第五話
朝だ。
起きてすぐにベルンの様子を確認する。特に何も考えることなく寝てしまったが、ベルンはいなくなっていたりしないだろうか。そんな不安に駆られたからだ。
「おはよう、旦那様。早速で悪いのだが、厠へ連れていって欲しいな」
「え、あ、う」
しかし、ベルンは既に目を覚ましていて、何食わぬ顔でそう言い放った。
というかなんだ、厠? ああ、そりゃそうか、昨日の夕方から僕が連れて行っていないのだから、半日くらい我慢してたことになるのか。
慌てて飛び起きてベルンを抱えあげ、家の隣にある厠に連れて行った。
そして、気づく。
「これは、随分と趣があるな旦那様。空が見える厠とは、解放感に溢れている。まあ衝立があるだけましか。ん? どうした? 早く下着を脱がせてくれ」
「ベルンは、恥ずかしくないの?」
「何がだ? もう一年近く赤ん坊みたいな状態なんだ。慣れもするさ」
いやでも仮にも異性にあれやこれや見られんだから、もう少し恥ずかしがってもおかしくないんじゃないかな。花も恥じらうお年頃であるし、僕のことは好きでもなんでもないだろうし。いや、好きでもなんでもないから平気なのか。そう考えると納得はできないこともない。
僕はにやにやと試すような笑みを浮かべるベルンから目を逸らし、心を無にしてことを済ました。顔が熱い。
しかし、試練は二度来る。
「ついでに水浴びもしたいな、旦那様。私を洗ってくれないか?」
「ひょえ?」
ちょっと待ってちょっと。
それはつまり行水したいってことなんだろうけど、そのためにはベルンの服を全部脱がさないといけないし、さらには体のあちこちをこすって垢を落とさないといけない。勿論僕のこの手で。ベルンの柔肌に触れて、その、つまり。
なんていうか心の準備ができていない。
「いやあのな今は朝早いって言っても川に行ったら人がいる可能性があっててですねね」
「行ってみることも駄目か? 私はこう見えても綺麗好きで、できれば二日に一度は水浴びをしたいのだが。旦那様が私を買った日の前日はちょうど風呂に入らない日で、昨日も風呂には入れていない。少し臭ってきている気がする。不潔は好まないんだ」
じっと見つめられて、目をそらしてしまう。僕は本当にベルンに弱いらしい。
「行ってみるだけなら、いいんだけど」
「よし。なら行こう」
誰かいてくれ、という僕の願いは、天には届かなかったようだ。まあ多分心のどこかで誰もいないでくれと願っていたから、相殺されてしまったんだろう。
ベルンが嬉しそうな声を出す。
「誰もいないな、旦那様。よしよし、服を脱がせてくれ」
「お願いベルン、もう少しだけ恥ずかしがって。なんか僕だけ恥ずかしがってるのが間抜けみたいに思えるから」
僕の懇願も、ベルンの耳には届かなかった。
誰も来ないうちに、と思い、ベルンの服を脱がせ、素早く川に浸かる。そして、いざ洗うぞ、と考えたところで手が止まった。
綺麗な体だった。右腕は肩から無く、左腕も肘までしか無く、両足は太股の半ばまでしか無い。しかし、それでもなお美しいと感じる不思議な魅力があった。無駄な肉のついてないことが理由か。腰まで伸びる艶やかな黒髪が理由か。意思の強さを感じられる眼が理由か。わからないけど、思わず見とれてしまうくらいには、美しかった。
「悪いが、早くしてくれないか、旦那様。暖かくなってきた季節とは言っても、朝の川の水は冷たい。あ、爪は立てないでくれよ。軽く垢を落とすくらいでいいから」
「あ、うん」
膝の上に抱えるようにして、ベルンの背後から手を伸ばす。真正面からは凄く気恥ずかしい。
ふよ。
「ん。……大胆だな旦那様。そういうのは、私が自由になってからじゃなかったのか?」
「今のは違うから。手が滑ったというか洗ってるだけだから」
ガクガクと早口で言い訳をしながら、雑念を消す。
こういうときは別のことに集中しようああそうだ魔術にしよう得意なことの方がいいなそういえば川の水が冷たいって言ってたっけ柔らかいならちょっと頑張って暖めちゃおっかな僕たちのほんの少し上流の川の部分を少し暖めるんだ柔らかいやれる僕ならできる。
炎。
やり過ぎるなよ熱くなりすぎたら駄目だ慎重に火力調整をするんだ柔らかいベルンに火傷なんてさせてみろ柔らかい肌に柔らかい柔らかい柔らかい。
「何をしているんだ、旦那様? 魔術を……これは、湯?」
違う雑念を消せ後は下半身を洗ったら終わりだからさっきだって水で洗っただろそれと同じ大丈夫柔らかい大体ベルンが恥ずかしがってないんだから僕が恥ずかしがる理由はないんだそうだよ柔らかい存分に楽しめば柔らかいじゃ駄目駄目落ち着け。
「火魔術……熱魔術か。いやでも、別に川の流れを遮ってる訳でもないのに、ずっと暖かいということは、まさか、ん、川の上流を加熱し続けている? ぁん」
いいぞいい感じた悪くない柔らかいこの突起はってそうじゃなくていい湯加減だそうだこれは訓練なんだならもう少し難易度をあげようそれで雑念は消えるはずこの割れ目も気にならなくなるわけがない駄目だ今更だけど膝の上に柔らかい柔らかい柔らかい。
「っぁ、いやいやそんな馬鹿な。こんな僅かな魔力で大量の熱を……純度を上げれば、んん、できるのか。旦那様? 聞いているのか? さっきから手つきがやらしい、ぞ」
視界に火花が散った。ベルンに後頭部で頭突きされたらしい。
「いったー」
「正気に戻ったか? 旦那様」
「……はい」
「いやいや、別に問題ない。なんせ私は旦那様に買われた身であり、何をされようが身も心も手も足も出ない。もし旦那様がその気になったらいつでも手籠めにしてくれて構わないんだぞ?」
「うぐぐ」
冗談でもやめてください。本気でしてしまいそうです。
僕は最後に髪を鋤くように洗うと、川から上がった。
「あまり冷えなかったな。旦那様があれほど魔術が得意とは知らなかった」
「火魔術だけだけどね。ムツにも教えてもらったし」
「いやいや、謙遜するほどではない。これで疲れた様子一つも見せないなら、日ごろから修練を怠ってはいないのだろう。まあ、このままでは冷えるから体を拭いてくれるか?」
ベルンがまたにやにやと笑いながら肩を竦めた。
「う。えい」
流石に理性が持ちそうになかったので、火魔術で素早く乾かした。これは慣れてるから一呼吸で全身乾かせる。ムツお得意の瞬間乾燥術だ。習ってってよかった。
目をぱちくりさせてるベルンに何か言われる前に素早く服を着せた。
「旦那様は傭兵か、組合員か、何かか。本当に驚いたな」
「いや。この村の守備隊兼警備係兼火葬屋、兼害獣駆除係。戻ろう」
ベルンを抱き抱えて、僕は家に戻った。運がいいことに、誰とも出会うことはなかった。
家に帰ってベルンを移動椅子に乗せると、僕の腹が鳴った。結局昨日は食事をせずに寝たから、この腹の抗議も当然の結果だ。
そして、本日三度目の試練。
「どうした? 旦那様。何をためらっているんだ? 私がこうして口を開けて待っているというのに、どうして食べさせてくれないんだ?」
「できるできる。そうだよ、裸だって見たんだ。恥ずかしがることなんて無い」
ベルンを膝の上に横抱きに抱え、もう片方の手で麺麭を持つこと数瞬。その赤い口に食べ物を捧げることに何故か背徳感を感じ、手が止まっていた。
ごはん食べさせるだけ。ごはん食べさせるだけ。
ままよ。
右手を無理矢理動かして口元に近づけると、ベルンはやっとありついた食事を逃がさないとばかりにほおばった。その動きは飢えた肉食獣のそれであって、気づいた瞬間には手から麺麭がきえている。もし顎の力が足りていて、ベルンにその気があれば、僕の喉は抵抗する間もなく食いちぎられるのではないだろうか。嫌な想像をしてしまった。
「やはり町売りの麺麭は美味しいな」
「そうかな。……本当だ。美味しい」
そこは同意。柔らかさが違う。何が違うんだろうか。焼き色は同じに見えるのに。
「旦那様、旦那様。あーん」
「……はい」
「美味しい」
耳まで赤くなってるかもしれない。
こうして僕は朝から精神的に疲労したのだった。
諸々が済むと少し疲れたというベルンを寝台に寝かせた。あまり疲れているように見えないのは、僕がそれ以上につかれているからだろうか。
僕を見上げてベルンが口を開く。
「どうだ? 面倒な女だろう?」
そうは思わないけど。
「で、具体的にはどうするつもりなんだ? 旦那様」
どうするつもりか。それが何を指しているかは僕もわかっている。そのことは昨日の夜からずっと考えていた。
「まずは、村の職人さんに話を聞く。義手と義足について、少し話を聞いたことはあるからもう少し詳しく聞いてみる。で、後日になるけどもう一度町に行って情報を集める。なんでもいい。手足の再生の魔術、念じることで動く自動人形、魔導具。それらの情報を集めて、買えるなら買う。金が足りないなら稼ぐ。あ、ムツにも話を聞いてみなきゃ」
「考えて、くれているのだな」
思わずベルンの方を見たが、ベルンは顔を背けていた。
「ベルン」
僕が話しかけようとすると、玄関の扉が叩かれた。
反射的にベルンに布を被せ、玄関に向かう。何も考えずにやった行動だが、悪い判断ではなかったと思う。だって、村の人たちにベルンのことを見られたとしても、まだベルンのことをうまく説明できないから。
少し警戒をしながら扉を開けると、隙間から何かが走り込んできた。
「まっ……!」
「ムツー」
「おかえりー」
止める間もなく、布の被せてある寝台に飛び込むチビども。しかし、そこにムツはいない。ぐふっ、とくぐもった悲鳴が聞こえ、その感触にチビたちは不思議そうな顔をしている。
すぐに二人のチビを引き剥がすが、一人が布を掴んでいたせいで布がめくれてしまった。
ベルンを両脇に抱えたチビに見られた。扉を押さえていないので残りの二人も入ってきて、当然見られた。
「だれ?」
四人が同時に首をかしげた。
とりあえず抱えていた二人を下ろし、脳天に拳骨を入れる。
「その前に、ごめんなさいだろう」
「ぶった! ワニトがぶった!」
「あたー。けど父ちゃんより痛くない」
「い、い、か、ら。まったく、入るときは扉を叩く、どうぞって言われたお邪魔しますと言って入る。これをいつになったら覚えるんだ」
「ごめんなさい」
「めんご! いてっ」
全く反省の色の見えない二人を睨むが、全くひるまないのは何故だろうか。僕の威厳が足りないのか、こいつからがへこたれない強靭な精神を持っているのか。僕がこのくらいの年の頃は、兄さんとか怖くてたまらなかったぞ。
なんとなく納得のいかない僕に、チビどもは思わぬ攻撃を仕掛けてきた。
「で、だぁれ? ワニトのお嫁さん?」
「な! ななにをなんで……」
女の子二人がくすくすと笑う。それは内緒話を隠そうとするときの可愛らしい仕草だが、このやんちゃな二人の本性を知っていればそんな風には見えない。
リョエが嬉しそうに言った。
「だってムツがいってたもん。ワニトはそろそろお嫁さんをもらうべきだーって」
「こんど町に出たらわれがうまいことみつくろってやるって」
「ねー」
「ねー」
ムツよ、こんなチビどもに何を聞かせているんだ。しかも別にお前が見繕ったわけじゃないし。唆されはしたけど。
「そちらのお嬢さん方はどなたかな? 旦那様」
いつの間にか起き上がっていたベルンの一言で更に騒ぎ出すチビども。
「旦那様! 旦那様だって!」
「うおーあいしてるぞおまえ」
「旦那様ー」
「おまえー」
女の子はいくつでも女の子なんだなって思った。もうやだ。ベルンまでにやついてるし。姦しい。
「この村のチビども。なんか知らないけどよくこの家に遊びに来る」
「へぇ。子供にはもてるのか」
「旦那様ー」
「おまえー」
「うるさい」
「ぶった! またぶった!」
リョエの抗議を耳を塞いで聞き流していると、脇をつつかれた。見下ろしてみると、心配そうな顔をしている男の子、ルトライが見上げてきていた。
「でも、この人手も足もないよ。痛くない?」
「え!? 本当じゃん大丈夫?」
「あ」
「えぇ、どどどうするの?」
はしゃいでいたチビどもは一転して騒ぎ出す。
慌ててベルンの顔色を伺った。しかし、僕が心配していたように傷ついてはいないようで、むしろ困惑しているように見える。
「えっと、ベルンはね。あ、このお姉さんはベルンっていうんだけど、そう、手と足がないんだ。けど痛くはない、大丈夫。……だよね」
「あ、ああ。痛みはない」
「で、その。お嫁さんっていうか、その、結婚は……お願いしているところ。まだしてない」
えぇーと全員から非難の声が上がった。何故かベルンからも。
「なんでー? おんなじ家に住んでるのに?」
「へたれ! ワニトのへたれ!」
「しんじられない! これだからおとこっていやよ!」
「ふられたの? ぷー」
「そうだったのか旦那様。もう人には言えないあれやこれやをされて、お嫁には行けない体にされてしまったというのに。私はきっとこのまま良いように使われて捨てられてしまうのだろう。ああ、しかし私には抵抗などできるはずもない」
「ベルンは知ってるでしょ!? まだしてないの!」
ぎゃわぎゃわと奇声歓声があがり、まともに会話できない。言い訳をしようにも誰も聞いてくれない。
誰か助けてくれ、という天への願いが届いたのか、家の扉が開いた。
「なんじゃ朝っぱらから騒がしい」
「ムツー!」
入り口を狭そうに潜ってきたムツに、さらに元気になるチビどもだった。
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