一つ目お化け
万里の通う白樺高校は、中央地区の北側、地図で言う『中央公園の上』あたり。だからか、薄暗い昇降口を出た彼女の目に、最初に飛び込んで来るのは、公園のさらに中心にある時計台である。夕日に照らされて影になっている景色は見慣れたもので、眩しさから目を細めて立ち止まった彼女は、またすぐに歩き出す。
「日が長くなってきたなぁ」
中央地区の何処からでも必ず見える、中央公園の高層な時計台は、ある意味街のシンボルである。真夜中でも遠慮なく鳴り響く時計台ではあるが、夜間はほぼ無人となる中央地区にあるので、万里は昼間の明るい時間帯のそれしか知らない。けれど、こうして夕闇に浮かび上がる姿を見れば、昼間の荘厳さよりも不気味さの方が勝る気がした。それもこれも、級友のレイナが変な事を言うからだと、彼女は軽く肩を落とす。
「私の、望み、か」
何とも曖昧な、通称:魔女の予言に、万里は眉根を寄せる。とりあえず、将来を決めなさいという無理難題は高校を卒業するまで保留出来るとして、今の自分の気持ちを考えた。けれど、即物的な彼女の思考では、お金があったら新しい鞄と、ちょっとした記憶媒体が欲しい、新しい映画が気になると言った所で、これぞというモノが浮かばない。
「私の、望み…」
繰り返しながら足を進めて、校門を出る。今日はレイナの部活動の日であるので、一人、帰路だ。校門の外では、中央地区をバンと半分にする、中心街道に沿って移動し、駅へ近道するために中央公園を横切れば良い。人工物だらけの中央街道から公園に入れば、土の湿った空気と薄寒い木陰が、万里を身震いさせた。それから、びゅっと頭のやや上を通り過ぎた、春一番。
「うぅ、寒」
ずっと考え事をしながらの移動であった万里は、公園の静かな気配と、目に入った、夕日の当たるベンチに引き寄せられる。丁度、その横に自動販売機があったというのも大きい。答えの出ないもやもや感に難しい顔をした彼女は、気分転換と、温かいミルクティーを購入した。「あち、あち」と両手で転がして、ベンチに腰かける。ゆったり座ると、等間隔で植えられている街路樹の隙間から、時計台が見えた。さわっと、小さな風が吹き、万里は乱れた前髪を指先で払い除ける。――と、クリアになった視界に違和感を覚えて、万里は瞬きした。
「人…?」
夕日を受けて巨大な影のように浮かぶ時計台の、丁度、避雷針の所。ほっそりとした針に重なるような、人のシルエットを模した凹凸が気になり、彼女は目を凝らす。自慢ではないが、目は良い。二重に見える、根本だけ小さく膨らんだ不格好な避雷針は、どうも誰かがそこに立っている様に見えて、万里は少しだけ上体を前に動かした。
「あんな所、登れるんだ」
シティ・ロマージュが出来た当初からあると噂の時計台は、当然古い。だから、大方、定期的な補修工事だろうと見当を付け、何処からあんな場所に登れるのか、内部は関係者以外立ち入り禁止の時計塔を想像し、万里は眺めた。人影が何をしているかなんて、あまりにも遠くてわからない。米粒ほどの小ささの中に、よく人影を見つけたなと、自分の目の良さにある意味感心するほどだ。凝視していると、眼球が乾いてきて、視界が曇る。そして瞬きする前、その人影がゆらりとこちらを見たような気がした。夕日の赤だらけの光の中、一瞬だけ反射した色は黒――いや、たぶん、景色が赤と混ざっているから、緑だ。
「ん?」
よく見えなかった。だから、万里は何度か瞬きして調子を確かめ、ぐっと目頭を押さえて気合いを入れると、再び時計塔の先端を見る。
「んん?」
一連の動作に掛かった時間は一分もないはずだ。だが、次に見た時計塔の先端に、先程の人影はなくなっていた。ついつい人影を探すように時計塔の先端から下、時計盤の方へと下がるが、やはり見当たらない。作業が終わったのか、裏側に移動したのだろう。そう思い、万里は凝視していた目を閉じて休ませた。薄暮とはいえ、日向で目を閉じていると瞼の中は真っ赤だ。眩しく感じて頭を下げ、日光の温かさが残る感触を楽しむ。ぽかぽかしてきた所で、意地悪く風が吹いた。
「いーっ」
先程もそうだが、春先は、日が落ちるあたりから風が一気に冷たく感じる。悪態をついて目を開けた万里は、消えゆく日向の代わりに、暖を取っていたミルクティーの缶を開けようと思いついて、両手を開いた。
『おい』
そんな時、誰何の声を受け、彼女は顔をあげる。毒々しいまでの赤を振りまく夕日は、ぼちぼち沈みそうな時間で、公園の散歩道沿いの外灯が点灯した。これまたぼんやりとした外灯の明りの下、左右を見た万里だったが、声の主の姿はない。若い男性らしき声は、存外近くから聞こえたように思ったが。
背後の、道路と公園を分ける生垣の向こうから聞こえた声を、自分への誰何と勘違いしたのかと思いなおそうとした彼女だが、耳を澄ませていると、誰何の声以外――要は、車の音やら雑踏の音やら、雑音の類が一切聞こえなくなっている事に気付いた。
思わず溢れた唾液を、時間をかけて嚥下する。公園の外灯と混ざる夕日の残滓はもう見えない程で、足元が一気に夕闇で溢れていた。手の中の缶はまだ温かいのだが、それ以外の全部が凍ったように感じ、万里は体に緊張を走らせる。周囲に気付かれないようにだけはしないと、と、咄嗟に頭に浮かび、彼女は無言で立ち上がった。幸い、鞄の紐は片肘に通したままなので、不自然にならない動作でそれを肩にかけて、しっかり持つ。残ったミルクティーの、中身の詰まった缶は片手で持って、――もちろん、いざとなったら投げつける武器にするためだ。
いざとなったら――?
心中で浮かんだ言葉を、万里は苦々しい思いで噛み締める。不自然な程音がない周囲に、誰かわからない誰何の声、そして、闇が溢れる夕暮れ時。絶好の怪談話の舞台ではないか。万里は急にドキドキし始める。先日の駅での出来事が思い出され、しかし、その時とは違って、自分の体を動かせるという点に安心をした。『大丈夫だ』、『不穏な影は見当たらないし、異様な寒気や存在感を感じているわけでもない』と、彼女は頭の中で自身を鼓舞する。
このベンチがある場所は公園の端なので、少し走れば、駅前の大きな道路に出る事を知っているのも大きい。多少足が遅い万里だが、真後ろに何か居る訳でもなし、真っ直ぐ走れば大丈夫。大丈夫、だから、落ち着いて。そう一歩踏み出した彼女に、再び誰何の声がかかる。
『おい、お前』
今度こそ、声が何処からかかったか、万里は理解した。先程彼女が見渡したのは、あくまで一般的な人間が立ちあがった時の目線の高さ、である。けれど、声はそのさらに上からかかっていたのだ。音から判断したというのもある。が、より明確にその存在を知らせるのは、駅の方を向いた彼女の足元。自分の影に重なるように、外灯と、その先頭にもう一つ、塊があった。
理解した瞬間、どっと頭皮から何か出た気がした。生まれて初めて体験したのだが、きっと、これが冷や汗と言う奴だと思う。振り返るべきかと自問して、これが怪談ならばそれはNGだという思いと、まさか単に人通りが少なくなったのに恐怖しているだけかもしれないという希望が出て、万里の動きは止まる。
いやいや、冷静になるのだと、彼女はぎゅっと肩にかかる鞄の紐を握りしめた。声は、自分と同じぐらいか、少し年上の若い男性のモノだ。学園都市であるシティ・ロマージュで、学校や学年は違えど、似たような世代の学生が出会うのは不自然ではない。特にここは、昼間は人通り多く、別地区の住宅街に住む主婦やら子ども連れも来る、中央公園である。
緊張のあまり、万里は混乱していた。そう、外灯の上に立つような、影の形の明らかな異様性を忘れたのだ。高校生にもなって、しょうもない悪戯をしているのだと思い込んだ。そして、振り返る。
「―――…」
自分の目線の高さに人影はない。ただ、一本の外灯があって、自然に目線が上がった。シティ:ロマージュは古い映画を模した街であり、外灯も小洒落たガス灯の外見をしている。結構な高さもあり、スラリとしたそれを足場に立つには大変だろう。どうしてそんな所にと言った場所に彼は居た。その姿に、万里は足元から崩れ落ちそうな気分になる。
中央地区のこの時間帯は帰宅部の学生が多く、学生服はブレザーか学ランが主。私服の所もあるけれど、目の前に居る人物のように、両裾がこれでもかと靡いているのはないだろう。今風でないというか、和装、その中でも特殊型の服装だ。それだけでも変であるのに、目があった男の顔は、たった一つの目しかない。隻眼ではなく、本当に、顔の真ん中にどんと巨大な目が開いている。倒れはしなかったものの、万里は逃げる機会を失った。
「グ、グランディス…?」
か細く出た声は、大きな一つ目を指摘するより、別の事柄を指した。万里を含むアース系人類は、東洋系の黒と西洋系の金や茶の髪で、グランディス系人類のような赤や青、黄色、橙、紫などの奇抜な色はない。そしてここは、アース系人類の住む街である。それにも関わらず、目を丸くする万里を外灯の上から見下ろす彼は、鮮やかな夏の若葉色の髪をしていた。だから、思わず、滅多にお目にかかれない他人類――要するに万里にとっては宇宙人だ――の可能性を考えた。いや、でも、授業で、彼らはアース系と同じ姿形をしていると習ったはずだ。こんな単眼ちゃんとも呼べる大きな特徴があったら、教えないわけはないだろう。ということは、これは、オバケ、なのだ。
「ひぇっ」
繋がった瞬間万里は小さく悲鳴をあげて、逃げ腰に背を丸めた。顔の上半分、目以外の場所を包帯で巻いた男は、万里の行動に僅かに目を細め、より凶悪になった表情で、どすっと地面に降り立つ。咄嗟に万里は周囲を見た。誰でも良いから、人がいないかと探す。しかし、帰宅時間であるのに、都合よく一人もいない。そうだ。雑音が聞こえない周囲の異常性に、この場から逃げ出そうと考えていたばかりだったと思い出す。
――私の、バカ!
心中で罵倒すると、万里はくるりと踵を返して、駅の方へと走り出した。
『―――え、も―――るな』
走り出した所で、一つ目男の声がかかる。一心不乱に前に走っているため、何を言っているのか聞こえなかったが、オバケの言う事など聞こえない方が良いのだ。追い駆けてくる気配はないのが幸いで、万里は息を切らせてカーブした道を走る。数メートル先に、公園の出入り口である、門と二本のステンレスポールが見えた。ぱっと喜色を浮かべた万里はさらに、ステンレスポール横の生垣から誰かが出てくるのが見えて、息を弾ませる。
「あ、あの!!」
誰でも良いから、捕まえなければ。走った勢いのまま、出て来た誰かを呼びとめようと足を動かした彼女は、その人の服装が変なのに気付いて急停止した。その姿は、先程の一つ目男である。足首をくじくかという強さで反転し、バランスを崩した体を片手で地面を押して立てなおした彼女は、元来た道を戻り始めた。その背後から、再び一つ目男の声。
『持っているだろう。寄越せ』
今度ははっきり聞こえた。持っているだろうって、何だ。寄越せって、何をだ。もしかして、自分の命の事を言っているのだろうかと考え、言い様のない恐怖に襲われた彼女は、走りながら背後を見た。一つ目の男は、静かに立っている。が、目があった瞬間、その姿は大きく飛び上がった。思わず立ち止った万里の頭上を、ぽんと軽々飛び越えた彼は、静かに着地して彼女を振り返る。瞬間、覚悟を決めた万里は、大きく鞄を振りあげていた。
「い、やあぁぁぁぁぁぁっ!!」
ちっと、小さく舌打ちが聞こえたが、まさか目の前のオバケがやったのだろうか。ひと思いにぶん殴って、怯んだ所を逃げると決めた万里は、我武者羅に鞄を振りまわした。人を殴った事なんて、普通の女学生である万里にはない。オバケだとしても人を傷つける行為に万里は半泣きで、最後の方は、目を閉じてしまっていた。教科書の詰まった鞄は重く、重量に振り回されるようにしていた万里は、しばらく暴れて勢いが弱まった所で、強い力に鞄を押さえつけられ、動けなくなる。はっと目を開けると、30cmと近くに一つ目の顔があった。
『手間をかけさせるな』
至近距離で見た一つ目は、思っていた程、恐怖を抱かなかった。ホラー映画のように狂気に濁る様な事もなく、たった一つの目を器用に眇め、苛立たし気な感情を乗せてくる。むしろ理性的かもと、呆気にとられた万里だが、はやり怖いものは怖い。男性らしい強い力で抑えつけられた鞄に、彼女は一、二もなく手を離す。当然、鞄を捨てて逃げる算段であったが、彼女は、手から缶の感覚が消えているのにも、気付いていなかった。そして、その缶が足元に転がっているのにも。
逃げようと足を横にずらした万里が、何か固いものを踏んだと思った瞬間、ずりっと視界が回転する。一瞬の浮遊感に思考が真っ白になったと思ったら、同時ぐらいのタイミングで、背中と後頭部に鈍い衝撃が走った。
「いぃっ、つっ―――!!」
衝撃を感じた後、物理的に、視界が白くなった。激痛から、『何でこんな目に』と考える間もあっただろうか。彼女が体を庇うようにごろっと横になって、後頭部に手を当ててもがいていると、「大丈夫!?」「おい、誰か!!」と通行人らしき人の声が聞こえて来た。そして、痛みに目を開けられない、動けない彼女の周りに、沢山の人の気配。
痛む頭とは別に、「あ、良かった」と彼女は思う。周囲の雑音が嫌に安心感を与えてくれる事ともう一点、土の地面に落ちている鞄の他、先程の奇妙な男の姿がもうない事に気付いたからであった。
☆★☆
頭を打ったからと病院に運ばれた万里は、生まれて初めて救急車に乗った。痛みで朦朧とした思考で救急救命士といくつかの質疑を交わし、よくわからないうちに磁気共鳴画像解析装置に押し込められ、よく覚えてないうちに病院のベットに寝た。だから、体が横たわる感覚も可笑しくはない。
どれぐらい眠っていたのか、ふっと意識が浮上して、目を閉じていながら、体感で自分の体の様子を把握した。それから万里は、それ以前の記憶もぼんやり思い出した事に、どこかほっとして眉間のしわを緩める。ただベッドの感触が、寝た時よりも、もっと硬い物に変わったように感じるのが頂けない。強張る体は寝返りをうつことはなく、ぴんとしたままで、打撲によるものか不動によるものか、背中が痛いのだ。
思わず顔がくしゃりとなったが、動けるのは顔の表情だけで、それ以外は脱力したように動かない。恐怖心はないので構わないのだが、きっと夢から覚める間際の金縛りなんだろう。背中や後頭部がじんじんと気にもなるが、眠気の方が物凄く強く、このまま寝入るよう、彼女は口の中で生まれた小さな欠伸をむにゃむにゃ噛んだ。すると、ふっと顔に何かの影がかかる気配がする。長い直毛の髪が揺れる音と、誰かのため息。
『―――…』
誰だったかと、開かない瞼で考えた彼女の額に、その誰かの手が触れた。少し硬い皮膚の指先と大きな手の感触は、馴染みない男性のもので、たぶん、年上。そう考えたところで、万里は混乱した。病室に寝ている自分の寝顔を覗き込んでくるからには、自分にとって親しい人間の行動だろうと思うのだが、一番可能性の硬い両親は、万里が幼少の頃に離婚している。万里を引き取った母親も、仕事の都合で他の惑星へ赴任していて何年も帰っていないし、入学式や卒業式だってデバイスで指示報告だけの淡白なものだ。祖父母も、小さい頃に亡くなっていたり、もうよくわからなくなって施設に入っているはずである。父親は絶対違うとすると、年上男性で知り合いは、学校の担任か、日比野会長ぐらいだ。万里の中で、彼らは無遠慮で、こんなに慎重に自分に触れてくるイメージはないが、意外な一面か、感受性が強くて同情したのかもと、撫でられるような動きに、彼女は力を抜いた。
その時だ。万里の額を撫でている≪誰か≫が、ふっと息を漏らす。ほっとした意味で吐く息でないのは、聞いた音から十分に理解できた。これは、嘲笑だ。額からの感触はとても丁寧だったので、困惑して万里は閉じた瞼の下でぐるっと目を動かした。優しい手付きの、けれど、嘲る声の持ち主は、そのまま万里の額を撫で続けている。
『愚か者め』
≪誰か≫がやっと言葉を吐いた。意外な事に、聞き覚えのある声だ。小さな驚きを持った万里は、一瞬だけ、相手の顔を見ようと考えたものの、強烈な眠気に引き込まれており、瞼が重い。無理に力を入れようとしても、むずかる赤子の様に、唸って顔を逸らすのが精いっぱいで、そのまま寝返りしようと試すが、それ以上は動けなかった。体の感覚から、今寝ている寝台がとても狭い事に気がついたのもあるが、酷く億劫なのだ。
うんうんと呻く彼女に気付いた≪誰か≫は、次に撫でていた手を押しつけるようにして、ぐっと手荒く彼女の頭を掴んだ。圧迫がかかり、そして、≪誰か≫は身を屈めたか、万里の耳元で続ける。
『お前が死ぬのは、少々、困る』
自分の生存を望まれる言葉は、喜んでいいのだろうか。言葉と裏腹、声音は実に忌々しいと吐き出されたのが、とても気にかかる。自分が死んだ所で、家族や友達は別にして、覚えても居ない誰かに迷惑がかかるとは思えないのだけれどと、圧迫がかかる頭に不快感を覚えて万里は思った。そう、ここまで来ても、相手が誰か分からないのである。ぎりっと相手の感情を示す様に、頭に置かれた手に力が籠もった。少しだけ痛みを感じて、万里はようやく薄らと目を開ける。
「だ、れ?」
漸く開けた視界には、視界を遮るような骨ばった手と、逆光に薄れる人影が見えた。≪誰か≫は、万里の声に視線を搦めて嗤ったような気がしたが、結局、眠気に負けて意識を失う万里は、はっきり認識できなかった。