここを管理している一族だというのだから……想像しただけで身震いした。
「あぁ、ササラが震えるほど困ってるしなぁ……僕も黙っててあげたいんだけど、何にも無かったら口が動いちゃう」
「ど、どうすれば黙っていられる?」
そういうとアルグルはわざとらしく、困った様に微笑んだ。
「この時間って凄くお腹がすくんだよね。口寂しいとお喋りになっちゃうかもしれないから、今日みたいにササラが作ったお菓子を毎日運んでほしいなぁ。勿論ずっとなんて言わないから、一ヶ月間お願いできないかな?」
一ヶ月。一ヶ月もあれば終わる頃にはササラは成人だ。成人になるまでの間黙っていて貰えれば問題ない。
お菓子作りは趣味だし、費用はそれほどかからない。アルグルに今は少し脅される形になっているけれど、話していて嫌な気持ちはわかなかった。
手間やら叱られることやら、諸々のものを天秤にかけた結果は勿論わかりきっていた。
「のった……!」
「やった! ありがとう、じゃあリゲルにも他の人にも内緒にしておくよ。僕は約束は守るから!」
脅してきたにも関わらずあまりにもアルグルが嬉しそうに笑って再びパイを食べ始めるものだから、ササラはすっかり毒気が抜かれてしまった。
アルグルはこの星見の塔で、星の観測を行っているらしい。七回目に訪れた際にはちょうど時間だったらしく、塔の上部にある展望室へと案内してくれた。
アルグルが壁の一部に手を触れると屋根が少しずつ動き出して、天井に大きな空間が開く。それでも冷たい風が入り込んだりはしないので不思議に思ったササラが訊ねると、彼は自慢げに魔法の説明をしてくれた。
「ここは特殊な魔法を使っていてね。たしか五百年ほど昔かな。この街が出来た頃の魔法で今はもう使い手がいないらしい」
「星を見る為だけにこんな大きな魔法をかけたんだ……」
「まぁそれだけってわけでもないけど、星を見ることは大事だよ? 星はざわめき、ささやき、時に落ちて僕らに伝えてくれるものだ。占星術なんかはそういったものだよ」
アルグルは年季の入った望遠鏡を大きく開いた空間に向けて置いている。時折覗き込むと近くの羊皮紙に何かを書き込んでいた。
勿論ササラも学園で占星術を習っている。それでもアルグルが行っているほど、様々なことは読み解けない。ササラが出来たのは三日後の天気を読み解くくらいだ。それも精々五割程の確率。天気予報にしては精度が低すぎた。
「アルグルは凄いね」
「そうかな? まぁ、僕の仕事はこれがメインだからね」
「他にもあるの?」
「勿論あるさ。でもそっちは僕がここに来てからはなかったかな。まぁ仕事は無いに越したことないよ」
「……サボり魔なの」
「失礼だなぁ。僕ほど真面目な仕事人はいないよ。一日たりとも休んだことはないんだから」
たしかに話しながらもアルグルは望遠鏡から目を離さず、手元を見ることなく何かを書きなぐっている。書かれている文字は汚いわけではないが、ササラには意味がわからないものだ。
研究者の魔法使いは本人にしかわからない文章を書くというので、羊皮紙に書かれた謎の記号達もそうなのだろう。アルグルはようやく接眼レンズから顔を上げたかと思うと、別の既に何かが書かれた羊皮紙と今書いたものとを見比べている。
ササラも隣に行って覗き込んでみたものの、さっぱり理解は出来なかった。羊皮紙からアルグルへと視線を移す。
先程までと同じ真剣な顔をしたアルグルの横顔を近くで見られると思ったのだが、彼のラベンダー色した双眸と視線が絡まった。パチリと大きな目が瞬きして、細められる。
その瞬間、心臓の辺りが魔法の手に掴まれたのかと思う程だった。きゅっと息まで細く締めあげられて、「何」と問いかけたはずの声はいつもより出ていない。
見つめようとした、いやその前から見つめていたのがバレたのだろうか。
気が気でないササラのことに気がついていないのか、アルグルはぱっと明るく笑っている。
「ササラ、今日も君からはいい匂いがするね」
アルグルはそういうと、少しだけ顔を動かしてササラの首元に顔を近付けて鼻を鳴らす。空気が揺れて、くすぐったい。
思わず身をよじったササラが見たものは、すぐに離れて立ち上がるアルグルだ。
彼はぐっと伸びをすると望遠鏡を片付けている。
「本当に美味しそうだから君の傍にいるとお腹が空いたよ。さ、一段落ついたからお茶にしよう!」
いい匂いはお菓子のことだったらしい。そんなことだろうと思ったけれど、妙にガッカリしてしまった。
そんなに匂いついているかな。気になったササラはこっそり自身の袖口を嗅いでみたが、それほど匂いがある様には思えなかった。
毎日お菓子を届けるうちにふと疑問に思った。アルグルには休みはないのだろうか?
ササラの家は小さなパティスリーだ。両親共に忙しそうに動き回っているが、安息には勿論休んでいる。
アルグルは星見の塔に毎日居て、休んでいる様子は見たことがない。誰かと交代しているということも無さそうだ。お菓子は一ヶ月間という約束だったので、もしかしたらその期間中は担当者が住み込みをしているのかもしれない。
――期間を終えると、アルグルは塔から居なくなるのだろうか。
ふとした疑問が頭をよぎった。この三週間ほどでアルグルとは色々なことを話しているが、彼が星見の塔に居ない間のことなんかはまだ一度も聞いたことはない。
どこ出身なのか。星見の塔に居ない間はどこに住んでいるのか。ササラはまだ聞いてはいなかった。
考え込んでいるうちに泡立て器を動かす音が煩くなる。どうやら魔力が乱れたらしい。慌ててそちらを意識して、いつも通りの感覚になる様に動きを戻した。ボウルから中身が飛び出したりはしていない様でほっとした。
ちらりと時計に目をやると十時を回ったところ。朝ご飯には少し遅いが昼ご飯にはまだ早い。
星見の塔の主な仕事は夜なので、もしかしたら昼間は寝ているのかもしれない。お菓子は夜に持っていくつもりなので、この時間には軽食の方がいいだろうか。
少し悩んでから、起きて摘める程度のものなら作って持っていっても困らないだろう。星見の塔には他に人が居る様子もなかったので、栄養素を色々といれておいた方がいいかもしれない。
お菓子作りに一段落がついてから、ササラは冷蔵庫の中身を見渡した。トマトとハムのサンドイッチくらいは作れるだろう。嫌いなものや食べられないものがあるか聞いていなかったことを思い出したので、できる限りシンプルにした方がよさそうだ。
冷蔵庫から必要なものを取り出していると「ササラ?」と名を呼ばれた。扉を閉めて声の主を見ると、母だった。
ササラが手に持ったトマトとレタスをまじまじと見ている。昼食の準備に使うつもりだったのだろうか。慌てて台の上に置くと、母はいいわよと笑っている。
「なぁに、いつものお出かけ先?」
……夜に出ていることもバレているらしい。一時間程でこっそりと出ていたつもりだったのだけれど。
お菓子については自分で買った材料を使っているが、これは家の食材だ。その辺りがまずいかもしれない。断りを入れようと母の顔を見るが、食材のことも外出のことも別段咎められる雰囲気でもなかった。
「うん、まぁ。サンドイッチ作るつもりなんだけど、使っても大丈夫?」
「いいわよー。珍しいわね、この時間だなんて。お昼に約束?」
「そういう訳でもないんだけど、何となく」
約束をしているという訳でもないので曖昧な返事になっていると、母はふふっと笑っている。
「ササラも女の子だもんねぇ。いつもの差し入れ、お父さんには秘密にしているから安心なさい」
「は?! いや、差し入れとかじゃなく、て」
咄嗟に否定してしまったが、サンドイッチは差し入れに間違いない。お菓子は向こうから振られた約束だが、あれも厳密に言えば差し入れに入るかもしれない。
まごついているササラを尻目に、母は楽しそうにサンドイッチの準備を手伝ってくれている。
「ササラがいつも会いにいくくらいだもの、どんな子なの? 同い年? 年下? それとも年上?」
「も、もう! 自分でやるから大丈夫!」
恋愛ごとだと決めつけて楽しそうにしている母から具材を取り上げると、背中を押して台所から退出させた。あらあらなんて笑っているので気にしていないらしい。
別にそんな相手ではないからと口に出そうと思ったけれど、何故だかそれは上手く口から出なかった。
母が去って静かになった台所で、頭を切り替えようとササラは軽く頬を叩いてから再び調理を始めた。
出来上がったサンドイッチを籠に入れると、ササラは裏口からこっそりと家を出た。母に見つかれば微笑まれるだろうし、父に見つかれば何かあるかもしれない。
幸い誰にも見つかることなくそっと出てこれたのでよかったが、星見の塔まで来てからが問題だった。
つい数日前に成人しているので星見の塔の傍にいる所を誰かに見られても問題はないが、まだ成人の儀を終えたわけではない。出来れば見つからない方がよかった。
その上、いつもと用事が全く違う。招き入れてくれるアルグルが起きているのかどうかもわからない。
いつもと同じ様に空を飛べば、昼間な分もあり目立つ。塔の入口からが正しいだろう。そう思って覗きこむと、ちょうど塔から出てくる人影が見えた。
顔がみえなくても、夜の様な落ち着いた黒髪としゃんと伸ばされた背筋には見覚えがある。リゲルだ。
彼にリゲルに見つかってはいけないと急いで近くに隠れると、リゲルとアルグルの声がこちらまで届いた。
「特に変わりはなさそうだな」
「何も無いよ。あぁ、アークトゥルスにもたまには顔出すようにって、よろしく言っておいて」
「わかった。伝えておくが、父さんは今諸国の魔法研究の旅に出ているからしばらく無理だな」
「はぁい、リゲル坊ちゃんも大きくなったねぇ」
「もう成人の儀も終えている。だからここに来ることを許されているんだ」
少しだけ顔を出してそちらを見ると、撫でようと伸ばされたアルグルの手はリゲルににべもなく払いのけられている。リゲルは眉を一度動かした後、身体を反転させてそのまま街へと戻っていった。……あまり仲はいいようには見えない。
二人の様子を見つからないように覗き込んでいたが、アルグルとばちりと目が合った。
おいで。リゲルの後ろ姿を見た後で、ぱくぱくと口を動かし声に出さずに伝えたアルグルは、くぁっと大きな欠伸をしつつ手招きをしてくれた。
彼のその仕草にやはりリゲルに黙っていてくれているのだとわかる。そんなことはわかっていたはずなのに、こうして秘密を共有しているのだと実感がわくと、妙に嬉しい気持ちになるのは何故だろう。
リゲルに気が付かれない様に足音に気をつけて、塔へと向かうとアルグルは少し眠たそうな目をして内側に開いた扉に寄りかかっている。仕事終わりだったのだろう。
「アルグル、これよかったら」
差し出した籠の中身を見て、アルグルは目を何度も瞬いている。
「サンドイッチ? またどうして」
「こっちに来る用事があったから何となく。朝まで起きてるんだろうなとは思ったから」
嘘だったけれど、アルグルは少し早口になったササラの様子にも気がついていない。というよりは、サンドイッチに意識を集中させている。
「そっか、ありがとう。お礼にお茶を出してあげたいけれど、今日はもう眠くて」
「気にしないで、私が勝手にやっただけだから。疲れてるだろうし、ゆっくり休んで」
「ありがとう。じゃあ、また夜にね」
「うん、あとで」
ササラもひらひらと手を振ると扉が閉まり、アルグルの姿は見えなくなる。
また、夜に。
ここまで来た時とは全く違う、軽い足取りでササラは街へと戻っていった。
「お菓子もこれが最後だなぁ」
カヌレを一つ摘みあげるとアルグルはしんみりと呟いた。いつもならすぐに食べているというのに、アルグルは口に運んでいない。
ササラの前にも注がれた紅茶は既に飲みやすいより温度まで下がっている。お菓子は食べていないが紅茶だけは二人揃って口に運んでいた。
今日はちょうど一ヶ月目。約束の最後の日だ。
最後の日ということもあって、手の込んだお菓子にするべきかとも迷った。いっそ最初の日と同じくホールケーキにするべきかとも思ったけれど、ホールケーキだとお祝いの様に捉えられるかもしれないと思ってやめた。
アルグルとこうして会うことはササラにとっては楽しみなことになっていた。この少し歳の離れた青年のことをもっと知っていきたい。恋なのかまだただの興味なのかはわからないけれど、わかるようになりたい。
だから、終わりになるかもしれないのにホールケーキを持ち込みたくなかった。普段通りで、それでもササラが自信を持って美味しく作れるものを選んでいた。
アルグルは自身の皿の上に載せたカヌレを眺めて、溜息をついている。
もし、この彼の仕草が、自分と同じ様にこの時間の終わりを寂しいと思っていてのことなら?
これからも持ってきてもいい? ササラが意を決して切り出そうとした時だ。
ササラが入ってくる窓とは別、塔の内部の扉が開いた。ノックもなしに開いたその扉の影から現れた人物はリゲルだった。
学園で見る時以上に眉間にシワを寄せている。リゲルはササラの姿を見て一度目を見開いた後、すぐにアルグルを睨みつけていた。
鋭いアイスブルーの眼差しがササラへと向けられたものではなかったが、それでも凍えそうな程怖かった。震えてしまったササラのことは気にもせず、リゲルはアルグルに詰め寄っている。
アルグルのローブの胸元が掴み挙げられ、身長の高い彼は少し屈んでいる。苦しそうに表情を歪めているかと思ったが、アルグルはいつもと同じ様に朗らかな笑みを浮かべていた。
「やぁ、リゲル。意外と早かったね」
「匂いが違う。――おい君、こいつに魔力を与えたな?! 解放されてしまうだろう!」
アルグルを掴む手はそのままに、リゲルはこちらへと顔を向けた。眼差しの鋭さはアルグルに向けられたもの程ではないが、それでもササラの肩は跳ねてしまう。
何を言っているのだろう。魔力なんて渡した記憶は一切ない。
「わ、私はお菓子を差し入れていただけで、魔力なんて」
「君、俺と同じ学年に居たな。確か見たことがある。名前はそうだ、ササラだったな。魔力制御が完全ではない未成年の作ったものには意図しない魔力が含まれている、知らないとは言わせないぞ」
リゲルが自分の様な一般の学生の名前を知っていたことに驚いたが、それに怯まずにササラは返答する。言われたことは勿論、学園で嫌になるほど習っていることだ。
「でもだからといって、影響はないでしょう? お菓子を作ってあげるなんて昔から行っていたし」
「こいつがただの人間であれば問題はなかった!」
胸元のローブを締め上げられる力が強められたというのに、アルグルは表情を全く変えていない。
いつも通りの、優しい朗らかな笑みだ。
アルグル? ササラが彼の名前を呼んで、反応したのはリゲルだった。
「アルグルか。なるほど、使われにくい方の名を選んだな。ササラ、こいつはラス・アルグル。君がよく聞くだろう名前ならばカプト・アルゴルだ」
「……カプト・アルゴル?」
ササラがおうむ返しにその言葉を呟くと、アルグルはにこりと微笑んだ。
彼がここで行っている仕事は星を見ることだ。星を見る、占星術の授業の中でササラは何度もその名を聞いていた。
カプト・アルゴル、全天中で最悪の凶星。悲劇的な死を司る星。悪魔の名のついた星だ。じゃあ、その名のついた彼は。
リゲルは先程、解放されると言っていた。じゃあ、彼はここに封じ込められていたのだろうか。リゲルの一族はここを管理していると言っていた、いつから。以前アルグルはこの塔が出来たのは五百年前と言っていた、それからずっと居たのだろうか。
頭が混乱して上手く言葉が声にならない。どの言葉を引き出していいのかもわからない。
ササラのその様子を見て、アルグルは「あぁ、また震えてる」と普段と変わらない声で呟いた。リゲルの締め上げる手が強くなっても、彼の様子は一つも変わらない。
アルグルは一瞬でリゲルの拘束から逃れると、机の上に置いていたカヌレを手に掴んだ。こちらから距離をとって窓際まで下がった彼に、窓から入る月の光が当たる。
彼の銀髪は柔らかな月の光を帯びて、蒼く輝いていた。それが解放されかかった魔力の所為とは信じたくない。
「もう遅いよ、リゲル。ササラから僕はお菓子を毎日貰った。何にも染まらない子供の魔法使いの力を注がれて、ちょうど今日が三十日目! 月はまた生まれ変わる! そうして僕は、また自由になる!」
リゲルが魔法を弾き飛ばすより早く、カヌレはアルグルの口の中に収まった。数回の咀嚼の後で、喉を通り抜けていく。
魔力が解放される瞬間はどんな魔法使いであっても暴走しがちだ。それを耐えようとぎゅっと目を閉じていても、風一つ起こらない。
そっと目を開いてみると、リゲルがササラの前に立っている。彼が庇ってくれたのかと思ったが、室内の様子は何も変わっていない。壁も屋根も壊れて荒れ果てるどころか、ササラが飲んでいた紅茶のカップすら倒れていなかった。
これは一体どういうことだろう。戸惑ってリゲルの影から顔を出し、アルグルの様子を見ても彼もこちらと似たような様子だ。
なんで。どうして。と何度も呟いている。
こっちが聞きたい。ササラがそんなことを思っていると、リゲルがこちらを振り向いた。
「君、誕生日はいつだ?」
「えぇっと」
戸惑いつつもササラが彼に告げた日にちは今から半月前だ。成人の儀はまだ挙げていないと伝えると、リゲルはしばらく考えた後で堪えきれないという様子で笑い始めた。
「あ、あのリゲルくん?」
「おい、アルゴル」
ササラの呼びかけを無視して、彼はアルグルに声をかけた。アルグルは少し泣きそうな表情になってしまっていて、それを見たリゲルは笑みを深めている。実に、嬉しそうな笑顔だった。
「ちょうど十五日目の日、お前は成人したばかりのササラの魔力を食べた! それからちょうど十五日。月が生まれ変わる日の魔力も食べたお前はもうササラの隷属だな!」
「ササラの嘘つき! 人間なんて大嫌いだ!!」
叫んだアルグルはうずくまってしまっていた。リゲルはその様子をみて笑い続けている。
後でリゲルに詳しく説明を求めればいいのだろうけれど、この状況では
「どちらが悪魔かわからないよ……」
小さく吐き出したササラの言葉は二人の耳には届いていなかった。
蹲り頭を抱えているアルグルに近付いて声をかけると、さらに彼はぎゅっと丸まった。身長がそれなりにあり、大人の彼は今ではすっかり子供のようだ。
その姿が何だか可愛らしく、少し可哀想に思えるのは一ヶ月の間に絆されてしまっているからだろうか。
ササラはアルグルに騙されていたのだけれれど。……リゲルの言葉からすると、アルグルはもうササラを害することは出来ないのだろう。だったら、今はとりあえず。
「ねぇ、アルグル。カヌレ、まだあるの。一緒に食べてくれないかな」
皿を差し出すと、つられて上がった顔は戸惑っている。カヌレとササラの顔を交互に見て、アルグルは小さく「いただきます」と呟いた。
とりあえず涙目のままで美味しいと呟いている彼が落ち着いたら、今後もお菓子を作っていいか。そのことを尋ねようと思いながら、ササラはアルグルの姿を眺めていた。