お化けネズミ
万里の耳元に丸の、目元に板状の光が展開する。緊張を紛らわすかの様に、じっとデバイスを見つめた彼女は、すっと息を吸った。
「もしもし」
慎重に声をかけた万里の耳には、最初に、通信の向こうで轟々と風が吹き荒れている音を拾った。こんな音が聞こえるとすれば電車が目の前に来た時か、台風の中、外出する時ぐらいだと思う、風の強さを感じさせる音だ。この音だけ延々と続いたら、オバケからの電話だと半狂乱になったかもしれないが、そこに人の声を拾った気がして、万里はもう一度「もしもし!」と強く声をかけた。
『―――え、――っち、き――な』
「誰。何。聞こえない!」
声の感じは、年若い男性のようだ。瞬間万里は、頭を打った後の病院で見た、見知らぬ誰かに撫でられる夢を思い出した。その人はどういう意図があったにせよ、確かに、『お前が死ぬのは困る』と万里の無事を願ってくれたのである。彼だろうかと、万里は光に怒鳴った。
『う――さい、きこ――る』
もう一度、声が返って来る。聞きとれないながらも、万里は相手から『五月蝿い』と悪態をつかれたように感じ、もどかしさに「んー!」と無意識に唸った。次の返答を待つ。
『――ぁ、――きか。――』
万里が黙った事で、相手は調子を取り戻したらしい。それから風の調子が変化したか、一部、明確に言葉を把握した。
『早く駅から移動しろ。――こが、集まっ――る』
どうやって万里の居場所を把握したのかわからないが、声はきちんと彼女の居場所を告げ、次に移動を促す。咄嗟に万里は視線を暗い屋外へと向けるが、強風が吹いたか、ざわりと揺れた公園の樹木の影に怯えてしまい、デバイスにすがった。
「無理だよ。暗くて、怖い。それに、どこに行けば良いの」
『ちっ』と相手がした舌打ちは、はっきり聞こえたものの、万里はやっぱり夜道に出る勇気はない。しかし合流するためというならば致し方ないと、はっと思いなおし、通信の相手は何処に居るのか、万里は声をかけようとした。
「ねぇ、貴方は何処に――」
デバイスに声をかけた万里は、その瞬間、何かが足元を横切った気がして、言葉を止めた。通信を切る暇もないので、光が展開したままの視界を足元へ向けると、微妙に色が違う視野の中、野球ボールぐらいの大きさの動くモノが佇んでいるのを見る。色は灰色で、尻尾がゆらゆらとしていた。
「ねずみ?」
呟いた瞬間、ざわざわとした気配が周囲に広がる。発生した雑音に駅の奥の方を見れば、ホームに続く階上から黒い波のような何かが、彼女の足元めがけて、ずぞぞぞぞと迫って来ていた。こんな駅の中、それも水道管が破裂したわけでもないので、向かってくる物に水の質感はみられない。遠目にも逆立った毛玉の群れと分かり、万里は慌てて、先程まで座っていたベンチの上に飛び乗った。それと同時か少し遅れてか、無数のねずみが床の上を占拠してしまう。
万里の見える範囲いっぱいに集まったねずみ達は、「チチ…」「キィ…」と鳴き声を漏らしながら、二本足で立ちあがって鼻をひくつかせたり、左右を見渡したり、前足で顔を洗う様に撫でつけたりしていた。個々の動き自体は可愛らしいものであったが、ざっと見ても100匹を超えるねずみの大群に、万里は顔を引き攣らせる。本能か何かだろうか、この大群に襲われる恐怖を感じて、息を潜めて周囲を見るが、彼女が座面に上ったベンチから飛び移れる範囲の床は全てねずみがひしめき、他に飛び移れそうな物も、2M離れた円柱のスチールゴミ箱だけである。全く動けない状況になったのを理解して、万里はこれから何が起こるのかと、怖々とねずみを眺めた。
『――か、――か?』
耳元で声がして、万里はまだ通信中だったのを思い出し、はっと片手で口元を覆う。外に漏れないように細心しながら、小さく口を動かした。
「助けて。動けなくなっちゃった。ねずみが――」
『ねず――?』
急に相手が低く鋭い声を出したので、万里は驚いた。怒っているのかと一瞬考えてしまうような変化で、ベンチの上で膝立てて座っている彼女は、戸惑うように耳元に片手を持っていく。すると、彼が何か返事をくれる前に、足元が騒がしくなった。
――キィッ。
一際高く響く声が聞こえ、万里は音の方を確かめる。また、駅の奥の方からだ。そして、ホーム側の階段の上に、今までのねずみより大きな、ゴム毬程のそれを見つける。目にした最初は、ねずみ達が鉢植えの上にでも集まったのかと思った。けれど、たったったと、軽快な足でこちらに向かってくるそれが、足元のねずみ同様、灰色の毛並みにふりふりした尻尾を持っていると気付いて悪寒が走った。極めつけが、もう数メートルもない所で視認してしまった、その顔面。
「ひっ、い」
ぶわっと再び、万里の涙腺は決壊した。逃げる場所はベンチの上しかないのに、それでも僅かでも距離を取ろうと体が勝手に後退していく。慌て過ぎて何度か座面から手を滑らせそうになり、万里はその度に小さな悲鳴を上げ、しゃくりあげた。もうはっきりとわかる、たったったと、四本足で軽やかにやってくる大きなねずみの鼻先は平たく潰れており、二つの目の上に眉毛らしき塊が生えていて、鼻、口と、明らかに人間のそれをしているのである。それと目が合い、そして、ソレが微笑む様に目を細めて口の端を緩やかに動かした事で、万里はとうとう悲鳴を上げた。
『――した!』
彼女の悲鳴に反応したのだろう、怒鳴り声が鼓膜を揺らし、万里の理性は崩壊した。ひっと息を吸うと、肺から何もかもを吐きだす悲鳴を上げる。
「嫌っ、ば、バケモッ……嫌、嫌っ、もう、嫌あぁぁああぁ!!」
もう万里は、自分がどういう体勢になっているかを考える余裕はなかった。背もたれに必死にしがみついて、足はこれ以上下がりようもないのに座面を蹴り、崩れた腰はかろうじて下に落ちずに済んでいる。やけに息が苦しい感じを受けていたが、彼女は自分が大泣きしているのに気付いている様子はなかった。
『ぅ――さいっ、落ち――けっ!!』
相当うんざりしているのだろう、声が耳元で怒鳴っていたが、万里も大声で喚いていたし、彼女の居るベンチの前で止まったゴム毬大の大ねずみのオバケが、そのまま万里を凝視しているので、それどころではなかった。見たくもないのに目を閉じるのも怖くて、万里は大ねずみのオバケと見つめ合うしかない。微笑みの表情を浮かべているが、顔の境目部分は灰色のねずみの毛皮と混じっているし、顔のサイズだって、ゴム毬大の体の大きさに合わせた小ささだし、当然の事なのだが、馴染みのある人体の部分が別種の生き物と混じったような様相は、相当気持ちが悪い。その人の物の口から、周囲のねずみのようなチィという鳴き声が出て、万里のソレに対する気持ち悪さが増した。
人面以外はねずみであるソレは、周囲のねずみ同様、二本の小さな前足で顔を撫でつけたり、左右を見たりしている。周囲のねずみとコミュニケーションを取るように何度か鳴き声を繰り返していくと、次第に周囲の鳴き声とタイミングが一致していく事に万里は気付いた。それまで泣き喚いてばたついていた万里なんて気にも留めていない様だったのに、不穏な鳴き声の合唱が重なって来ると、今度は明確に万里の方を見て、一言「め」と言葉を吐いた。
「――チィ、チチ……め、めが、…る」
何かの聞き間違えだと思えば良かったのに、“め”が“目”だと気付いてしまった万里は、異形と化した自分の左目を思い出し、はっと両手で覆った。次の瞬間、大ねずみは「キィ!」と甲高い鳴き声を上げて飛び上がり、万里とは反対のベンチの手すりに駆け登る。
「め、めめ…め、…目、目だ。目、要る。目、欲しい」
もう、「キャー」だとか「ヒャー」だとか、「嫌」も「化け物」も言いつくした万里は、そう言われて嫌悪感が最高潮になり、大ねずみ目掛けて片足を蹴り上げた。大ねずみは当たりこそしなかったものの、一瞬警戒したらしく、「キィッ」と鳴いてベンチから地面に駆け下りる。
「うっさい、うるっさいっ!! 目なんて、あげれるわけ無いでしょうがっ!!」
泣きながら吠えた万里の耳元に、盛大な舌打ちが聞こえた気がした。けれど今の自分の状況などさっぱり忘れた彼女はそれが何かを考えず、ポシェットから硬そうな物としてデバイスの予備バッテリーを取り出すと、さらに大ねずみに向かって投げつける。
「もう、あっち行って!! アンタみたいな化け物に構っている暇、私には無いんだから!!」
やっぱりねずみは避けたか、カンっと大きな音が響き、一瞬にして霧散して静かになる。万里の拒絶を見たからか、ねずみの群れが再びざわざわとし出した。
「目、目、…大きな結晶、強い結晶、…目欲しい」
不穏な気配に怯える万里に、人の言葉をしゃべられる大ねずみは、群れの総意なのか、後ろ足で立ち上がってそう言う。すると他のねずみ達も、万里の居るベンチを、くるりと一斉に振り返った。そして、座面の下に移動したり、背もたれに登ろうとしたりするので、慌てて万里はポシェットを振りまわす。それも無駄な抵抗で、ポシェットにねずみの一匹が飛び付き、万里の足に数匹のねずみが寄って来た事で、再び彼女は「助けてえぇっ!!」と悲鳴を上げた。もう向かってくる脅威だけでいっぱいになり、万里の心が真っ白になった時、耳元の声が沈黙を破った。
『見つけた』
言葉と同時に万里のデバイスの通信が切れ、びゅっと鋭い風が、万里の居る駅の構内を横切る。多分直撃を受けたのだろう、大ねずみの体が持ち上げられたかと思うと、そのまま斜め上後方へと、回転しながら飛ばされていった。万里が驚いて目を見開いた瞬間、足元に居たねずみの数匹が、彼女から引きはがされる様に、風に煽られて宙へ浮き、次々とあらぬ方向へ吹き飛ばされ始める。ともすれば、万里も風に押されてベンチから転げ落ちそうな強さで、時々ベンチもシーソーの様にガタガタ揺れた。特に彼女の背中側はどんどん衝撃が叩きつけられ、普段感じない空気の重みと強さ、寒さを感じて、彼女はベンチにしがみ付いて身を縮める。
唐突に吹きこんできた風に耐える様に、床からはねずみの「キィキィ」鳴く声が聞こえてきた。直後、これまでの比で無い、暴風とも呼べる風が吹きこまれ、破裂するように駅構内を吹き荒れる。再び、大きな空気の塊を顔面に受けて、万里は「うぶっ」と顔を下に向け、ベンチの足元にガンっと、備え付けのゴミ箱が倒れて来た事で、びくっと足を動かした。その際に零れでもしたか、空き缶の、カラン、コロコロコロと床を流れていく音が連続で聞こえ、その内の一つがベンチの肘かけに当たって、上空へと、これまた何処から来たかわからないビニル袋と一緒に弾き飛ばされていく。その他にも、何かが宙を舞う気配があったが、それは沢山のねずみだったのかもしれない。耳元で轟々と風が響き、万里の髪はバサバサと揺れる。ポーチ紐が肩に食い込み、慌ててそれを引き寄せて、丸まった。まるで竜巻と彼女が考えていると、唐突に吹いた暴風は、また唐突に止んだ。
ひゅぅっと小さく名残が響いたと思って身構えれば、次には、ぼとぼとと、実の詰まった小袋が周囲に落ちてくるような音がする。その一つが、万里の膝の上に落ちて来た。はっと見ると、ぐったりしたねずみである。彼女は「きゃあ!」と甲高く叫んで、それを適当な場所に投げた。
すると、苦しげな「チィ」というねずみの鳴き声。流石に悪かったかなと投げた方向を見れば、想像もしていなかった、床一面に、ぐったりしたねずみ達が横倒しになっている光景があった。一瞬ぽかんとするが、ベンチも動こうとするような暴風では、小さいねずみの体は簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。それから、ねずみが広がる床に、一本線を引いたように空いている空間があり、自然と彼女はそれの先を追った。
するとそこには、こちらに背を向けた人物が居る。夏草色の後頭部と、風に靡く裾の長い和装の後ろ姿に、万里はぎょっと固まった。彼の正面を向けば大きな単眼があるのだと知っている、公園で会った、オバケの姿だ。唯一あの時と違うのは、彼の左腕が床に着くほど大きく肥大し、多分骨だろう、黄味を帯びた白く鋭い突起が無数に伸びているという、恐ろしい姿が追加された事ぐらいか。
彼は、普通の人間と同じ形の右手で大ねずみを掴み上げており、哀れっぽく鳴き、四肢をバタつかせて逃げようとする大ねずみをしばらく眺めていた。かと思うと、おもむろに右手を振り上げ、無言で床へと叩きつける。大ねずみは叩きつけられ「キヒィッ」と悲鳴を上げ、ほんの少しではあったが、床から跳ね返った。どれぐらい強い力だったかを想像させる一連の光景に、万里はひゅっと息を飲む。しかし彼の行動はそれだけで終わらず、足先で大ねずみを何度か蹴って転がしてうつ伏せにさせると、だんっと片足で上から踏みつぶし、ぐりぐりと圧迫をかけた。
「雑魚が」
吐き捨てる彼に、大ねずみの悲鳴に呼応してねずみ数匹が起き上がり、よたつきながら飛びかかる。毛を逆立てて牙を剥いた小さな影に、万里は「あっ」と注意を呼びかけようとしたが、そんな物は必要なく、彼は単眼をギロリと動かすと、それらに右手を向けた。瞬間、彼の掌、いや、腕からか、帯の様に白い霧状の何かが噴き出す。それが風だと万里が気付いた時には、数匹のねずみは遠くの壁に叩きつけられていた。その間、彼の髪やら長い裾はゆらゆら揺れており、文字通り、風を纏っているのだと万里は理解する。
彼の右手から放たれた風の残滓か、ひゅうぅぅぅと、高い音が霧散した。音は消えたが、動いている風の気配はまだ彼と共に留まっている。それは、彼に足蹴にされている大ねずみを苛んでおり、万里の耳には大ねずみの悲鳴のような鳴き声や、「痛い」「助けて」などの言葉が聞き取れ、身近で聞えた悲鳴や暴力の気配に、彼女はぞっとする。こちらまで痛くなりそうな助命懇願の言葉に、一つ目男は退屈な表情をして、「しぶといな」と、何度も大ねずみを踏みつけた。その光景に堪らなくなって、万里は声を上げる。
「もう止めてっ」
そこで一つ目男は彼女の存在を思い出したらしく、ゆらりと顔だけ振り返った。夏草色の前髪の影から、こちらをじっと見定める大きな単眼は、不機嫌を隠そうともしない鋭いもので、怒気にも似た感情を感じて万里はうっと怯む。けれど、万里を振り返りながらも彼の踏みつけは終わっていないのか、大ねずみの「ギャッ」という悲鳴は消えず、万里は苦い表情でもう一度懇願した。
「もう止めてあげてください。痛そうですし、死んでしまうかも」
確かに大ねずみは人面で不気味だし、「目が欲しい」なんて物騒な事を言う脅威的な存在なのかもしれないが、今のそれはとても可哀そうな存在に見えてしまう。人の言葉もしゃべるだけあって、目の前で暴行されて死んでしまうような事は寝覚めが悪く、もう同情以外の何物でもない、理由のない感情で、万里は一つ目男を見た。
「だから?」
しかし返って来た答えは、疑問に似た、呆れの声音である。特にねずみに襲われて、「助けて」と泣き叫んでいた本人が言うのも変な話だが、万里は素直に「殺してしまうのは、やり過ぎな気がするんです」と言った。それに一つ目男は理解できないと顔を歪め、至極当然に「お前はバカか」と、短く罵倒する。そして、ぴくりともしなくなった大ねずみから足を退かすと、少し邪魔であったか、床に倒れたねずみを数匹蹴飛ばして場所を空け、重そうな左腕を引き摺りながら、ゆっくり万里へ歩み寄った。
万里の中ではある意味、人面の大ねずみも、目の前の一つ目男も、同じオバケである。きっと万里は、何かの間違いでオバケの世界に入り込んだのだと、一つ目男の登場から納得した。だから、異分子であるのは万里であって、きっとこの世界の住人として、大ねずみは普通の人間と同じ立場なのだ。だから、同じオバケである一つ目男が殺してしまうのは、やり過ぎな気がするのだと、心中で言い訳した。
正直、一つ目男は今も怖いが、仮にも人型であるし、話は通じるようだから、この状況の説明をくれるかもしれない。万里は少しだけ心強い思いになって、近寄って来る彼に声をかけようとし、彼の唯一の目から受け取った嫌な予感に固まった。身を固めたのは正解だったと、彼の足が万里の顔の横に蹴り出された後に彼女は思う。
「勘違いするなよ。お前を助けたわけじゃない」
言いながら、背もたれに着いた片足の方へ体重を移動し、万里の進路を塞いで、彼は顔を近づけた。「動くな」と言われたわけでもないのに、万里は慌てて彼の単眼から視線を下に向ける。だが彼は、彼女の動作はお気に召されなかったらしく、使い物にならない左手でなく、右手で彼女の顔を上に向けさせた。
「その目――、お前も、“狂化”が進んでいるな」
また目かと、万里は「貴方もこの目が欲しいって言うの」と眉根を寄せる。すると、彼は急に機嫌良く、にっと唇を吊り上げて冷笑し、彼女の顎から手を離すと、今度は額を掴んで言った。
「その通りだ」
掴まれたせいか、言葉のせいか、びくっと万里の肩や背が震える。それに気付いたか、一つ目男はいやに機嫌良く、優しい声音で言葉を続けた。
「良い子にしているなら、悪いようにはしない」
「目を、取るのに?」
万里の声は震えていたが、一つ目男はさらにくつくつ嗤うと「痛みはない」と気軽に言う。曰く。
「簡単な事だ。石を俺に渡せば良い。お前、黒い石を持っているだろう?」
言われて、万里ははっとした。一つ目男に視線で手を離すように訴えて、自由になった頭と右手を動かし、中指に嵌めた黒い石の指輪を見る。「ヒュゥ」と一つ目男が口笛を吹いた。正解だと言われたように思い、万里は意を決して指輪に左手指をかける。ぐっと力を込めた両手だったが、万里の意思とは反対に、指輪が緩む事はなかった。
「取れ、な、い?」
「何だと」
呆然と万里が呟けば、一気に機嫌か降下したらしい一つ目男の声がして、ぐいっと右手を取られる。一つ目男は無意識に左腕を動かそうとした様子だが、肥大したそれが動く事はなく、「ちっ」と舌打ちが降って来たので、万里は協力するように右手を差し出した。彼女の協力に、彼は苛々した様子で右手を動かして指輪に触れようとする。
「ちぃっ」
バチっと火花が散った。静電気だろうか、万里にも痛みが走る。同じく手を引っ込めた彼は、最高に苛ついた表情を作ると、きっと万里を睨んだ。
「なるほど」
ぼそっと低く呟かれた言葉は、とてもではないけれど、その場に居たら駄目なモノだと、彼女は直感する。だが彼女の進路は、背中の肘かけと、前の一つ目男で封じられて、動くことができない。びくりと怯えに震えた彼女を目に入れた一つ目男の顔から、表情が抜けて無になった。
「許せ」
一言漏れた言葉は、彼の良心なのだろうか。ぐっと右手で首を掴まれ、押し倒され、万里は足をバタつかせる。首の圧迫からすぐに気道が締まって苦しく、血が滞って顔が熱り、彼女は足だけでなくお尻を持ち上げ、体を捻り、どうにか逃れようとした。さらに両手で彼の手を掴んだが、同じ人の格好なのにどうしてと理不尽に思う程、男の力は強い。無意味に口をはくはくと動かすが空気は吸えず、いつのまにか、バタバタ動く万里を抑え込もうと、一つ目男は彼女の体に馬乗りになって、全力で片腕に体重をかけていた。
また涙があふれたのか、視界が滲む。苦しい、止めてと、口を動かしたが、一つ目男は単眼を見開いて、真剣な表情で彼女を窒息させようとしているし、彼の手首を掴んでも、片手を伸ばして何かを掴もうとしても、止まる事はない。
「――に、たく、な――」
頭がガンガン痛んできて、いよいよ万里は自身が危ないと抵抗を激しくする。指が彼の皮膚を掻いたが、一瞬彼の表情が歪んだだけで、それぐらいでは怯まなかった。苦しい、苦しいと、その思考でいっぱいになる彼女。目を開いているはずなのに、視界が真っ黒になってきて、万里は怖いと叫んだつもりだった。
『愚か者め』
真っ暗な視界に、いつか聞いた声が蘇る。こんな時になって万里は、≪魔女≫に指摘された「望み」を思い出し、「ごめんなさい」と≪誰か≫に謝った。
「――りに、しな――で」
確かにそう約束して、≪彼≫は叶えてくれたのに。万里の協力が無ければ、≪彼≫はこの世界に存在出来ないのに。
「ごめ――な、さ――」
あぁ、ここで終わってしまう。意識が途切れる直前、≪彼≫の纏う、長い蒼が見えた気がして万里は手を伸ばしたが、それが何かを掴むことなく、堕ちていった。