狭間
「バンちゃん!」
先程のパフォーマンスの余韻に浸って呆けていた万里のあだ名を呼び、時計台広場の方から生徒会の女の先輩が駆けてくる。その慌てた様子から、自分は置いて行かれたわけではないと察して、万里は甘えたように「せ、せんぱぁ~い!」と情けない表情と声を出した。
「待ってたんですよ~ぉ!!」
気分が盛り上がったせいで、ちょっと目尻に涙が溜まった気がした万里だったが、「ごめん。ごめんね、バンちゃんっ」と二人に代わる代わる頭を撫でられて、避ける様に片手を持ち上げて誤魔化す。
「本当にごめんね。桐葉の副会長が予め見回るなんて言うから、白樺の会長たちも乗り気になっちゃって……確かに、本番前に会場に不審火なんて見つけちゃうし、こっちも事後処理で大変だったの」
「そうだったんですか。でも、置いて行かれたわけではなくて、安心しました。大変でしたね」
心底ほっとして言う万里をもう一度撫でる二人は、早速「これ食べる?」と出店の品を出してきた。有難く、食べやすいイチゴ飴を貰って笑顔になった万里は相当単純に見えるらしく、「お菓子で許しちゃうとか」とか、「知らない人からお菓子を貰ってもついて行かないように」とか、この年で変な注意を貰ってしまう。
「そういえば、待ち合わせで増えた人って、桐葉の生徒会なんですか?」
「あぁ。そう。日比野会長と、向こうの会長って、仲が良いんですって」
「へぇ」
知らない情報に、万里はそう言うしかない。公立の普通学校である白樺高校とは違い、桐葉高等学校は私立で、充実した設備や派手なイベントで有名な、所謂お金持ちの学校だ。着色料バリバリの駄菓子をポケットに忍ばせている庶民的な日比野会長とどういう接点があったのだろうか、想像がつかない。イチゴ飴に齧り付いて、パリッと飴を割った万里の横で、デバイスに連絡が来たらしい先輩が応えた。彼女の耳元に丸い、目元に板状の光が浮かび、通信が始まる。
「えぇ、合流したわ。それで、貴方達はどこ…あぁ、はい。はい」
短いやり取りが終わった後、今度は肉声で「おーい」と聞こえてきて、女子三人はそちらを見た。常に笑顔の日比野会長とちょっとだけバツの悪い顔の副会長で、万里はへらっと笑って手を振る。そして、駆けてくる二人の後ろに早足でついてきている人影が見え、この人達が桐葉の生徒会かと万里は小さく会釈した。
「お待たせ!」
「ちょっとは悪いって顔しなさいよ、アンタは」
同性の先輩に言われて、日比野は悪びれせずに「うん、ごめん」と軽く謝る。カラっとして引き摺らない日比野会長の謝罪に次いで、副会長にお詫びの品らしいたこ焼きを貰い、万里はお詫びの品が食べ物ばかりな事に、自分がどういう認識をされているのか心配になった。難しい顔をした万里に向かい、今度は桐葉の学生らしき二人が声をかけてくる。
「お待たせしまして、すみません。僕は、桐葉の生徒会長で、桜瀬と言います」
穏やかな声に促され、万里がたこ焼きから顔を上げると、日比野会長よりは若干背の高い、茶髪の少年がいる。だが、ちょっとおかしな事に、彼は出店のヒーローの面をしていて顔が見えなかった。「ん?」と怪訝な顔をした万里に向かい、日比野が(恐らく皆にも同様に言ったのだろう)、「彼は極度の人見知りだから」と解説を入れる。深くは聞くまいと空気を読んだ万里に、今度はその隣の、やけにべっとりした重い色の黒髪の少年が会釈した。切るのをサボっているのか、少し邪魔そうに目にかかる前髪を払う。
「副会長の片岡です。どうも」
副会長と聞き、どうやら彼が、かの有名な“桐葉の見回り番”らしいと見当をつける。以前日比野に聞いた通り、彼の体型は華奢とも言える細さで、ごく普通の少年にしか見えず、万里は目を丸くした。けれども万里の挙動に特に興味がないのか、ぶっきらぼうとも言える温度の彼を見て、そういう反応に慣れているんだろうなとも感じる。筋肉隆々であるとか、大柄ではないけれども、何か武道の心得でもあって、副会長に任命されたのだろうと、勝手に想像した。
「は、じめまして。二ノ宮です。白樺高の1年で、生徒会の先輩方とは、友達です」
思えば、今日の集まったメンバーとは立場があまりに違うのではないかと、言いながら万里は思った。何となく気拙い思いで、立ち上がってぺこりと頭を下げたが、同時に日比野が「臨時会員だよ」と言った事でその気持ちは吹き飛ぶ。
「それは、会長が――!!」
まだ特売日を逃した事は、許していない万里だ。文句を言おうと顔を上げた万里だったが、桜瀬会長のヒーロー面を見て、ここにはお客さんも居る事を思い出し、もごもごした。ちょんっと赤くなる彼女を見て、女の先輩二人が生温かい目をしているのも何だか癪で、万里はさらに小さくなる。彼女が困っていると、桜瀬会長が取り繕う様に続けた。
「ははは。日比野が無理を言っているのでしょう。………よっく、わかります」
最後、ぼそっと呟かれた言葉は真に迫っていて、万里ははっと桜瀬会長を見る。何だか、彼とは仲良くやれそうな、そんな共感めいた意識を持ったのが一瞬、次に彼は、「片岡君も1年なんですよ。二ノ宮さん、仲良くしてあげてください」と、親バカな発言をした。それに曖昧に笑って答えると、淡白に眺めていた片岡が、たぶん微笑んだのだろう、微妙に歪んだ笑みで万里に顔を向ける。
「二ノ宮さん、は、中央公園はよくいらっしゃるんですか」
「えぇ。白樺高は北にあるから、駅に向かうにはここを通るのが早いんです。桐葉はもっと西だから、でも、やっぱり駅を利用するなら通る人が多いのではないですか」
「あぁ、そうですね。俺は、公園の前の大通りを利用しているから、気付かなかった。お住まいは北地区ですか?」
「いえ、私は――」
同学年だと知って親近感が湧いたのだろうか。先程までのぶっきらぼうさが消えて、何かと質問してきた片岡に、万里はお客さんとの意識から丁寧に受け答えする。でもシティ・ロマージュの電車は、西地区から東地区に行くのが主要な線路で、他に南地区の海辺に出るものと、高級住宅地である北地区の途中までのローカル線があるだけだ。だから、なぜ片岡が“北地区”と言ったのか、少々違和感があった。
「もしかして、最近になってこの街に?」
「え?」
質問を返した万里に、片岡は釣り目気味の目を見開いた。そこでも万里は、彼に違和感を感じる。シティ・ロマージュは学園都市だから、進学に合わせてこの街にやってくる人間も多く、交通機関に慣れない印象を受ける彼もそうなのだろうと思っての事だ。けれど、ほんの一瞬、彼の目が鋭くなった気がして、万里は聞いたらダメな事だったかなと慌てた。
少しピリッとした空気になったが、万里が居心地悪くなる前に、日比野が「はい、ストップ」と二人の間に手を下ろしてきたので、そちらにぎょっとする。さらにぎょっとした事に、日比野は馴れ馴れしく片岡の肩に、少し背伸びして腕を伸ばし、したり顔で首を横に振った。
「ダメダメ、片岡君」
日比野の方が背が低いので、彼に合わせて少し屈んだ片岡に、耳打ちして続ける。何処となくドヤ顔をして、子どものつまらない行動を諌めるような態度で、そして言う事と言えば、「僕の目が黒いうちは、僕んとこの生徒をナンパさせない」である。思わず噴き出す白樺の副会長と、冷静に「何言ってんの、アンタ」と突っ込む二人の先輩、そして、ドン引きした万里と片岡がその場に固まった。桜瀬会長が慌てて、「お前、ちょっと黙って」と日比野を片岡から引きはがしたが、後の祭りという感じである。
「挨拶は粗方終わったでしょう。バンちゃん、喉渇いてない?」
そんな折、それまで黙ってにこにこ聞いていた先輩の一人に言われ、万里は空気を戻す為にも、食いしんぼの癒し系キャラに成りきる事に決めた。
「はい、すっごく!」
☆★☆
「じゃあ、バンちゃん、寄り道しないようにね」
「はい。それでは、先輩、また学校で!」
楽しい時間はあっという間に過ぎる。お祭りの雰囲気によって同校の生徒会員は元より、初対面の桐葉の生徒会員にも慣れたように万里は思った。同学年であるのは万里と片岡だけだったが、先輩たちも交えて話すとそんなのは気にならず、特に穏やかな声音の桜瀬会長に万里は懐いた。少々気にかかるのは、同校の先輩たちによって、食いしん坊キャラだと片岡に思われたような気配がある事だが、桐葉の見回り番として毎日忙しいらしい彼なので、そうそう接点もないように思い、なかった事と同じだろうと彼女は思い込む。
さて、男性陣は今後の活動の話があるとかで、ファミレスに寄って帰るらしく、女性陣は遅くならないうちにと帰された。しかし残念な事に、先輩は西地区と南地区なので、万里と駅構内への入場ゲートが違う。さらに万里の乗る電車はタイミング悪い事に20分後で、彼女は時間を確かめながら、ゲート前、――ライオンの銅像が置いてある事から――通称:ライオン広場のベンチに腰掛けた。すっかり暗くなっていて気温が下がり、大きく開いた駅間口の奥の位置であるベンチには外からの風が吹いていて、少し寒い。持ってきた大判のマフラーをストールみたいに肩に巻いて、万里は冷たくなった手先を温めるためにポケットに手を入れた。
「ん?」
指先に硬い物が当たる感触に、彼女は思わず声を漏らす。今日は素敵な事があったなとそれを取り出せば、使徒の格好をしたイベントスタッフと踊った時の記憶が蘇り、思い出し笑いした。それにしても、男物とも言える無骨な指輪だ。どの指に入るかなと、太い指の節を気にしつつ、万里は右手の中指にそれを嵌める。
嵌めた瞬間、中央の黒い石がつるりと光った。そんな気がした。
途端、万里は左目に強烈な痛みが走って、「痛い!」と大きく叫んで、顔を押さえる。目にシャンプーが入った時の沁みるような痛みの刺激と目の奥の鈍痛、それから抑えた手まで温めるかのような発熱がある。先程まで何事も無かったのに、急に来たそれに、万里は恥も外聞もなく「痛い」「痛い」と叫び、唯一見える右目で涙を流した。何か目にゴミが入ったとか、そういう類の痛みではなかったが、流れた涙で少しでも痛みが和らげばと期待する。けれど、まるで目が顔から飛び出してくるような変な圧迫感を手に感じて、万里は、自分の体が変になるような恐怖に、「お母さん!」と助けを求めた。
いや、違う。駅にいる人に救急車を呼んでもらおう。痛みはずっと続いているが、泣きながら万里は考え、必死に左目を押さえたまま、右目で周囲を見た。痛みもだが、体が訳も分からずどうにかなってしまいそうな不安に、涙が漏れて視界が煙る。今日はお祭りだから、まだまだ人通りは多かったはずだと必死に人影を探す万里だったが、駅構内はシンとしたものだった。
あれっと思った彼女の視界に、動く影のような、靄の様なものが見え、それが人の形をしていて、勝手に動いているのを把握する。その形や動きが、先程まで眺めていた駅の内部の人々の動きだと理解した瞬間、万里は、耳の近くでマイクのハウリングを聞いたような、そんな大きな耳鳴りが鳴って、泣きながら「きゃああぁ!」と左目と右耳を覆い、首を竦めて身を固くした。
「や、ぃやだ。何…」
幸いなことに耳鳴りは一瞬で、そのショックか、左目の痛みが止まる。そろそろと右耳と左目を押さえる手を外して目を開けると、もう駅構内には靄の様な人影もなく、完全な無人となっており、万里は「何で?」と繰り返した。視界は人がいない事以外は変化なく、痛んだ左目の視界も良好。呆然としながらも、万里はバックに入れた鏡を取り出して、恐る恐る、痛んだ左目を見た。
「―――…っ」
悲鳴は言葉にならなかった。万里の左目は、右目より三倍も見開かれて、丸い宝玉を顔に埋め込まれたかの様な有り様で、さらにその色が蒼、そして瞳孔が円でなく鋭く縦に線が入ったようになっていたのである。異形となった目であるのに、元のままの右目同様、彼女の感情と連動して涙を流していた。確かに、自分の目であると認識し、万里は耐えきれなくなって両肩を抱きしめ、か細く、「お母さん…お父さん…」と居ない両親に助けを求める。
「助けてぇ…誰か…」
もうどうして良いのかわからず、万里は縮こまるように体を前に倒し、目を閉じて涙を落ち着かせようとした。とりあえず、しゃくりあげたままでは何も出来ないのを、無意識に感じていたためかもしれない。ぎゅっと視界を暗くして、ひっくひっくと呼吸を一生懸命繰り返していると、顔は熱を持っているものの涙は止まる。
左目は触るのが怖いので、右目の涙を拭い、万里は周囲の何が変わったのかと調べ始めた。まず自分だが、左目以外は持ち物にも服装にも変わりがない。つぎに周囲だが、人工的な明りはずっとついたままであるのに、人だけ居なくなっていた。いや、たぶん、他の生き物もだと、正面の中央公園を見ながら、彼女は思う。緑があるはずのそこから、夜の虫の気配だとか、木に眠る鳥の声が聞こえなくなっており、さらに彼女の不安を煽った。
「どうなっているの…?」
とりあえず、他に調べる事を探そうと彼女は立ち上がる。荷物は失くさないようにしっかりと持って、今日の16時頃と同様、駅の間口と階段の接合部に立った。帯の様に見えていた人影はさっぱりなく、けれど、人の気配が全くしない街の建物に明りがついている奇妙さがある。心なしか、街を渡る夜風が次第に強くなっているような、根拠のない不安は止まらず、万里は何はともあれ、家に帰らなければと考えた。
「電車、来るんだろうか」
ただ人がいないだけでエネルギーは通っているようだし、電車はほぼ自動で走っているので、待っていれば、定刻に来るかもしれない。そう考える一方で、こういう怪異染みた状況で電車に乗ると、全く知らない無人駅に送り届けられるという怪談も思い出したが、万里の家である東地区は、歩いて行くには遠すぎるのだ。困ったなと、ゲートの内部、電光掲示板を見た万里だが、即座に電車に乗るのは止めようと考える。悪質なウイルスにかかったデバイスの表示文字のような、崩れた字体が流れていたのだ。
はっきり自分の置かれた状況のおかしさを感じた万里は、何事か無意味に叫びたいのを我慢し考える。こんな変な状況で、暗い夜道を長時間歩いて自分の家に帰りつける気はしなかった。むしろ朝が来るまで、決して明りが消える事が無いこの構内に留まっていた方が、余程安全ではないかと考えたのだ。本当に朝が来るのだろうかと不安にもなるが、空を見れば星が瞬いて、そしてゆっくりと流れていくのがわかる。この空の様子は、元の世界と同じだと、それは確信に近い思いを抱いた。
「女神さま、お助け下さい」
万里は初等教育の一般常識として蒼穹神話を習ったクチだが、滅多に唱えない聖句を念じ、女神の加護を願ってそう両手を組んで夜空を見上げた。そんな彼女の願いが届いたのか、急に彼女のデバイスが鳴る。表示は無通知。だが、確かに彼女の知っている文字だったので、万里は一縷の望みをかけて、それに出ることを決心した。
「もしもし」