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一男、ジョン、幸せを掴めるか・・・

「わっ、やめろっ!!

 わかったよ、わかったからその手を早く引っ込めて、お願いっ!!」

 

          9

「5日間延滞で千五百円になります」といったアルバイトの店員は、いつも通り一男にからまれると思い身構えたが、一男は何も言わず千円札を二枚差し出した。

 そして、五百円のお釣りを受け取った一男は、懺悔室でひざまずくクリスチャンのような目をアルバイトの店員に向けた。

「面接まだやってますか?」

「ア、アルバイトですか?」

「ええ」

「ちょっと待ってくださいね。店長に聞いてきますんで」

 暫くすると、店員はビデオテープがぎっしりと詰まったスライド式の棚の後ろから出てきた。

「大丈夫です。

 履歴書はお持ちですか?」

「はい」

 じゃあこちらに、とカウンターの中に手招きされた一男は「この間の赤い奴は?」と店員に聞いた。

 すると、「うちの店長、ああいうの、これなんですよ」と言って、店員は胸の前に小さな×を作った。


「今予備校に通ってるんですか?」

 和田と言う名の店長が一男に聞いた。

「いえ」

「じゃあ、フリーターって言うことですか?」

「まあ・・」

「もったいないねえ、いい学校でてんのに。

 どうして大学には行かなかったの?

 そのまま上に上がっても良かったのに」

「まあ、行ってもあまり意味がないかなと・・・・」

「そんなの行ってもいないのにわかったの?」

「高校の時から、ずっと学校なんて行く意味あんのかなって思ってたんで・・・」

「まあ、それぞれ考え方があるからね」

 高校入試の受験票に貼った写真を貼り、学歴の最後の欄に“私立東都大学付属高校卒”と書かれた履歴書を見て店長は言った。

「じゃあ、うちの条件なんですけど・・・」と言って、店長は、勤務時間は夕方五時から夜十二時まで、週最低四日勤務のうち土日は必ずどちらか出勤、時給は初めの一カ月は研修期間と言うことで700円、研修期間が終わると50円アップ、更に夜十時以降は100円アップになることを早口で説明した。

 一男は、月曜から木曜と、店長にできれば土曜に出勤してほしいと言われ、「わかりました」と言って採用が決まった。

「アルバイトの経験は?」

「ありません」

「じゃあ、記念すべきフリーターデビューなんだ」

「まあ・・」

「なにも仕事は難しくないから。

 今フロントにいた、武田君って言うんだけど、彼も今年の春高校を卒業して、アルバイトに来てくれてるんだけど、彼と明日の夜から一緒に入って、いろいろと教えてもらってくれる。単純な仕事だからすぐに覚えられると思うし。

 あと、従業員割引でビデオは二百円で借りれるから好きなのがあったらどんどん借りてくれて結構です。ただし、新作ビデオだけは、お客様優先と言うことで、少し時間が経って貸し出し頻度が落ちてから借りるようにしてください」

「わかりました」

「アダルトばかり借りないようにね。全部データが残るからすぐにわかるんで」

 笑わずに、はい、と答えた一男に、店長は「じゃあ明日からお願いします」と頭を下げ、立ち上がろうとした一男にもう一言だけ言った。

「あくまでもサービス業だから“です”“ます”は、はっきりと言ったほうがいいよ。あと、笑顔もね」

「は、はあ」と一男は顔を引きつらせながら言った。


          жжжжжжжжж

 玄関のドアを開けると、リビングと廊下を隔てるドアが開いていて、その向こうに犬の姿が見えた。

 瞬間、体が硬直し、こっちに向かって駆けてきた犬がリリーだとわかったとき、すでにリリーは一男に向かってジャンプした後だった。


 典子に支えられるようにして立ち上がった一男は、口元のよだれを拭った。

「ど、どうして放し飼いになんかするんだよ」

「家の中でリードに繋いで飼っている家なんかないわよ。

 島田さんとこみたいに門扉があって玄関の前にスペースがあれば別だけど、うちは玄関でるとすぐに外の廊下なんだからしょうがないわよ」

「理由はどうあれ、とにかく俺の目の前でうろうろさせるのだけはやめてくれよ、お願いだから」

「じゃあどうしろって言うのよ。

 家の中に檻でも作れって言うの」

「いや、だから、俺がいるときだけでいいからどこかで隔離するとかさあ・・」

「あなたがいるときって、ほとんど毎日ずっといるじゃない。

 それじゃあ、リリーちゃんが可哀想よ」

「それなら大丈夫だよ。

 明日からバイトに行くんで、夕方からは家にいないから」

「バイトって?」

「さっき決めてきたんだ。

 駅に行く途中にあるレンタルビデオ屋。

 月曜から木曜と土曜日の週五日。夕方の五時から十二時まで」

「じゃあ大学は?」

「いかない」

 リリーが典子の胸の中でクーンと鳴いた。

「あら、そうなの。

 お父さん楽しみにしていたのに・・・」

「大学行くだけが人生じゃないし。

 あっ、そうだ、風呂なんてどう」

「風呂って何よ?」

「リリーを飼うところだよ。

 あそこならそんなに狭くないし、それに俺が風呂に入るときでも、浴槽に入れて蓋をしておけばシャワーだけでも浴びれるし。

 ねっ、そうしよう」

「わかったわ。

 じゃあいろいろと用意するものがあるから、私ペットショップに行ってくるから、あなたリリーちゃんをお散歩につれていってあげて」

「ちょっと待ってよ。

 そんなのできるわけないよ」

「あなたが預かってきたんだからそれぐらいやりなさいよ」

「途中でうんこでもしたらどうすんだよ」

「その夏見ちゃんだっけ、その子の出したうんこだと思って拾ってあげなさいよ」

 言い残すと典子は出ていってしまった。


         жжжжжжжж

(あれっ、一男の悲鳴じゃねえか。

 あの馬鹿、またゴキブリでも出てきたんだろ。

 毎日毎日ぶらぶらしやがって。暇だからろくなことしねえんだろな。少しは働けばいいんだ。

 おっ、誰か出てきたぞ)

 ジョンは背伸びをして郵便受から外を覗いた。

(なんだ、一男のおふくろさんじゃねえか。

 しかし、あの人も苦労だよな。一男みたいな馬鹿な子供を持って。いっそのことおいらみたいに犬のほうが良かったかも知れないよな)

「どうしたのジョンちゃん?」

 立ち上がって外を覗いているジョンに気づいた島田さんの奥さんが近づいてきた。

「くーん」

「そうよ、外が恐いのよね。また誰かにいたずらされると思うと恐くて出れないのよね、可哀想に・・・」

(申し訳ねえ、ご主人様。

 ただ、一男のことなんか、おいら全然恐くねえんだ。あんな奴、ちょっと吠えてやればしっぽまいて逃げていくんだ。

 なんていうか、今の俺には刺激が必要なんだ。こう、心にぽっと火が点くような、なんて言ったらいいのかわかんねえんだけど・・。 あれっ、また一男の悲鳴じゃねえか。とうとうあいつも頭がいかれちまったかな?)

「向かいのあの子の声ね。

 あの子にはジョンちゃん気をつけなさいね」

「くーん」

 ジョンの頭を撫で、島田さんの奥さんは戻っていった。

(俺もこのまま朽ちていくのかなあ。

 本当に俺は幸せだったのかなあ。

 この扉を開けて門を飛び越え、新しい世界に飛び込んでいこうかな。

 でも、そんなことしたら、ご主人様が悲しんじゃうよなあ。

 あーあ・・・・)

「キャンキャン」

(あん、なんだ?)

「キャンキャン」

(あれ?

 確かに犬の声だな。

 いや、俺もひょとして一男みたいに頭がおかしくなったかもしれねえ。

 人の声か俺達の声か分からなくなっちまったんだ。情けねえ)

 その時、向かいの家の扉が開く音がし、すぐに一男の「やめろーっ!!」と言う悲鳴がした。

(あの野郎、本当に頭がおかしくなったんじゃねえのか)

 ジョンはもう一度立ち上がると郵便受から外を覗いた。

 そこには、へっぴり腰の一男が、リードに繋いだヨークシャーテリアに振り回され、わめき散らしている姿があった。

(おいら、目までおかしくなっちまったよ)

 ジョンは前足で目を擦ると、もう一度郵便受から外を見た。

「キャンキャン」

 門扉の向こうで、雌のヨークシャーテリアが、郵便受から覗いているジョンの目を見つめて鳴いていた。

「キャイーーーーン!!!」

 ジョンは前足でドアを蹴破ると、陸上選手がハードルを飛び越えるようにして門扉を越えた。

「なんだこの野郎!!」

 一男は罵声を浴びせたが、ジョンに「ワウーッ!!」と威嚇されると、後退りし、握っていたリードを放してしまった。

 よたよたと廊下を歩くリリーに、ジョンは後ろから乗りかかった。

「やめろっ、このエロ犬がっ!!」

(やめれるわけないだろっ。

 今日の今日まで、大事に守ってきた童貞をやっと捨てれるって言うのに。

 これでおいらも晴れて立派な雄になれるって訳だ)

 ジョンはもう一度一男に向かって威嚇の「ワウーッ」を発すると、短い後ろ足を踏ん張り、ぐっと腰に力を入れた。

(うぉーーっ!!)

 ジョンは、射精とはこういうものかと思った。

 全身の力が抜け、体が宙を舞っているような、確かに廊下の天井が見えた。

(あー、気持ちいいなあ。もうこのまま死んでもいいや。

 あ痛っ、何か後頭部を打ったような痛みだぞ。ひょっとしてこれが“エクスタシー”ってやつか)

 しかし、それは、エクスタシーでも何でもなかった。

「ジョンちゃん、やめなさいっ、頭でもおかしくなったの!!」

 ほとんど悲鳴に近い声を発して飛び出てきた島田さんの奥さんは、力まかせにジョンをリリーの背中から剥ぎとった。

 ジョンは一瞬宙を舞った後、廊下に背中から落ち、仰向けになったまま気絶してしまった。

「お医者さんが言ってたように、やっぱり躁欝病だったのよ。こんな可愛いワンちゃんを見て、急に欝から躁になっちゃったのよ、きっとそうだわっ」

 泣き叫ぶ島田さんの奥さんの横を、リリーに引っ張られるようにして一男が通り過ぎていった。


         10

 リリーを預かって十日目の夜、バイトを終えて帰ってきた一男は、リビングのテーブルの上に一通の絵葉書が置かれてあるのに気がついた。

 どこかわからない街並が写った絵葉書を裏返すと、ローマ字がたくさん並んでいる中にnatsumiを見つけ、数少ない日本語で書かれた“早く会いたいです”を確認した。


         жжжжжжжж

 ジョンは少しでもリリーの近くにいたいという一心で、ご主人様には申し訳ないと思いながら、童貞を捨て損ねた日の夜から三日続けて真夜中に吠え立てた。

 堪り兼ねた島田さんの奥さんは「やっぱり躁病だわ」と心配しながらも、昼間の食欲も旺盛なことから「元気になったってことで」と自分を納得させ、ジョンを小屋に戻した。

 そしてジョンは、朝と夕方の二回の散歩に典子につれられて出てくるリリーを見かけると、禁欲の塊となった囚人が如く、門扉のアルミのフレームの隙間から濡れた舌を差し出し「ゼーゼー」と重い息を吐いた。


         жжжжжжжж

「まずいよ」

「大丈夫だって。

 こんな古いビデオ誰も借りないって」

「たまに抜き打ちで調べてるみたいだぞ。

 貸し出し回数が少ないやつをリストアップして、そのテープがちゃんとあるかどうか調べてるってカズと代わりに辞めていった人が言ってたぞ」

「パッケージを残しとくから駄目なんだよ」

と言って、一男は、若い頃のクリント・イーストウッドが映った“荒野の用心棒”のパッケージを両足で踏みつけ、ごみ箱に放りこんだ。

 あっけにとられている武田君の横から一男はレジにひょいっと手を伸ばし、千円札三枚を抜き取った。

「それは絶対にまずいって」

 武田君は顔を紅潮させて言った。

「新人の俺がミスしましたって言えばそれで通るだろ」

「カズ、そのレジの金額が出ている横に赤く小さなランプが点っているだろ」

「ああ」

「それ、店長が裏の部屋から見てるんだよ。

 あの人はそういう人なんだから」

「あっ、そう」

 一男は千円札を口に加えると、その小さな赤いランプに向かって「しぇーーっ!」と叫んだ。

「早く飲みにいこうぜ。

 タケちゃん、ゴミだけ捨てといてよ。俺、そこまで大胆じゃないから」


         жжжжжжжж

(あっ、リリーちゃんの声がしたぞ。

 今何してんだろなあ。

 風呂でも入ってんのかなあ。

 リリーちゃんと一緒に風呂なんか入れりゃ、おいら今すぐ死んだって悔いはねえよ。

 それにしても、この間は惜しかったよな。

 絶対にいけたって思ったのに。

 今でも、一男のおふくろさんくらいだったら飛びついてちょっと脅してやればなんとかなるんだけど、ご主人様に迷惑かけちゃあまずいからな。

 あの一男の野郎さえいなけりゃ、もう少しうちのご主人様も一男のかあちゃんとも仲良くつきあうんだろうけど、そうなりゃうちの家へリリーちゃんが遊びに来たり、おいらが向こうの家へ行ったりでそのうち二人の中も普通ではなくなって・・。

 とにかくあの野郎だけはこの間の借りもあるから、なんとかしてやらねえと・・・まあ、とにかく今日はまたリリーちゃんの夢でも見ようとするか)

「グーーッ」


         жжжжжжжж

「カズさあ、やっぱり現金はまずいって」

 週末でもないのに朝の四時まで開いている居酒屋は、一男と同じ歳くらいの学生の団体が一気飲みを繰り返し、終電に乗り遅れたスーツ姿のサラリーマンがネクタイを外して上司の悪口を続けていた。

「タケちゃん、心配しすぎだって。

 さっき言ったように新米の俺のミスにしておけばいいんだよ」

「でも、あの、しぇーーっ、は・・・」

「あんなビデオ、いちいち見てるかよ。

 店長もそこまで暇じゃないって」

「いや、あの人はやる人だって」

「それならそれでいいじゃん。

 それより、タケちゃんもっと飲めよ。それ何飲んでんの? まさかウーロン茶じゃないよな。ちょっと飲ませて」

 タケちゃんからグラスを奪い取った一男は口を付けるなり、タケちゃんの頭を張った。

「こんなん飲んでんから、いろんなことが気になるんだよ。

 ちょっとすいませんっ、こいつに生ビールの大ジョッキ持ってきてやってください」

 通りすがりの店員を捕まえて言った一男は、自分のジョッキが空になっているのに気づいた。

「すいませんっ、大ジョッキもう一つ追加っ」

 タケちゃんは、二度とこいつとは飲みに来ないぞと誓った。


 店の中の全ての動きが止まり、タケちゃんの目の前の大ジョッキに入ったビールの泡がすべて消え健常者の尿のようになったとき、生まれて初めて飲んだレモンチューハイのうまさに感激して、立て続けに三杯飲んで、産卵している亀の様な目になった一男の携帯電話が震えた。

〈もっしー〉

 剛だった。

〈なにやってんだよ〉

「酒飲んでんだよ」

〈嘘つけっ。

 どうせ、アダルト見て抜いてんだろが〉

「ばかやろっ。

 おまえと一緒にするなっ」

〈あんまりからむなよ〉

「うっせーっ」

〈さっきさあ、おまえの天敵から電話があってさあ〉

「天敵ーっ?」

〈エリカだよ〉

 一男はエリカではなく夏見の顔を浮かべた。

〈三十日の二時に帰ってくるんだって〉

「三十日って何曜日だっ」

〈えーっと、木曜日だな〉

「じゃあ、バイトだっ」

〈夏見ちゃんがおまえと会いたがってるってエリカ言ってたぞ〉

「本当かよ、よしっ、じゃあ俺もお迎えに行くよ、羽田かっ?」

〈成田だよ〉

「ラジャーっ」

 一方的に電話を切った一男は「レモンチューハイもう一杯おかわりっ」と店の天井に向かって叫び、よだれをたらしてテーブルの上で突っ伏しているタケちゃんの頭を思い切り張った。


         11

「月末だから遅いわよね」

 典子は、食パンを食べ終えコーヒーを飲んでいる竹男に聞いた。

「ああ。

 たぶん日付が変わると思うから先食べといてくれ」

 竹男は一部上場企業の化学品メーカーに勤め、経理畑一筋で今日まで来た。

「うちのワンちゃんは元気でやってるのか?」

「リリーちゃんは今日でさよならよ」

「違うよ、一男のことだよ」

「ああ。あの子ならまじめにアルバイトに行ってるわよ」

「そうか」

「あなたは大学に行ってほしいんでしょうけど、私は良かったと思ってる。

 もし、あのまま引きこもっちゃったらどうしようかなと思ってたもの。

 最近、私とはよく話すようにもなったし。

 また、気でも変わって大学へ行きたいって言い出したら、その時はまた相談に乗ってあげてよ」

「ああ」

 久しぶりに、父の日に一男にもらった犬の絵柄のネクタイをして、竹男は出ていった。


         жжжжжжжж

「何か食べる?」

「いらない」

 テレビ画面では、タモリが、いいともっ、と二日酔いの頭に響く声を張り上げ、何の芸もない、どうして毎年高額納税者に名を連ねているのかわからない、自称 “タレント”達と一緒に右腕を振り上げていた。

「今日もアルバイトでしょ」

「うん」

「あっ。

 あなた今日お給料日じゃない」

「そうだっけ」

「初めてのお給料なんだから、何かおごりなさいよ」

「いいけど今日は駄目だよ。

 明日ならバイトも休みだからいいけど」

「じゃあ、みんなでご飯でも食べに行きましょ。

 お父さんも喜ぶわ」


         жжжжжжжж

(おっかしいなあ。

 リリーちゃん今日はお散歩お休みかなあ。

 あっ、一男が出てきやがった。

 あの野郎、最近よく出かけるなあ。

 どうせろくでもねえことやりに行ってるんだろうけど。

 おお、なんだ、にやにや笑いながら近づいて気やがったぞ)

「おいこら、ジョン。

 今日でこのリリーちゃんともお別れだぞ。

 いつまでも鼻の下伸ばしてんじゃねえよ。バーカ」

 手に持っていたバスケットを門扉の向こうからジョンに差し出した一男が、ファスナーを少しだけ開けると、リリーの鼻先が少しだけ見えた。

(リリーちゃんっ!!)

「じゃあな」

 ファスナーを閉めると、一男はエレベーターホールに向かって歩き出した。

(待ってくれっ、ちょっと、待ってくれ!!)

「ワォゥッ!!ワォゥッ!!」

 一男はどんどん遠ざかっていく。

 ジョンはリードを食いちぎると、門扉を飛び越えた。

 けたたましく吠えるジョンに気づいた島田さんの奥さんが家から出てきた。

「ジョンちゃんっ!」

(ご主人さまっ、止めないでくれっ、俺は今リリーちゃんをなくしてしまうと、本当に自分がどうなってしまうかわからねえんだ、許しておくんなせえ)

 後から追ってくるジョンに気づいた一男は猛然と廊下を走り始め、エレベーターホールに着くとちょうど止まって待っていたエレベーターに飛び乗り、《閉》の釦を連打した。

 ゆっくりと閉まり始めた扉が、ガシャンといって完全に閉まり終えたとき、エレベーターホールにジョンが駆けてきた。

「バーカ」

 エレベーターはゆっくりと下降し始めた。


         жжжжжжжж

 空港に近づくにつれ、大きなスーツケースを持った乗客の割合がどんどん高くなっていった。

 空港へ行くのは、一男にとって、高校の修学旅行で沖縄へ行くのに羽田へ行った時以来だった。

 木曜日とあって、空港ロビーは混み合っていなかった。

 それでも、大きなスーツケースを楽しそうに転がしている若い女の子達を見かけると、自分までも、これからどこか旅行へ行く気がしてなぜかうきうきとした気分になった。

 航空会社のチェックインカウンターの前に、水着姿のキャンペーンガールのパネルが立てかけてあった。

 一男は、エメラルドグリーンの海から上がって水着から水をしたたらせている夏見ちゃんを想像した。

 剛との待ち合わせ場所に着くと、まだ来ていなかったので、近くにあったスナックコーナーでアイスコーヒーを買った。

 滑走路が見える窓際に腰を下ろすと、降りてくる飛行機と上っていく飛行機をただボーッと見ているだけだったが、なぜか、退屈はしなかった。

 いつか、大きなスーツケースを持ってこの空港に来て、あの上っていく飛行機に乗って、どこか南の島へ旅立つ。

 夏見ちゃんと・・・。

 一男は生まれて初めて“目標”というものをもった。

 透明の容器が氷だけになったとき、時計の針は二時を二十分回っていた。

 剛に電話を入れたが、話し中だったので、一男は席を立つと、待ち合わせ場所を通り過ぎ、到着ゲートに向かった。

 しかし、到着予定を知らせる掲示板に、オーストラリアから二時に成田に着く便を見つけることはできなかった。

 唯一、一時半に到着予定のJALの便が一便だけあったが、すでにその便は到着済みだった。

 時間聞き違えたっけ、とゲートの向こうでコンベアの上を流れる荷物をとっている人混みの中に夏見を探したが見つからなかった。

 一男はもう一度携帯電話を取りだし、剛の番号を押した。

 呼びだし音を聞きながら、一歩、二歩と歩を進め、何気なく、掲示板の向かいにあるカフェに、一男はピントを合わせた。

 そこには、四人掛けのテーブルの片側に肩を寄せあって座る、夏見と剛がいた。

〈もっしー〉

 剛は夏見に軽くキスをした。

「・・・・・・・」

〈カズか?〉

「・・・・・・・」

〈おい、カズなんだろっ。

 なんとか言えよっ〉


         жжжжжжжж

 駅に着くと、一男は、コインロッカーに、リリーが入っているバスケットを放り込んだ。「クゥーン」

 一男は無視して、鍵も掛けずに駅を離れた。


         жжжжжжжж

「店長が呼んでるよ」

 五時に五分遅れて店に入ると、タケちゃんが目をあわせずに一男に言った。

 カウンターの奥の部屋に入ると、和田店長が少し笑みを浮かべながら、足を組んでソファに腰を沈めていた。

「遅刻しちゃまずいよ」

 一男は何も言わなかった。

「君もいずれちゃんとした会社で働くようになるんだから、今から気をつけておかないと。遅刻は絶対にダメだよ、絶対に。

 あっ、それと、これ今月の給料ね」

 和田店長は給料の入った封筒を一男に渡した。

「中身確認して合っていたらここにサインしてね」

 和田店長は、テーブルの上にボールペンと人の名前の横に金額の書いた行が五行ほどある紙を置いた。

「悪いけど、今日で辞めてくれる」

 封筒を開けようとした一男の手が止まった。

「最近、テープがよくなくなるんだよ。

 あと、現金もね」

 おもむろに、和田店長は、テーブルの隅に置いてあったリモコンを手に取り、釦を押した。

 すると、狭い部屋にこれ見よがしに置かれてある畳一畳くらいの薄型液晶テレビに電源が入った。

 すぐに一男は、千円札を口に加えて、しぇーーっのポーズをとる自分の姿を見た。

「武田君と同じ歳なんだよね」と言って一男の目を見ようとした和田店長だったが、すでに、一男の手に握られたボールペンのペン先は、自分の脳天に到達しようとしていた。

 ギャーーッと言ってソファから転げ落ちた和田店長の額には、みるみるうちに幾筋もの血の筋ができた。

 一男は、立ち上がると、給料の入っている封筒を和田店長の顔に投げつけ、部屋を出た。


         жжжжжжжж

「ジョンちゃん、あの子がまた何かしたのよね。そうよね」

「・・・・・・・・」

(・・・・・・・・)

「もう許せないわ。

 今日という今日は絶対に言ってやるからっ!!」

 いきり立つ島田さんの奥さんの足もとで、ジョンは元気なくうなだれた。


         жжжжжжжж

 Tシャツに付いた血が気になった。

 昔、何かのテレビで、衣服に付いた血を落とすには牛乳がいい、と言っていたのを思い出した一男は、駅の売店で、瓶に入った牛乳を買った。

 直接牛乳を血の付いたところに染ませ、改札から出てくる乗客に気づかれないようにTシャツを揉んだ。

 しかし、赤い色は落ちなかった。

 半分以上残っている牛乳瓶を手にした一男は売店の斜向かいにあるコインロッカーに行き、片っ端から扉を開け、リリーの入ったバスケットを見つけると、ファスナーを開け、手に握っている瓶の中の牛乳を流し込んだ。


 切っていた携帯電話の電源を入れると、着信履歴に《ツヨシ》の文字がずらっと並んでいた。

 自転車に乗った警察官が横を通り過ぎる。

 無線のザーーッという音が耳につく。

 マンションのエントランスに着いたとき、また剛からの電話が鳴った。

 十回目の呼びだし音を残して切れると、すぐにメールの着信を知らせる別の着信音が鳴った。

《いまどこ?

 明日、二人の凱旋報告会やるから

 とにかく連絡くれ》

『返信』の画面を出し、一男は“い”“ぬ”とうち、“犬”に変換すると、『OK』の釦を押し、すぐに送信した。

 送信が終わったことを告げる電子音が鳴ると、もう一度、電源を切った。

 エレベーターを降りると、強い西日が一男を追いかけた。

 L字型の取っ手に手を掛け、家のドアを開けようとしたとき、向かいの島田さんの門扉が半開きになっているのに気がついた。

 覗くと、小屋の中にジョンはいなかった。

 今朝の件でまた家の中に入れられたのかなと、一男は取っ手を下に下げ、開いたドアの隙間に体を滑り込ませようとしたとき、ポコン、と薄いブリキの板がへこむような音が廊下の向こうからした。

 西日を手で遮りながら顔を向けてみると、廊下の突き当たりに、黒い小さな影が一つ伸びていた。

 視線を上げると、廊下の隅においてある消火器ボックスの上に誰かが乗っていた。

 子供かなと、目を細めて見てみると、ジョンだった。


         12

「一男っ、早く出てこいっ!」

 翌朝、竹男が激しく叩くドアの音で、一男は目を覚ました。

「なにしてんだっ、早く出てこいっ!」

 典子の「近所に聞こえるじゃないっ」という声が混ざった。

「おまえ、昨日の夕方の五時から七時の間、どこで何してた」

 眠い目を擦りながら、部屋から出てきた一男に竹男は迫った。

「バイトに行って、それから、後は家にいたよ」

「あなた、昨日アルバイトじゃなかったの。

 どうして早く帰ってきたの?」

 典子が少し心配そうに聞いた。

「急に・・・・ちょっと・・・」

「警察から電話があった。

 聞きたいことがあるからって」

 少し呆れたような顔をして、竹男は続けた。

「命に別状がなかったからいいものの。

 どうしてこんなことをしたんだ?」

「あいつが悪いんだよ・・」

「まあ、おまえの気持ちもわかるよ。

 昔から犬が嫌いだってのはわかってるけど・・」

「い、犬?」

「でも、何も、投げ捨てることはないだろ。」

「ちょっと待ってよ。

 何のこと言ってんの?」

「もういいよ。

 前に毛を刈って、顔に落書きしたのもおまえだろ。

 廊下の蛍光灯割ったのもそうだろ?

 島田さんの奥さんが、おまえの指紋の付いたマジックを警察に渡したんだ」

「ま、まあ、それは、そうなんだけど、その、投げ捨てたってのはなんなんだよ?」

「もういいわよ、一男」

 典子が、頬を伝う涙を拭いながら言った。

「よくねえよ。

 話しの意味が全然わかんねえよ」

「ジョンが何者かにそこの廊下から下に投げ捨てられたんだよ」

「えっ!?」

「もういいよ、一男。

 こうなったのも俺が悪いんだよ。

 警察には俺からちゃんと話すから、おまえも素直に罪を認めろ」

「そんなこと俺やってねえよ」

「もういいよ、わかったから」

 典子に続いていつのまにか頬に涙を伝えていた竹男は一男の腕を掴んだ。

 すると、一男は、その腕を振り払い、二人を押し退け、家を飛び出ていった。


         жжжжжжжж

「ジョンちゃん・・・」

 島田さんの奥さんは、慌てて塗ってきたファンデーションを涙で溶かしながら、四本の足のうち三本の足を包帯でぐるぐる巻にされたジョンの体を優しくさすった。

「私が悪かったのよ。

 ちゃんと家の中にあなたを入れておけば、あの子にこんなことされずに済んだのよ」

(違うんだ、ご主人様。

 これは、俺が自分の手で、いや、自分の足で、やったことなんだ。

 一男には罪はねえんだ。

 だから、あいつを責めるのは辞めておくんなせえ。

 悪いのは全部あっしなんだ。

 せっかく親から頂いた命を自分の手で、いや、自分の足で殺めようとし、これまでお世話になったご主人様に後ろ足で砂を掛けるようなことをしてしまって、本当に申し訳ねえ。 もう、つまらない考えは起こさないようにして、あと何年生きられるかわかんねえけど、ご主人様、また一つ、よろしくお願いしやす)

「クゥーン」


         жжжжжжжж

 開店したばかりの大型スーパーは客もまばらだった。

 ハサミが陳列されている棚の前に来たとき、一男は、いつもの位置にある防犯ビデオを確認し、いつもの場所で立っている店員を確認した。


 駅の売店の横にある自動販売機でジュースを買おうとジーンズのポケットに手を突っ込むと、ハサミしか入っていないのがわかった。

 ちぇっ、と舌打ちした一男は、コインロッカーへ行き、リリーの入っているバスケットを取り出した。

 ファスナーを開けると、小学生の時、こぼした牛乳を拭いた雑巾をそのまま放っておいて、久しぶりに教室の床を拭こうとして手にとったら、気絶しそうになった・・・そんな匂いがした。

 しかし、リリーの鳴き声は、聞こえなかった。

 二、三回横に振ってみたが、バスケットの中からはコトリとも音がしなかった。

「なんだ、やっぱり、人間の労働力って、なんの値打ちもないんだ」

 一人ごちた一男は、ジーンズのポケットの上から、ハサミを撫でた。


          了


























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