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1/3

我輩は犬でござぁます1・・・一男登場

         1

「隣の動物病院えらく繁盛してるなあ」 

 竹男が発泡酒のビールを飲みながら言った。

「日曜日までやっているのがミソよね」

 典子が野菜炒めの入った皿を二人しかいないテーブルの上に置きながら言った。

「今、どこも子供が少ないから、代わりに動物を飼っている家庭が増えてきているからな」

 皿の中の竹輪をつまんだ竹男が喉に流し込もうとしたとき、典子が口を開いた。

「うちも犬だったら良かったんだけどね・・・・」

「ほんと、そうだよ・・・こ、こら何を言ってるんだ」

 口元に付いた竹輪の汁を竹男が慌てて拭こうとしたとき、一男が階段を下りてくる音が聞こえた。

「飯どうすんだっ」

 竹男が聞くと、声の代わりに、パタンというドアの閉まる音がした。


 ぼとぼとに濡れたビニール傘を傘立に立て自動扉を開けて入った店内には一人も客はいなかった。

「一日延滞につき300円、3本で900円になります」

 アルバイトと思しき男性がお経を読むように言った。

「1週間借りて300円なのに、1日遅れてどうして同じ300円なんだよ」

 千円札をテーブルの上に落としながら一男が聞いた。

「決まりなんで」

「そんなことわかってるよ。

 あなたもおかしいとは思わないですかって聞いてんだよ」

「まあ、言われてみれば・・・」


 あれだけ降っていた雨が嘘のように止んでいた。

 アダルトビデオばかり3本が入ったレンタルビデオ屋の青い通い袋を抱えて一男が玄関のドアを開けようとしたとき、向かいの403号室の島田さんの家で飼っているジョンがけたたましく吠えた。

「うるせえんだよっ、クソ犬がっ」

 一男は犬が嫌い、いや、嫌いという言葉を使うのがもったいないくらい、とにかく、嫌い、だった。

 子供の頃、まだ、もちろんまだ父親と口をきいていた頃、近くに熊みたいに大きな犬を飼っている親父がいて、一男を見かけると、わざと鎖をはずし、恐がる一男の姿を見ては手をたたいて笑った。

 そのトラウマからか、どんな小さなかわいい犬でも、触ることどころか、足元にでも寄ってこようものなら、ギャーッと奇声を発し、口から泡を吹いてその場で悶絶した。

「どうしてペットを飼えるマンションになんかしたんだよ」

 チンした野菜炒めのもやしの束を口に運びながら一男が聞いた。

「お母さん、犬が好きだから」

 冷めたご飯にラップを掛けて典子がチンしようとしたとき、風呂から上がった竹男が、バスタオルで、薄くなった髪を拭きながらキッチンに入ってきた。

「うちの犬は帰ってきたか?」

 一男の箸は止まり、電子レンジの中で回っていたお茶碗はボンといってサランラップを飛ばした。


         2

(寝れねえなあ)

 島田さんちのジョンは今日も不眠症に苦しんでいた。

(俺も年かなあ。人間で言えばもう六十だし、ひょっとしたら欝病じゃないだろうなあ。この間ご主人様が見てたテレビでやってたよな。男の更年期障害だって。確かに最近、やる気がまったくないからなあ)

 ガチャッと向かいの家の扉の開く音がした。

(また、あの一男っていう奴だな。若いくせに仕事もせずに毎日ぶらぶらしやがって、なんて言ったっけな、ニーズでもないしヌードでもないし、あっそうだ、ニートだニート、カツラの会社みたいな名前だけど、この国にうようよといるって言ってたな、だけどそんなんでこの国は本当に大丈夫なのかよ)

 鍵を掛ける一男をジョンは確認した。

(あいつどこ行くんだ。どうせ、コンビニでエロ雑誌の立ち読みでもしに行くんだろうな。いっちょ吠えてやろうか)

「ワンッワンッ!!」

 一男は飛び上がって驚いた。

(へっ、ざまあみろ)

「てめえーっ、いつかぶっ殺してやるからな」

 一男はジョンにメンチを切ると、廊下に唾を吐き、エレベーターホールに向かって歩いていった。

      жжжжжжжж

(おいおいなんだよ、この混雑は)

 マンションの隣の動物病院は月曜日の朝から犬や猫を大事そうに抱えた人間で込み合っていた。

(だいたい過保護なんだよ。自分で言うのも何だけど所詮犬や猫なんだからさあ、ちょっと具合が悪いからっていちいち病院なんかにつれてこなくっていいんだよ。寿命のない奴はいくら過保護にしたって死んじゃうんだから。そんなことより、よく街で見かける、車椅子に乗っているおじいさんを押しているおばあさんの年寄りのカップルをなんとかしてやれっての)

「ジョンちゃん、さあいきますよ。恐くないからね」

 島田さんの奥さんがジョンを抱え、診察室に向かった。

 部屋に入ると髭を生やした先生がいた。

「先生。最近、うちのジョンちゃん、ちょっと元気がないんです」

(欝病だよ、何をするにもやる気が出ないんだ。それに夜が眠れない。何かいい薬くれよ) じゃあちょっと見てみましょう、と言って、先生は血圧を計り血を抜き、ジョンのからだの到るところを揉み、しばらくしてから「大丈夫です、ちょっとジョンちゃんも疲れが出たんじゃないですか。薬出しておきますんで様子見てください」と言った。

 診察室を出ると、ジャージ姿に金髪、誰が見ても“お水”の女がヨークシャテリアを抱いて待合室で座っていた。

(たまんねーなあ。うちのご主人様もこれくらいのかわい子ちゃんを一緒に飼ってくれたら、俺ももう少し元気がでるんだけどなあ。なにせ生まれてすぐにご主人様に飼われて、今まで何不自由なく暮らしてきた。そのことにはご主人様には感謝している。

 でも、散歩しているときに見かける野良の奴達を見かけると、たまに羨ましくなることがあるんだ。確かに、決まった寝床もない、めしだって自分で探さなきゃいけない、大変だと思うよ。その代わり、奴らには自由があるよ。一生リードにつながれ、与えられためしだけ食べて、毎日のうのうと生きていく。恋愛なんてしたくてもできない。何せ異性といえばご主人様だけだからな。この前も、電信柱にマーキングしていた野良のお姉ちゃんを見かけたときは、思わず後ろから覆いかぶさろうかと思ったよ。まさかこの歳で童貞だなんて恥ずかしくて言えねえしな)

「島田様、お待たせいたしました」

 受付の女性に呼ばれると、島田さんの奥さんは「ジョンちゃん、さあ、行きましょ。お家にかえって薬飲みましょうね、すぐに良くなるから」と言ってリードを引っ張った。

(もうちょっと待ってくれよ、久しぶりのかわい子ちゃんなのに・・・)

「クーン」とジョンの哀しい声が待合室に響いた。


          3

「なんでなんだよ。『貸出中』の札が掛かってないじゃないかよ」

「すいません、札の掛け忘れなんです」

 この間、延滞料金の件で絡まれた同じ店員が、相変わらず棒読みで一男に答えた。

「すいませんで済んだら警察なんかいらないんだよ。

 俺はこのビデオが見たくて毎日ここに通ってたんだからな。それでやっと札がかってないのを見て、やったーっ、てついさっき大喜びしたばっかりなんだぞ。

 借りている奴に電話して、今すぐここに持ってこさせろ」

「それはちょっと・・・」

「ちょっとなんなんだよ。

 それができないんなら、店長を呼べよ」

「店長は今日休みなんで」

「休みだったら家に電話すればいいだろ」

「いえ、それは・・・」

 会員になるときに名前や住所を書くペンをレジの横のペン立から奪い取ると、一男はテーブルの上に叩き付けた。

 そして、なめてんじゃねえーぞっ、と言おうとしたとき、

「おう、カズじゃん」と声がした。

 一男が声のほうを振り向くと、この春まで同じ高校に通っていた剛が立っていた。

「何してんだよ」

「いや、ちょっとこいつがふざけたこと言うから」


「今、何やってんだ」

 ハンバーガーを大きな口で頬張りながら、剛は一男に聞いた。

「毎日ぶらぶらしてるよ」

 財布の中に百円玉が1枚しかなく、ハンバーガーを買えなかった一男がコーヒーを飲みながら答えた。

「アルバイトとかは?」

「やってないよ」

「小遣とかはどうしてんだよ」

「親からもらってるよ」

「親っておまえ、時間がいくらでもあるんだから、アルバイトくらいしろよ。友達や彼女だってできるかもしれないぞ」

 剛は、高校の時には吸っていなかった煙草を吸いながら、少し一男を見下した言い方をした。

 一男と剛は私立大学の付属高校で同じクラスだった。

 3年の2学期から学校へ行かなくなった一男は、公立高校なら間違いなく落第だったところ、竹男と典子が学校へ頭を下げに行き、2学期分のプリントを提出するという条件でなんとか“おまけ”で卒業することができた。もちろん、提出したプリントには3種類の字が混ざっていた。

 一方剛は、何事もなく卒業すると、エスカレーター式に上の大学に上がった。

「じゃあ、今流行りのニートってやつだな」

 ハンバーガーの最後の一口を口に放り込みながら剛が言った。

「俺は流行に敏感なんだよ」

 一男がくだらない冗談を言ったとき、剛の携帯電話がなった。

「なんだ、おまえかよ。

 何の用?

 えっ!? まじかよ。

 ちょっと待ってくれよ」

 剛が顔を一男に向けた。

「おまえ、今日の夜ひまか?」

「ああ」

「今日合コンやるんだけど、一人欠員ができたんだ。

 いかないか?

 全員女子大生だぞ」

「いいよ。

 俺なんか行ったら浮いちゃうよ」

「大丈夫だって。

 それにたまには外へ出ていかないと、ひきこもりになっちゃうぞ。俺がちゃんとしてやるから。なっ」

 無理矢理一男にイエスと言わせた剛は「オッケー、代打は見つかったよ」と言って電話を切った。

「じゃあ、7時に駅の東口でな」

 念のため、携帯電話の番号だけを聞いて、一男はハンバーガー屋の前で剛と別れた。

 久しぶりに伸びた背筋に西日を受けながらマンションに着くと、一男は、エントランスで、ジョンを連れた島田さんの奥さんと会った。

「こんにちは」

 声を掛けたのは、島田さんの奥さんだった。

 一男は無視した。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、大嫌いな犬を飼っている飼い主まで一男は嫌いだった。

 エレベーターが降りてくると、先に島田さんの奥さんとジョンが乗り、あとで一男が乗った。

 一男の犬嫌いを知っている島田さんの奥さんは、ジョンをエレベーターの隅に押し込み、その前に壁となって立った。

 しかし、いつもなら吠えるジョンが、吠えなかった。

 先にエレベーターを降りた一男は急ぎ足で廊下を歩き、家のドアの前で後ろを振り返ると、島田さんの奥さんに連れられたジョンが肩を落として歩いていた。

 リビングにいる竹男を見て、一男は今日が週末であることを知った。

 毎日家にいるので、曜日の感覚がなくなってきていた。

「夕ご飯、何にする?」

 キッチンから典子が顔を覗かせた。

「俺いらないよ」

 一男の言葉に、新聞を読んでいた竹男が反応した。

「どこ行くんだ?」

 一男は無視して典子に歩み寄った。

「こづかいちょうだい」

「いくら?」と言いかけた典子より先に竹男の言葉が飛んだ。

「やらなくていいよ」

 差し出した一男の手が止まった。

「自分で稼げばいいんだよ。

 勉強が嫌で学校をやめたんだから、だったら働けばいいんだ。いつまでも甘えるな」

 一男は竹男を睨み付けると、大きく、ため息ではない息を吐くと、戻ってきたばかりの家を出ていった。


 携帯電話の向こうから〈マジっ!? 、洒落んなんないよー〉と剛の声が聞こえたが「ごめん」とだけ言って一男は電話を切った。

 歩きながら何回覗いても、財布の中には1円玉1枚入っていなかった。

 すっかり陽が落ちた街の彼方に、大型スーパーの看板が浮かび上がっているのが見えた。 見えているのに、歩くと三十分も掛かった。

 エスカレーターで3階に上がると、一男は家庭用品の売り場に行った。

 週末だけあってフロアーは家族連れで込み合っていた。

 防犯ビデオと店員の位置を確認すると、一男はハサミをジーンズのポケットに入れた。

 周りを見渡したが視線の合う人間はいなかった。

 一男は続け様に、洗濯物を干すロープを片一方のポケットに入れ、文具コーナーに移ると、油性の黒マジックを着ていたトレーナーの袖に隠し入れた。

 店を出ると、汗で濡れた腕時計をはずし、まだ八時にもなっていないのを確認した。

 このまま家へ帰って竹男の前に立つと、自分でも何をしでかすか、一男にはわからなかった。


 電車で行くと五十分で着いてしまうところが歩くと二時間掛かってしまった。

 去年の夏以来だった。

 暗闇の中に立つ煉瓦色の校舎はピクリともしなかった。

「文句あんのかよ」と言っているように一男には見えた。

 足元に落ちていた小石を拾うと、教室の窓に向けて思い切り腕を振った。

 小石は暗闇の中に消え、少ししてからコチンという音を残した。

 勉強が嫌いなわけではなかった。

 いじめを受けたことも一度もなかった。

 友達も、中学から上がってきた奴とはあまり合わなかったが、口を聞かない奴はクラスの中に一人もいなかった。

 ただ、どこからか「もういいだろう」と言う声が聞こえてきた。

 一男は、集めてきた、さっきの小石より大きい石を握り締めると、校舎の窓に向け、鋭く腕を振った。

 ガシャン、と全ての静寂を破壊するような音が響いた。

 一男は次から次へと石を投げた。

 消えたばかりのガシャンという音の上にすぐに次のガシャンが重なり、出来損ないのオーケストラが演奏する何かの曲のように聞こえた。

 手の中の石があとわずかになったとき、近くの何件かの家から、なんだなんだ、と人が出てきた。

 一男は、残った石を足元に落とすと、脇の下に汗を感じながら、来た道をゆっくりと戻り始めた。


 自宅のマンションに着いたとき、日付はすでに変わっていた。

 一男は足音を立てずにそっと廊下を歩くと、403号室の前で歩みを止めた。

 門扉の向こうでジョンが眠っていた。

 ジーンズのポケットから洗濯物を干すロープを取り出した一男は門扉をそっと開けた。


          4

(おい、何かくすぐったいぞ、こらっ、やめろっ、うん? なんだ、向かいの一男じゃねえか、こいつ俺たちのことが苦手なくせして何やってやがんだ、よしっ、いっちょ吠えてやろうか)

「ワ・・・・・」

(うん!?)

「ワ・・・・・」

(くそっ、口が開かないぞ。な、なんだ、ロープで縛ってあるじゃないか。あの野郎、飛びついて驚かしてやろう。腰抜かして泣きわめくだろうな)

「そ、そっ・・・」

(く、くそっ、足が動かないじゃねえか。あ、あの野郎、足もロープで縛りやがって。な、なんだそのハサミは、こ、こらっやめろっ、俺様の自慢の金髪を、まだ結婚もしてないんだぞっ、それどころかまだ童貞、そ、そんなことはどうでもいいんだ、と、とにかく、誰か助けてーーーっ!!)

         

          5

 門扉に挟まって口から泡を吹いて倒れている島田さんの奥さんを発見したのは、朝刊を1階のメールボックスに取りに行って戻ってきた竹男だった。

「昨日はどこへ行ってたんだ?」

 島田さんの奥さんが運ばれていく救急車の音で目を覚ました一男がリビングへ出ていくと、竹男は少し凄んだ声で聞いた。

「友達と遊んでたよ」

「金もないのにか」

「全部おごってもらったよ」

 本当にか?と言う顔をして、竹男は朝刊をテーブルの上に投げた。

「読んでみろ」

 面倒くさそうに新聞をめくる一男の手がしばらくすると止まった。

「悪い奴がいるもんだな、窓ガラス二十枚も割るんだからな」

 一男は何も言わなかった。

「向かいのジョンが足を縛られて毛を刈られたそうだ。顔にはマジックで落書きまでされてたそうだ。

 うちの近くにも悪い奴がいるんだな。気をつけないとな」

 一男が黙って新聞を畳み、リビングから出ていこうとしたとき、典子がパジャマ姿で現れた。

「島田さんのところ大変、あらっ、あんた起きてたの。

 昨日遅くにレンタルビデオ屋から電話があったわよ。

 ちょっと待ってね」

 典子はキッチンに行くと、冷蔵庫の扉にマグネットで止めてある小さなメモを取った。

「えーっと、お待ちいただいています、『早く出して』が戻ってきましたのでご来店くださいって」

 リビングは、初めて舞台に立った若手の落語家が話したくだらない枕に、シーンと静まり返った演芸場と化した。

「これはなに? 年末に早く年賀状を出してくれっていう郵便局からのお願いのビデオかなにかなの?」

 両頬に涙を伝えながら、右手と右足、左手と左足を一緒に上げ、ロボットのように家から出ていこうとした一男の手を竹男は取った。

「借りた友達に返しておけ」

 一万円札を竹男から渡された一男は、スニーカーに足を通すと、そっと玄関のドアを開けた。

「クーン」

 見ると、毛を刈られてはげ山の様な体になったジョンが、右の頬に“バ”左の頬に“カ”と書かれ、西郷隆盛のような太く短い眉を目の上に描かれた顔を、門扉の向こうから一男に向けた。

          жжжжжжжжжжжж

 電車で五十分、歩いて二時間掛かったのが、週末で道路が空いていたせいかタクシーでは三十分掛からなかった。

「昨日投石があったんだよね」

 タクシーの運転手の言葉を無視してお釣りを受け取ると、一男は、昨日の夜、石を投げた場所に降り立った。

 校舎の周りには“立入禁止”と書かれた黄色いテープが張りめぐされ、割れた窓ガラスの向こうには学校の先生か警察の人かが数人、腕を組んで突っ立っていた。

「ご近所の方ですか?」

 一男が振り向くと、テレビカメラを担いだ男と、マイクを持った女性、銀色の画用紙を張った画板のようなものを持ったジーンズ姿の若い男が立っていた。

「いえ。

 今年の春卒業したんです、この高校を」

 マイクを持っていた女性の眉の下が三センチほど伸びた。

「そうなんですか!

 このような事件が起こって、卒業生としてはどのようなお気持ちですか?」

 女性は、初めてバッターボックスに立った少年のように強く握ったマイクを一男に向けた。

「すごく残念です」

「犯人像はどういった人間かと思われますか?」

「そうですね、最近夜が熱いですから、ムシャクシャした奴が、オナニーのおかずがないからって石でも投げたんじゃないですか」


          жжжжжжжжжж

 大型スーパーに着いたとき、一男の長袖のTシャツは汗で黒く染まっていた。

 二時間汗ずくになって歩くのも、三百七十円の切符を買って五十分電車に揺られるのも、四千円払ってタクシーのシートに踏ん反り返って三十分で着くのもみな同じだった。

 人間の労働力ってほんとうに値打ちがないなと一男はつくづく思った。

 アイスコーヒーが百五十円で飲めるセルフサービスのコーヒーショップで汗を乾かすと、一男は昨日来た家庭用品売り場のコーナーへ行った。

 洗濯物を干すロープの切れ端とジョンの金髪の付いたハサミをもとあった場所に戻し、文具コーナーへ行ってキャップを無くした黒の油性マジックを逆さまにしてほかのマジックと混ぜ合わせた一男は、小さく息を一つ吐くと売り場を離れた。

 エスカレーターで一階まで降りた時、Yシャツを腕捲りした店員がハンドマイク片手に大きな声でがなり立てていた。

「本日、四階、催物コーナーにおきまして、父の日、特設コーナーを設けております。どうぞご利用くださいっ!」

 一男はもう一度上りのエスカレーターに乗った。

 すごい混雑だった。

 母親についてきた小さな子供たちが、ネクタイやベルトやポロシャツを手に、財布を開けて思案している姿が到るところで見られた。

 何人もの人と肩をぶつけながら歩いていると、ジョンと同じ種類の犬の絵がちりばめられているネクタイを一男は見つけた。

 手に取りしばらく眺め、辺りを何度か伺った。


 肉眼で大型スーパーの看板の文字が読めなくなったところまで来ると、¥3,000ーの値札をもぎり取り、しわにならないようもう一度そっとネクタイをジーンズのポケットにしまった。

 マンションのエントランスに入ると、旦那さんに付き添われた島田さんの奥さんがいた。「こんにちわ」の代わりに、あなたがやったんでしょ、と鋭い視線を一男に向けた。

 旦那さんは珍しいものを見るように一男の頭の先から足の先までを見た。

 エレベーターを降りると、島田さん夫妻は一男の前をゆっくりと廊下を歩き、途中一度だけ奥さんが後ろを振り向き、一男に警戒の視線を投げかけた。

 竹男はリビングで、枝豆を食べながら缶ビールを飲んでいた。

「おかえり」

 何も言わず、一男は竹男の後ろを通り過ぎた。

「友達にちゃんと返してきたか?」

 振り返って聞いてきた竹男に、一男はネクタイを持った手を差し出した。

「父の日だろ」

 豆鉄砲を食らった鳩のような顔をして、竹男は、枝豆を手にして固まってしまった。

「環境に優しく。だから、包装紙は省いといたから」

 鳥の唐揚を盛った皿を持ってきた典子が、ネクタイを手にして涙を流している竹男を見て「どうしたの?」と声を掛けた。

「か、かずおが父の日だからって・・・」

「えっ!?」

 典子は手に皿を持っているのを忘れ激しく涙した。

〈昨日何者かによって窓ガラスが二十枚も割られるという事件がありました東都大学付属高校の現場からです〉

 テレビ画面に、一男が昼間にインタビューを受けた女性がマイクを持って立っていた。〈近所の人の話では、最近夜になると暴走族が近くを走り回っており、警察も事件との関連性を調べております〉

「あなたっ!」

「おまえっ!」

 竹男と典子は床に落ちた鳥の唐揚げを踏みつけて抱き合った。

「うちもいい犬を・・・じゃ、じゃなかった、いい息子を持って良かったなあ」


 唐揚げから急きょ変更になったステーキハウスのカウンターで、竹男はご機嫌にワインを何杯も飲んだ。

「一男さあ、何度もしつこいようだけど、働くなら働く、もう一度勉強するならするで、早く決めたほうがいいぞ。

 言うと嫌がるだろうけど、年を取るのは本当に早いからな。

 俺も学生の時に学校の先生に言われてよく反抗したけど、ほんと、光陰矢の如し、若いときにやるべきことはやっておかないと」

 一男はデザートのシャーベットを食べながら何も言わなかった。

「俺は本当はもう一度勉強して大学に行ってほしいんだけどな」

 陶器の皿に残った冷えたもやしを口に運びながら竹男は言った。

「そうよ。

 あなた成績は悪くなかったんだから。

 今から始めたって、きっと間に合うわよ」

 締めのコーヒーを飲みながら典子が続いた。

「おまえが本当にやる気あるんなら、父さん、予備校の授業料だしてやるぞ」

 一男は、何も言わず、銀のスプーンをクリスタルの器に置いた。


 ステーキハウスからの道すがら「ネクタイ高かっただろ」と言って竹男からもらった一万円札を財布の中に入れながら、俺の労働力も満更でもないなと一男は思った。

 テレビをつけると、また、昼間インタビューを受けた女性が出ていて暴走族のリーダーから警察が事情聴収を始めたことを伝えていた。

 他のチャンネルをひねっても、ジョンのことはどこの局でも報じられていなかった。

 一男は携帯電話を取り釦を押した。

「あ、剛。おれおれ、一男だよ」


         6

「ごめんね、急に誘ったりして。

 こいつがさあ、昨日の夜いきなり電話を掛けてきてさ、おまえの友達の中でいっちばん可愛い子を二人連れてきてくれって言うもんだからさあ」

 二人の女の子は「やだーっ、みえみえじゃん」と言いながら満更でもない様子だった。「あっ、こいつカズっていうんだ。

 俺と同じクラスだったんだけど、そのままエスカレーターに乗って上に上がれば良かったのに、もっといい大学に行きたいからって、今浪人してんだよ」

 昨日打ち合わせした通りしゃべってくれた剛に一男は感謝した。

「どこ目指してるの?」

 二人の女の子のうち、エリカという、一男達と同じ高校に通っていたという髪の茶色い女の子が聞いた。

「まあ、一応、六大学なんだけど」

「じゃあ、早稲田とか慶応?」

「いけたらだけどね」

「カッコイーッ」

 エリカは、月曜日のまだ少し早い時間の空いた店内に奇声をこだまさせた。

「あとで電話番号教えてネ」


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