第九章 衝突
診療所に戻った澄香は、休む間もなく午後の診療に向けて準備を進める。
(…これくらい、大丈夫)
少し赤くなった手を見て内心そう呟くと、背後から
ドアが開き、振り返ると澤井が立っている。
「……おい」
「せ、先生!?」
澤井は腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
「昼、どこに行ってた?一回も見かけなかったぞ」
「ふ、藤田さんの食堂です。つい話が盛り上がって」
心臓の跳ねる音が澄香の耳の奥に響いた。
診療所の中は穏やかな陽が差し込むが、空気は張り詰めている。
「それに、今は食堂が忙しいみたいなんです。
春休みで人手が足りないって言ってたので、少しだけ
手伝おうと思って」
「手伝う?」
澤井の声が、低く響いた。
「昼休みは休む時間だ。勝手に何してるんだ」
「…すみません。でも、別にずっと隠すつもりゃ…」
「だったら何で誤魔化した?」
「言ったら止めるじゃないですか。私はもう大丈夫ですから」
「そうやってお前は今までも、"自分は大丈夫"って言って無理して壊れたんじゃないのか?」
澤井の声はいつになく強かった。
だがその口調の奥には、怒りよりも焦りの色があった。
澄香は目を潤ませながら唇を噛む。
否定できなかった。
澤井に助けられるまで、自分は死のうとしていたのだから。
しばしの沈黙の後、澄香はやっと口を開いた。
「……本当に、私はただ……私を受け入れてくれた
この町のために何かしたいって。どんな小さなこと
でも」
生きようとする理由を探しながら死のうとした自分をまだどこかで引きずっている。
そんな矛盾が、喉の奥につかえて痛かった。
「死に場所にしようとしていた……自分が情けない…」
澤井は声を失った。
それを認めたら彼女がまた無理を繰り返して、自分を責めて、押し殺してしまうのではないか。
反対に止めてしまったら、自分が彼女の生きる道を
遮ってしまうのではないか。
考えがまとまらず、胸を締めつけた。
(見過ごしたら、あいつは、また壊れるまで走るだろう。だが止めたら、また心を閉ざすかもしれない。
……俺はどうすれば…)
「……もういい。勝手にしろ」
小さく吐き捨てるように言う。
その声には、怒気よりも自分への苛立ちが混ざっていた。
澤井は白衣を掴み、診察室へ入っていく。
残された澄香は拳をぎゅっと握りしめ、静かに涙を
溢した。
(……怒られて当然…私が悪い…)
古傷は、そう簡単に消えてはくれない。
翌日、診療所は休診日。
朝から海風が少し強く窓の外は晴れているのが、空気はどこか冷たかった。まるで、二人の間に流れる沈黙のように。
澄香は二階で洗濯物を干している。
(……先生、朝からずっと下にいる…)
昨日の衝突が頭から離れない。
澤井のことを気にするが、顔を合わせる勇気がなかった。
一方澤井は一階の診療室でカルテの整理をしている、つもりだ。
実際のところは、顔を合わせづらいからだ。
何度も同じ書類を見返しては、溜め息をつく。
頭に浮かぶのは同じく昨日の衝突、そして、
澄香の潤んだ瞳だった。
(俺があいつの足を引っ張ってどうする…)
「……出かけてくる」
澄香へ声を掛けたが、二階から返事はなかった。
行き先は勿論、ふじた食堂。
暖簾をくぐると昼食にしてはまだ早いからか、客席はまばらだった。
「あら、先生いらっしゃい。今日は休みでしょ?」
「ああ。……コーヒーもらえるか?」
「はいよ」
穂子は湯を沸かしながらちらりと澤井の表情を見た。
「いつにも増して渋い顔だねぇ。なんかあったろ?」
「…いや……」
短く否定してテーブルに視線を落とす。
澤井の様子を見て穂子は腰に手を当てながら言った。
「はいはい、澄香ちゃんのことでしょ?」
「なっ、ま、まあそんなところだ」
穂子の直球に咳払いをしながら渋々認める。
「ふふ、怒りに来たんでしょ?」
「別に、怒っちゃいない。ただ……」
「心配なんでしょ?そう言いなさいよ。不器用ねぇ」
「うるさい」
穂子は手を止め、静かに言葉を継いだ。
「先生、怒らないであげて。心配なのは分かる。
また頑張り過ぎちゃうんじゃないかって」
そっと澤井の表情を覗き込み、続ける。
「無理もしてない。本当に楽しそうな顔してたもの。
少しの時間でも手伝いたいって、自分で決めて来たの。そうやって、ちゃんと自分のことを知ろうとしてたよ」
澤井は黙って聞いていたが、カップを持つ指が僅かに震えていた。
彼女のことをこんなにも近くにいて、どれだけ知らずにいたのだろうか。
そんな自嘲が喉の奥に苦く広がる。
「先生、知ってた?あの子、弁護士してたのよ」
「……弁護士?」
「ええ。でも助けられなかった人がいる、救えなかったって。なんだか自分を責めているようだったから、深く聞かなかったけどね」
コーヒーの湯気が立ちのぼる。
澤井は目を伏せ、低く呟いた。
「……あいつからは一言も……まだ自分を責めて…」
「でも立ちあがろうともしてる。今のあの子はやっと誰かの信頼と感謝で、息ができるようになったのよ」
穂子の声は、どこか母親のように優しかった。
「だから怒らないで。先生が助けた命が、今また誰かを助けてるんだから。黙って見守ることも大事よ」
澤井は深く息を吐き、握っていた拳をゆっくり開いた。
(……誰かを救いたくて、逆に壊れて…)
煙草に火をつける代わりに、手の中でライターを一度だけ鳴らした。
「……また来る」
低くそう呟き、立ち上がる。
「素直に優しくしてあげなさいよ?」
「……善処する」
彼の胸には、新たに初めて知る澄香の“過去”が深く沈んでいた。
食堂を出た澤井は、港の方へ足を向けた。
潮風が少し冷たく、遠くでは漁船がゆっくりと帰ってくる。
波が岸壁に打ち寄せるたびに昼のざわめきが静まっていくようだった。
(あいつは他にも、重いものを背負っていた…)
煙草を取り出したが、火は点けなかった。
風に煽られるライターの音だけが微かに響く。
(医者として、慎重に診てきた。
だが、あいつが"自分のために"動こうとしていることを俺はもっと信じなきゃいけなかった…)
潮の匂いが鼻を抜け、喉の奥が締めつけられる。
「……あの時とは違う……悪かった…」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
空は橙色に染まり、海面がゆらめきながら光を反射している。
その美しさが、少しだけ痛かった。




