ビックリハウス
里中はその日、先週合コンで知り合ったばかりのリカちゃんと、近所の遊園地で初デートの約束だった。里中自身はもう遊園地という歳ではないが、リカちゃんの方の希望である。
里中が先に着いて待っていると、リカちゃんから三十分ほど遅れそうだとのメールが来た。待っている間にスマホを一通り見た後なので、することがない。何か時間をツブせるものはないかと周囲を見回すと、派手な色の看板が目に入った。
《新装オープン! 本邦初公開! これぞ真のビックリハウスだ! 記念特価五百円!》
まあ、どうせ大したことはないだろうと思ったが、とりあえず行ってみることにした。それらしい建物を囲む柵の前に料金所があったが、誰もいない。里中が大声で係員を呼ぶと、建物の裏からカエルのような顔つきをした男が出てきた。一応、制服らしきものを着ているのだが、妙に体に合っていない。
「どもいらしゃいませ」
少しイントネーションが変なので、外国人のアルバイトかもしれないと里中は思った。
「料金はここで払えばいいの?」
「はい、いです。五百円」
里中はコインを渡し、柵の中に入った。近くで見ると、その建物は原色を塗りたくった典型的なビックリハウスである。男が黄色のドアを開けると、いかにもセットめいた室内が見えた。
「中、入たら、奥の椅子に座て、わたし合図したら、赤いのボタン押す」
「椅子に座って赤いボタンだな。わかったよ」
室内に足を踏み入れると、少し冷んやりしている。造り付けの家具とソファの間を通り抜け、壁際の椅子のところまで歩いた。
椅子といっても、壁の真ん中から突き出した太いポールに嵌まっており、床から一メートルぐらい上にあった。肘掛け付きのガッシリした造りで、前方に足を乗せるステップが付いている。里中はその肘掛けをつかみ、ステップに片足を掛けて椅子に登った。
男が言った赤いボタンというのは、右の肘掛けの横に付いていた。
「では、わたしドア閉める。三つ数えてから、赤いのボタンね」
「わかった」
里中は男がドアを閉めてから、きっちり三つ数えて赤いボタンを押した。どこか遠くでゴーンという低い音がし、部屋の照明がニ三度チカチカ点滅した。
すると、部屋全体が里中を中心にゆっくりと回転し始めた。普通のビックリハウスならもっと激しく左右に揺すったりするものだが、そういう演出もなく、ただ回って床と天井が逆になったところで静かに止まった。また、ゴーンという音がし、証明が点滅したが、それ以上何も起きない。そのままニ三分待っても変化がないようなので、里中は少しガッカリした。
「おーい、もう終わりなのか? それとも故障したのか?」
返事がない。聞こえないのだろうか。動くと危険かもしれないとは思ったが、あまりに静かなので不安になってきた。里中はステップに足を掛け、下に降りてみた。
下といっても、元々は天井になっていた部分である。吹付けの天井は少しザラつきがあり、安っぽいシャンデリアが上向きに突き出しているが、歩けなくはない。里中は上の床に固定されている家具に頭をぶつけないよう注意しながら、ドアまで歩いた。
ドアも上下逆でノブが反対側についているが、開けられなくはなさそうだ。ただ、足元の天井から三十センチぐらい段差があるから、ちょっと跨がないと通れない。里中はドアを開けて一歩踏み出そうとし、ハッとして反射的に足を引っ込めた。
ドアの向こうの地面があるはずの場所には、抜けるような青空が下向きに広がっていたのだ!
里中の背中を冷たい汗が流れた。おそるおそる視線を上に向けると、ちょうど逆立ちをした時のように逆さまになった遊園地が見え、その上に地面があった。
とてもトリックとは思えない。里中はあわてて係の男を呼んだ。
「おーい! これはどうなってるんだ! 早く元に戻せ!」
すると、意外に近いところから返事があった。
「ども、ごめなさい。重力調整機、故障、直らない。お金返す。許せ」
上の地面に立っている男の顔は、ちょうど里中の顔のあたりに逆さまになっている。その位置からは男の鼻の下側が見えるのだが、そこにあるべき穴がなかった。
「おまえ、何者だ! お金なんかどうでもいいから、早く元に戻してくれ!」
「それ、無理。も、わたし帰るの時間。ごめなさい。お金、ほら」
呆れたことに、男は里中に向かってコインを投げて返した。五百円玉は空中で妙なカーブを描きながら飛んできて、里中の足元に落ちた。里中が驚いているうちに、男は走って逃げてしまった。
「おーい、待て! 無責任だぞ! なんとかしろーっ!」
だが、男の姿はそのまま遠ざかっていった。
「どうすりゃいいんだ。おれはこのままずっと、上下逆さまのコウモリ男なのかよ。くそっ、こんな五百円なんか、あ、いや、待てよ」
里中は落ちている五百円玉を拾い上げ、考えた。あの男は普通に五百円玉を持っていた。ところが、今は里中にとっての下、元々の天井に落ちていた。ということは……。
里中は、五百円玉を外に向かって投げてみた。やはり途中までは奇妙な曲線を描いて飛んだが、最後はきれいな上向きの放物線を描いて上の地面にくっ付いた。
つまり、この反重力だか逆重力だかの現象はこのビックリハウスの中だけのことで、ここから出さえすれば、通常の重力に戻るということである。
「なるほど。でも、……」
里中は再びドアの外を覗き込んだ。青々と果てしなく広がる空が見える。但し、視線の下の方に、だ。里中はゴクリと生唾を飲み込んだ。
五百円玉と同じように、里中も思い切ってここから飛び出してしまえば、普通の世界に戻れるはずである。だが、そのまま青空に真っ逆さまに落ちてしまいそうで、恐ろしくてとても踏み出せない。
しばらく迷っていたが、ふと、電話して助けを呼べばいいのではないかと気が付いた。里中はポケットからスマホを出してみたが、圏外だった。おそらく重力の異常のせいで、普通の電波はこの建物の中には入らないのだろう。
だが、スマホを見たことで、リカちゃんとの約束を思い出した。せっかくの初デートをすっぽかしたら、二度と会えなくなるだろう。
「ええい、もうこうなったら、一か八か、飛んでみるしかないじゃないか」
里中は必死の思いで、青空に向かってジャンプした!
「うおおおおーっ!」
里中は現在、全身打撲で入院中である。痛みが治まってから遊園地に問い合わせてみたが、あのヒックリハウスは故障中で、解体するために先月から閉鎖していると言われた。あの男が何者だったのか、もはや知る由もない。
結局、リカちゃんにもふられてしまったが、それもまあしかたないと諦めた。ただ、今後、里中に新しい彼女ができても、もう二度と遊園地だけには行かないだろう。