嵐の前にある日常
巨大な素学学区は、巨大とは言ってみても、リアゲル一国に比べれば、点のようなものだ。
しかも、学区には国家による開発が進んでおり、商店などが少ない。 勿論、彼の寮も学区外だ。
よって、キナイとステラは、学区外に通る石畳の歴史を感じさせる道(実際、歴史はあるが)を、傍から見れば兄弟のように歩いていた。
「ラーメン、らぁーめん~」
ステラは黒いワンピースをなびかせ、大手を振って歩く。
カツカツ、なるのは、彼女が履いている、皮のサンダルにせいだろう。
「お前、追われてんじゃねぇーの?」
その隣に、周りを伺うように歩くキナイ。
ちょうど、そこの角を曲がると、彼らは、正午であったら主婦が行き来する筈の大きな商店街に差し掛かる。 軽い上り坂になっており、脇に目をやると、ショーウィンドウのマネキンが勇ましく立っていたり、果物が並んでいたりと、色とりどりの店が連なっていた。 もちろん、ここに来た理由は目的はステラが懇願するラーメンの為だ。
「大丈夫だよ。 警備兵が来たら、キナイが何とかしてくれのでしょ?」
少し先に歩くステラは、クルリと回ってキナイの方を嬉しそうに向いて、言った。
一方のキナイは、疲れた顔をして、
「いや、アルカイさん。 やめてください。 そんな無謀な期待」
と、肩を竦める。
「え~なんでぇ~」
「なんでって理由は無いけど。 とにかく、俺は今、講義さぼってんだよ。 これは非常にヤバイ事態だぞ。 今日はクラス替えなの」
また、ステラは正面に向き直り、
「ふ~ん」
「反応薄ッ!!」
「ラーメンは豚骨が一番!!」
と、脈絡もない事を元気よく右腕を天に伸ばした。
「お前、マイペースすぎるだろ」
キナイははぁ~と今日、何回目かのため息を吐いた。
本当に疲れていたようで、欠伸が止まらない。 まぁ、結局、この努力が水の泡になるのだが、それを気付くのは少し後の話である。
「気にしないで、いこぉぉぉぉ!!」
その様子を気にも留めず、歩くスピードを上げるステラ。
それは、逃亡者のテンションではない事は一目瞭然だろう。 まるで、児童が遠足に来たような騒ぎっぷりだ。
その様子を見て、ふいにキナイはある事を思い出す。
「ああ、そう言えばさ。 あの筒、家にあるけど良いのか?」
あんな物を家に置いておきたくないキナイが聞いたのは当然の事であろう。 実際、ロンディニウムという、仮想敵国の武器とも取れない何かが置いてあったら、それはもう反逆者として確定的である。 言い逃れ一つ出来ない。
「うん。 気にしないで、まだ一日は大丈夫だから」
「一日?」
「うん、一日」
と、言って、ステラは早歩きをキナイのぐーたらな歩行速度にあわせる。
あまりに白い髪がキナイの右手をくすぐり、彼は少しステラと間を空ける。 甘い匂いが漂ってきた、というのも一つの理由。 というか、こちらが大部分の理由である。
「いや、一日がどうしたって?」
「一日で此処に来るんだよ。 多分だけど」
「ロンディニウムの連中がか?」
「うん」
「なんで、分かるんだよ?」
「今までの経験からだよ」
ニタッ、とステラは笑う。
「なんか、気楽だな」
と、キナイは思った事をそのまま言った。
やっぱり、追われているのなら、こんな事をしている場合ではない。 武器とか逃走経路とか色々と調べる事が目白押しではないか、とキナイは考えた。
とは言っても、結局、その逃亡者の張本人が問題ない、というのだから、問題はないのだろう。
「そう?」
ステラは普通に首を傾げる。 本当に疑問に思っていないようだ。
「そうだよ。 追われてる身なのに、緊張感ねぇーっつか、何と言うか。 もう少し、身構えようぜ。 いつ襲われてもいいように」
「私を襲う気なの!?」
ステラは芝居っぽく、叫ぶと、それなりにノリがいいキナイは、
「俺は、断じてロリコンじゃない!! いや、どんなに可愛くても手を出してはいけないと俺の魂が叫んでる!!」
と、人が少ないとは言っても店員が働いている商店街で叫んだ。 奇異を見るような視線が痛い事に彼は気付いて無い。
劇場では羨ましがる程の視線の集めっぷりだ。
「………あのさ。 ラーメンってどこで買うの?」
「あ? ああ、そこだよ」
実は、ロリコンを全否定というわけではなく、と先ほどまで熱く自分の癖を語っていたキナイは、顎で微かに見える看板を顎で差す。 その看板は『何でも屋』と捻りも何も無い、日用品が安値で売られている店のものだ。
時々、いかがわしい物があるが、それ以外はいたって普通の店だ。 いかがわしいものがある時点で普通かは、気にしてはいけない。
「あそこで買うの?」
「インスタントだけどな」
「インスタント?」
「インスタント知らないのかぁ!! これだから、今の子供は。 ほっんと、お高く止まっちゃってよ」
「あ~~~今、バカにしたでしょ!! 私だって、キナイの知らない事だって知ってるんだから!!」
ぷくぅ~、とハムスターのようにメラニンはどこへ行ったのやら、真っ白い頬っぺたをステラは膨らませる。
「何だよ。 言ってみろよ」
キナイは面倒そうに呟いた。
その事がさらにステラのエンジン回転数を上げ、
「分かった。 言うから!!」
「ほう。 我が聞いて進ぜよう」
「鵺は人工物だって事!!」
「ん?」
と、あまりにも的外れの事を言われたときに出る、声がキナイの口から漏れた。
余りにもぶっ飛んでいた話だからである。
「だ・か・ら!! 鵺はロンディニウム製の生物兵器なの!! 本当の名前をフェンリル=サードって言うんだよ」
ステラは腕を上下にブンブン、振って必死に言うが、
「また、出まかせを。 そんな事言ったって、お兄ちゃんは信じません!!」
と、お兄ちゃんに軽くあしられる。
だが、彼女のエンジンは回転数を上げり続ける。
「バカ!! 本当なんだから!!」
「証拠は?」
「証拠は……今は、無いけど……嘘じゃないもん!!」
「そんな訳無いだろ!! そしたら、アレだ。 あ~何でもない」
それを聞くと、ステラは、してやったりと、ニヤリと笑い、
「あっ、その感じじゃ、私の言った事信じたみたいだね」
「違う違う。 ロンディニウムの神に誓ったていいぞ」
「このキササギ大聖堂のシスター兼居候の私に誓いを立てられるの?」
やっぱり薄い胸を自慢げに張るステラを、キナイは足の先から頭頂部まで眺め、
「…………ご冗談を。 シスターならもう少し、それなりの格好をしないと。 そんな真っ黒のワンピースじゃ、説得力ナッシング」
と、呆れたように言った。
彼の想像の中での話だが、シスターというのは、特に胸が大きいイメージがあるのだ。 だから、このまな板女が、シスターと言う一種の男子学生がムラムラするランキングTOP10に入る代物だとは、到底思えない。
いや、逆にそのツルツルが誘って……と性癖の海にダイブしそうになった所に、
「ナッシングじゃないよ。 NOTHINGだよ」
と、本当にどうでもいい事がステラの舌足らずの声で海に投下された。 もう少しで、妄想の海へと、未練たらたらのキナイは、恨めしそうに呟く。
「そんな、発音どうでもいいですよ。 はぁ~めんど」
「さっき、面倒って言ったね。 もういいよ!!」
フンッ!! と首を振り、拗ねるステラ。
これ以上、面倒を増やしたくないキナイは
「その~今日は、ラーメン高いの買っちゃおうかなぁ~」
と、あからさまに機嫌とりにいった。
「ホント!?」
見事に彼の術中にはまった少女一人。
それを見て、キナイ。 ホント、現金な奴と思いながら、
「ホント。 チャーシューも買っちゃうぞ」
と、調子よく言った。
「じゃ、出発ぅぅぅぅ!!」
「おまっ、行くな!!」
キナイは先に走っていったステラの後を追う。
「金ねぇ~よ。 チョット、奮発しすぎた。 くっそ、研究費を私用すっか?」
キナイはダラ~、と足裏をガラステーブル近くに放り出し、午後7時の夏に横になっていた。
横になっているのは勿論、彼の部屋だが、朝の清々しい空気に濃い豚骨の匂いが漂っている。
日の辺りがいいこの部屋に淡い夕焼けが溶けていた。
天井を見ると、蛍光灯が青白い光を放っていない。
無論、電気を灯さないのはエコとかではなく、電気代を浮かす為でもなく、ただ、面倒なだけだ。
「時は金なりって言うじゃん。 だから、金がある時間は楽しいんだよ」
素学の教科書を読み飽きたステラは、キナイ専用のベッドの上で、彼と同じようにダラ~と横になっていた。 なんだか、形容しがたい男の臭いは疎ましいが、このサスペンションが効いたフカフカのベッドの魔力には彼女は勝てなった。
彼女は、ふいに、ベッドに転がっていたカピカピに固まったテッシュと、ピンク色の本を、顔を赤くして急いで捨てたキナイを思い出し――――あれは結局、何?
「なんか意味が違う。 大体、その意味だったら、金の無いこの時に言う必要あったのか!?」
ガバッ!! とキナイは上体を起こし、一日で一年分のツッコミをしたように思いながらもツッコミを入れた。
「三割方ないよ。 それにしても、暑いね」
ステラは枕に顔を埋めて言った。
キナイの男性独特の匂いが酷い。 おそらく、シャンプーの匂いだろう。
「七割意味あるのかよ」
「それにしても、暑いね」
ああ、とキナイは気付いたように立ち上がり、
「先に風呂入るか。 汗が気持ち悪いしな。 なぁ、アルカイ、お前、先入るか?」
と、尋ねた。
「それにしても、暑いね」
「そうか。 じゃあ、俺が一番風呂頂くとするか」
「それにしても、って少しは相手してよぉぉぉぉ」
ステラは枕から赤い顔を上げ、キナイの制服のズボンがガッチリと掴む。
「俺だって暑いのは分かってんだよ。 なんだ、嫌味か? どうせ、このボロい寮には空調設備なんて高価なもんないですよ」
「じゃあ、お腹減ったぁぁぁぁぁぁ」
掴んだ腕をブンブンと拳を握ったまま縦に振る。
「分かったから、先に風呂入らせて」
「嫌だ。 飯が先」
さらに振りは強くなる。
「お前、制服、そんながっちり掴むなよ!! 破れるってさ!!」
それを素直に聞き、ステラは手を放すが、
「めしめしめしめし」
飯コールは止まらない。
結局、麺を三回、茹でた筈なのだが、何故、こんなにも腹が減っているのが、キナイには疑問すぎる。 見た目から言って、大食では無いのだが。
「分かったから、飯先に作るから。 話してください、レディー」
「何か、バカにしてない?」
「どこを? ただレディーって言っただけだぞ」
「じゃあ、何で私がレディーに反応したって分かったの?」
「いや、それはいいがかりで、貴女様の体躯とナイスバディーのレディーを同時に連想しなさったからでは?」
キナイは当たり障り無いように丁寧に尋ねたつもりだったが、
「ふん。 もういいよ。 会って間もないのに良くそんなに人の事とバカにできるよね」
と、さらに怒らせて仕舞ったらしい。
キナイは、なんだかアホらしくなって素直に言葉を紡ぐ。
「勝手に飢え死にかけて、勝手に水道使って、勝手に昼飯を食ったお前には言われたくない!! 働かないものは食うべからずって言うじゃないかぁ!!」
「じゃあ、私が夜ご飯作るよ」
「へ?」
キナイは数秒考え、
「え?」
「何で、そんな驚いてるの? もしかして、私は何も出来ないと思ってたの?」
キナイはブンブンと、頭を振る。
「ふ~ん、じゃ私の腕前見といてね。 凄いんだから。 バターまんべなく、パンに塗ったり、ケチャップで絵描くの、凄い上手いんだから」
ステラは、人差し指で何回もキナイを指差しながら言うが、キナイは、何故こんなにも自慢げなんだと、さらに驚く。
「それを人間は料理と呼びません」
「え!?」
本当に衝撃を受けたらしい。 ステラは横になっていた体を、ガバッと起こした。 黒いワンピースの胸元が、ヒラリと少し空間を空くが、谷間、ましてや山のすさのさへ無かった。 興奮する隙も無い。
「え!? ってこっちが驚きだよ」
「だって、シスター・シスカは料理だって………」
「シスカさん。 貴女は罪深い事を成りました。 少女の純真な心を弄び、バターを塗ることが料理だと、意味が分からない事をつらつらとの述べた少女を、生み出してしまいました。 これは地獄に落とされても文句は言えません。 なので、シスカさん。 今すぐにもこの少女を略奪に来てください」
「私の事はバカにして……バカにしちゃ駄目だけど!! シスター・シスカをバカにしないで!! 何故なら、シスター・シスカは凄いから!!」
なんか、必死なステラ。
「何が」
「頭も良くて、料理も上手くて、あと……牛みたいなんだから。 その、あれよ、あれ。 おおおお、おっぱ………って言わせんな!!」
ステラの右ストレートが、キナイの横隔膜にクリーンヒット。 ごふっ、大量の空気が漏れ、キナイは片膝を付いてしまう。
「理不尽な、俺は何も……」
「もういい。 私が料理する!!」
ステラはベッドから、ボロッちい台所へ向かう。
この部屋主のキナイは腹の痛みに蹲っている。 あと、涙目。
「いったぁぁぁ。 って、おまっ、ちょっと待て」
あれ? これどうすんの? と少女の声がガチャガチャという聞きたくない音とともに聞こえてくる。
壊される!!
キナイは確信に近い何かを持って、
「やめて下さい」
と、ステラの脇に立って、細い腕をガシッと掴む。
すると、ステラは、ムスッとした顔をして、言う。
「ねぇ、これどうやって火を点けるの?」
「あ~素学使うんだよ」
「魔術じゃないんだね」
「ここ素学専門学区だぞ。 火をつけるのは大体、素学類熱素学」
「じゃあ、点けて」
キナイは一度、部屋内を見渡す。
やっぱり、散らかり放題の部屋だ。 この女の子の暇つぶしの為、ビリビリに引き裂かれた特売セールのチラシが無残だ。
だからこそ、彼は誓う。
もう、被害を出さない事を。
とは言ってみても、キナイは何も出来ないので、ステラの質問にただただ返答する。
「俺が?」
「私、素学分からない」
「さっき、読んでたじゃん」
「でも、魔術と素学を一緒に使うって、なんかありそう」
「なんかって何だ。 って言っても、まぁ、いいか。 じゃ、アルカイ、そこのマッチ使って、種火点けて」
「嫌だよ。 あっもしかして、使えないとかぁ~?」
キナイの顔が驚きに変わり、
「え? なんで、分かったの?」
暗い闇。
森がざわめく。
光が走り、爆発音が響き渡る。
それに森のざわめきも飲み込まれた。
しかし、ここには、何も影響を与えない。
四角いテントの下で、簡素なイスに座り、足を組む男。 その後ろに付き従うように長身の男。 風貌などは薄い闇に包まれて、はっきりと伺えないが、纏う雰囲気が厳格で重い。
そのイスに座る男が数本、地面に突き立つ細身の長剣を見定める。
どれも波紋は青く、鍔は無い。
牛刀のようにも見えるが、そんなものとは訳が違う。 岩石さえも難なく切り裂く、魔術に強化された剣達だ。
その凶刃を無表情に眺める男は、
「フェンリル=サードは、どうした」
「はい。 今、第二部隊と交戦中です。 情勢はこちらが押しています。 あと、40分程で終わると思われます」
「40分か。 ……では、俺が出よう」
「私達だけで――――」
「何だって?」
後ろに付き添う男は、巨大な腕に押されたようにたじろぐ。
「いや、何も……」
「それでいい。 お前は部下だ。 ただ、俺に従え。 そういえば、お前はなんだ?」
「私ですか? 私は第一部隊」
チッと舌打ちの後、イスに座る男は続ける
「そういうことじゃねぇ。 例えば、俺はスローネだ」
「私はエクスシアですが………それが、どうしたのですか」
「だから、中位が上位に作戦を提案するなよ。 次、やったら首飛ばすぞ。 分かってるよな? この世界は地位だ。 力じゃねぇ。 どんだけ、強くたって地位がクソだったら、認められねぇ。 だが、そいつの力がクソだったとしても、地位がな勝手に守るんだよ。 オートガードシステムとでも、言うのか? ふざけやがって、俺よりクソのくせによ、なぜ、俺をこんな末端の仕事をさせる。 まぁ、エクスシアのお前には一生関係ない話だけどな」
男は吐き捨てる。
そこには、諦めにも似た感情が含まれているように、もうひとりの男には思えた。
「…………では、作戦をどうしますか? キルズ・ムーデリア・スローネ様?」
「だから、俺が出ると言っているだろ? お前の耳あるのか?」
「では、他の者にはなんと、伝達をすればよいのでしょうか?」
「邪魔になるなとでも、言っておけ。 ああ、俺は力あるものは、認めるタイプだ。 公表はしないがな」
男はイスから立つ。
そして、沈黙が数秒、この場を支配した。
それに耐えかねたように立ち尽くす男は口を開く。
「…………この、後も任務が残っています」
「ああ、分かっている。 ただの後始末だろ?」
ふん、と鼻で男は笑い、凶刃を地面から抜く。
その刀身は月光を浴び、鋭い光を反射していた。