視線
隣の席の三笠君はサイコロを振るのが好きらしい。授業中だろうが休み時間だろうが、一日の内に少なくとも十回以上は振っている。最も多かった日はゆうに四十回を超えた。カラカラッ、カラカラッ、という乾いた音は既に私の耳に馴染み、最近はあまり気にならなくなってきた。むしろ心地良いくらいだ。しかし、彼はどうしてしきりにサイコロを振るのだろう。その理由については未だに見当もつかない。三笠君に直接訊いて見れば分かるかもしれないけれど、一度も口をきいたことの無い女子がそんなことを急に訊けば気持ち悪がられるのが関の山だ。もっとも、どっちの方が気持ち悪いんだよという話ではあるけれど。
三笠君はどことなく近づき難い雰囲気を持っていた。身長はクラスの中でも大きい方だから、多分一七五センチくらい。肩幅が狭くて背筋はシャンと伸びており、快活な笑顔を浮かべていればモデルをやっていてもおかしくは無い。ただ、彼には生気が足りない。自分の命をキラキラと燃やそうという意気込みが感じられないのだ。精彩を欠いた目で、ただサイコロを見つめている。
「じゃ、次の文、三笠」
「はい……」
寝不足なのか元々の癖なのか、三笠君はやけに気の抜けた声で話す。教科書を片手に立ち上がる動作もとてもゆっくりだ。英語の深津先生はせっかちな人なので、待ちきれないというように人差し指で何度も教卓を突いていた。日々のストレスが影響を与えているわけでも無いだろうけど、先生の頭にはほんの少しの髪の毛しか残っておらず、私の旦那さんがあんな風になったら嫌だなあと先生の左手薬指を見ながら思う。先生の眉間にはくっきりと皺が寄っていたが、三笠君は先生の様子には全く気を留めず、これまたゆっくりとした速度で英語の例文を読み始めた。そのくせ読み方は気合いが入っていてtomatoをトメイトゥなんて発音するもんだから、先生も余計に苛々するのだろう。こめかみに脂汗が浮くのが見えた。
英文を読み終えると、ふっと短い溜め息をつき、おもむろに椅子へと腰を下ろした。後ろの方の席からはクスクスという笑い声が聞こえてくる。いつものパターンだ。次に指名された私の前に座っていた生徒は震わせていた方をぴたりと止めて、脱兎のごとく俊敏に立ち上がり、そのくせいつも教室で出している三分の一くらいの声量で英文を読み上げ始めた。しかも、それは五歳児がママに何かをねだる時みたいにたどたどしい。
直接話したことこそ無いけれど、三笠君はとても真面目な人なのだろうという印象を抱いていた。もちろん、これにはきちんとした理由がある。生徒の半数ほどしか出席しない朝の課外授業を、彼は一度も休んだことが無いのだ。確かに課外中にうとうとしたり、窓の外を眺めてぼうっとしたりしていることはあるが、欠席したことは一度も無かった。生徒が皆クラスに馴染み、少し気の抜けてくる五月に入った今でもそう。そこに限っては、私は彼を尊敬している。
チャイムが英語の授業に終止符を打ち、三笠君はまたサイコロを振った。赤い点が一つ。その目をまるで頬にできたニキビに触れるようにそっと撫でてから、顔をゆっくりと上げた。ひとしきり黒板を眺めたかと思うと、席を立ってどこかへ行ってしまう。その背中を見送ってから、初めて彼に釘付けになっていたことに気付いた。ハッとして見回したが、私の行動を気に留めている人はいないようだった。
次の授業の準備をしようと思って黒板の時間割を確かめると、私は憂鬱な気持ちになった。六限は二者面談だ。三年生になって初めての二者面談。
相沢というのは、恐らく相川の次に出席番号が一番になりやすい名字だろう。このクラスの二者面談も出席番号順だから、真っ先に呼ばれてしまう。他の人が先ならば、面談を終えた表情を見て心の準備をすることもできるんだろうけど、私にはそうすることができない。一番緊張しなければならない。ただでさえ先生と話すのは苦手なのに、わざわざ時間をとってもらって進路について話し合うなんて、これ以上のストレスは無い。
シャープペンシルを手に取って、机の隅に小さく「進路」と書いてみた。その横に「夢」と書いた。机の中にある単語帳に手を触れてみたが、取り出す気にはなれなかった。机に書いた文字を見ていると、口の中で何か黒くて弾力を持ったゴムボールみたいなものが伸び縮みするような気がした。口を開けて深く息を吸い込んでみるけれど、その不思議な感覚は無くならない。膝の上に手を置いて、スカートを強く握ってみた。まだ、無くならない。
隣に三笠君が戻ってくると、すぐにチャイムが鳴った。担任の松永先生は決まって一分ほど遅れて教室にやってきて、今日もその例に漏れない。
白髪混じりではあるものの、松永先生の生え際は善戦を続けている。私たちとともに定年を迎えるらしい先生は情に厚く授業も分かりやすく面白く、非の打ち所が無いんだけれど、唯一先生であるという点で私の反感を買っている。
先生は黒板に大きく「自習」と書くと、私たちを鼓舞するような話をまじえながら面談の説明を始めた。
「さて、皆さんもいよいよ受験生なわけです。各自、自分の進路が見えてきていることでしょう。その進路に向かってそれぞれが……」
耳を塞ぎたくなった。口内にあの感覚が戻ってくる。三笠君はといえば、相も変わらず気の抜けたような顔をしている。ポケットに入っている右手では、恐らくサイコロを触っているのだろう。
例えばそれがテストであれば、分からなければ時間いっぱい寝ておけば良い話なのだけれど、面談というとそうもいかない。嘘だろうが何だろうが何か言っておかなくてはならない。「まだ決まっていません」なんて言っても、何らかの結論を出さなければ先生は私を解放してくれない。私の後には多くのクラスメイトが順番待ちをしているにも拘わらず、世話焼きの松永先生は根気強く私から話を引き出そうとしてくれている。ちらりと腕時計を確認すると、面談開始から二十分が経とうとしていた。早ければ五分もかからずに終わるはずだ、とついさっき説明があったのだが、どうやら私は面倒な部類の人間ということになるらしい。
廊下に机と椅子を運んだだけの簡易な面談会場は、窓から少し風が吹き込んだだけで窓がガタガタと震えてうるさい。
「で、相沢。結局進路はどうする気なんだ」
私の生活状況を確認したり趣味について聞き出したりして、一周回って最初の質問に戻ってきた。過去に受けた模試の分析表を指でなぞりながら松永先生は睨むような格好でこちらを見ている。進路、進路。その言葉を聞いただけで口の中の違和感が増幅されていく。
「いや、あの……」
「相沢の成績なら文系は間違いないけどな、学部くらいはもう決めておかないと」
「例えば……その、公務員になるなら、どこが良いとかはありますか」
「公務員か。業種が色々あるから一概には言えないけど、まあ強いて言えば法学部だろうとは思うが」
目の前の分析表の中で「法学部」の文字を探した。地元の公立大ならどうにか受かりそうだ。私立大の中にも、ハードルの低そうなところは幾つかある。右手に握りしめていたシャープペンシルでそれらの大学にチェックを入れると、松永先生は小さく頷いた。
「まあ、詳しいことは親と話し合って決めるようにな」
先生も満足気に、手元のノートに何かを書き込んでいる。
「じゃ、教室に戻って安達を呼んできてくれ」
長い面談がやっと終わった。「ありがとうございました」と言いながら深く頭を下げて、静かに席を立つ。喉の奥から湧き出るような違和感は少し薄くなった気がするけれど、決して消えはしなかった。むしろ、身体の奥底に隠れてしまった分、余計に気持ち悪さが増したような気もする。
しかし、自分の席へと戻ってしまえば随分と気が楽になった。とりあえず英単語帳でもパラパラと捲っておこうかという心のゆとりも出てくる。
隣を横目で見ると、三笠君はうつ伏せになって睡眠を取っているようだった。一応は自習中ということになっているけれど、教室の中はあちこちで話し声が響いている。こんな中でよく寝られるな、と半ば呆れながら、しかし同時にそんな彼が羨ましくもあった。
左手の平をべったりと机に付け、その上にうつ伏せになった。私も寝ようと思った。左頬が手の甲に乗る。眠気は無かった。ただ、頭の中が釣り鐘のように空っぽになっている。おまけに、誰もその鐘を打って、私を感動に震えさせてはくれない。
その体勢のまま頬骨の辺りを触ってみると、明らかに強張っていることが分かった。目をぎゅっとつぶると、心地良い痺れが返ってくる。いつもは使わない表情筋を酷使しすぎた。「愛想笑いが苦手だと損をする」と昔おばあちゃんが言っていたけれど、幾度となく大人と喋っても表情筋の使い方を覚えないので、どうやらこの先ずっと苦労して生きていかなければならないらしい。
お前は感情を表に出さないから、よく分からないよ。と、お父さんに言われるようになったのはいつからだったっけ。男の子たちと笑いながら外を駆け回ることができなくなってからかもしれない。男女間の壁を感じた時、私は急降下を始めたように思う。女性としての殻に閉じこもる前に、まずは自分という殻に閉じこもったのだ。きっと、そうだ。
なんていう自己完結的思考を長い間続けている。こんなことを続けているのが、時々妙に笑えてくる。その不毛な自己完結性から抜け出そうとも思うけど、今のところその必要はなさそうだし、求めても、それは不可能なことだ。少なくとも、私にはまだ無理。ただぐるぐると思考を巡らしていることが、私の中で快感になりつつある。脳内麻薬に酔ってるんだな、私きっと。
そうやって眠った振りをしていると面談の時間は終わってしまって、掃除をして、放課。この時期になるとぼちぼち教室に残って勉強をする人たちが増えてくるけれど、私はそれを鼻で笑いながら教室を出て行く。
「ここの問題が分かんないんだけどさ」
「どれ? あー、これは私も理解するまで苦労したんだよね」
そんな会話をする女の子たちがおかしくて仕方が無かった。そんなことは、友達に訊かなくても教科書に書いてあるでしょう。先生が黒板に一生懸命書いてくれたでしょう。どうしてそんな無駄な会話をしなければならないんだろう。結局、彼女たちにとっては受験勉強でさえも友情を育む為の道具なのだ。受験勉強頑張ったね、という誰かと共通の思い出を残さなければ気が済まないのだ。私はそんな遊びの友情なんて要らないから、さっさと家に帰る。私は私。私の体験を他の人と共有する必要なんてどこにも無い。
ひとりでだって十分生きていける。馴れ合いなんて無駄なもの、私には要らない。そんな時間は無い。なんていう孤独な女意識が早くも芽生えちゃってるわけですよ。別に僻んでるわけじゃ無いけどね。
昇降口を出ると、校内よりも空気がべとべとしていて気持ち悪かった。空は暮れかけていて、西の空は眩しいくらいの朱色が輝いているんだけど、東の空では既に夜が深まりつつあった。蒸し暑いし、空気もべとべとしている。それでも校舎の中よりも幾分か呼吸が楽になった。
校舎の前に広がるグラウンドでは、準備運動の為か男子サッカー部の部員たちが四列になって走っていた。勢いのある掛け声の中には三年生も混じっている。彼らは夏の大会まで部活を続けるらしい。羨ましいなあと思う自分がいて、慌てて羨ましく無いもんかと訂正した。勉強できる子が集まるとは言い難いこの高校では、部活動に力を入れている生徒は、ほとんどが推薦で大学へと進む。大した受験勉強もせずに。まあ、行った先の大学で周りのレベルについていけるかは別の話だけど。
嫌に教育熱心な私の両親は、定期試験や模試の結果に逐一文句をつけてくる。その為、毎度うるさく指摘されるのを避ける為に、怒られない程度の点数を取るくらいには勉強するようにしている。そんなに根を詰めてやっているわけでは無いけど、少なくともあのサッカー部の連中よりは長い時間勉強しているはずだ。それだけは自信を持って言える。大学進学という恐らく来るであろう未来に確固たる目標があるわけでも、ぼんやりとした希望があるわけでも無いけれど、両親の顔を頭に思い浮かべると行かなければならないかなあと義務感を覚える。ただ、ずっと義務感で生きて行くわけには行かないから、仕事を始めたら出て行こうと心に決めている。大学に入る為に県外に出るような理由は、私にはどうしても見つからなかった。
「あ」
ロボットのような動きで淡々とグラウンドを眺めながら校門に向かって歩いていると、不意に前方から声が聞こえた。
三笠君だ。視線を前に向けると、やはりそこには彼がいた。しかも、どうしてだか私の方を向いている。目を合わせようとするでも無く、三笠君は困ったような顔をしながら頭の後ろを掻いた。
「どうかしたの」
なるべく抑揚をつけないように喋る。三笠君は短く息を吐き、私の足元を指差した。
「いや、それ……」
足元に目線を移すが、使い古されたローファー以外には三笠君の足元にあるのと同じアスファルトが見えるだけだ。おかしいな、と思って三笠君の方をもう一度見るも、相貌を崩さない。
もしかしてと思い、右足を上げる。何も無い。今度は左足を上げると、そこには何か白く輝くものが転がっていた。サイコロだった。六の目が静かにこちらを向いている。
「ああ、これね。ごめん踏んじゃって」
腰を屈めて、それを左手で掴み上げた。底面に付いていた砂が二、三粒、手の平に落ちてくる。すぐに返すのは惜しいような気がしてきて、摘まんだ指をくるくる回しながら眺めていた。そのサイコロから、三笠君の方を移す。彼はなるべく不自然に見えないように気を付けて視線を逸らしたらしかったが、その配慮が却って行動を不自然にさせていた。
「これ、大事なものなの?」
そう訊くと、三笠君はサッカー部が行進している方を見ながら頷いた。私はそれを投げ返そうとしたが、サイコロをじっと見つめていると、何か黒いものが私の身体を駆け巡ったようで、それが私の自然な意思の発露を邪魔するのだった。脚を繰り出し、ゆっくりと近づいて行く。
「ずっと思ってたんだけどさ、三笠君って変な人だよね。いつもサイコロ振っててさ。それに、何かどっしりしてるっていうか、貫禄があるっていうか」
目の前まで来ると、いつもより身長差を感じた。座っている時はそんなに目線の違いを感じないのに、立って並んでみると、第一ボタンを見るのにもわずかながら顔を上げなければならない。私はいつも彼を小さく見積もっているのだけれど、あれは一体どういうことなのだろう。
「はい、もう落とさないように。ていうか、大事なものなら、ちゃんとしまっとかなきゃダメだよ」
彼の右手を掴んで開き、手の平にサイコロを置いた。私の両手を使い、それを固く握らせる。そうして、しばらく力を込め続けていた。自分口元が緩むのを止めることができなかった。
三笠君は明らかに困っていた。目線は絶対に合わせないくせに、チラチラと私の方を見てくる。私はといえば、しっかりと三笠君の目を見ていた。ニヤニヤとして、さぞ気味悪かったことだろう。
「じゃあね」
パッと手を放し、そう言ってから笑いかけた。三笠君は全く動かない。そしてそのまま振り返りもせず、私は極めてゆっくりとした歩調で校門を進んで行った。三笠君から姿が見えなくなっただろうというところまで来てから、両手に滲んだ汗をスカートで拭った。