第八章 奉仕
午前の診療が終わると澄香は薄手のカーディガンを
羽織り、ふじた食堂へと足を運んだ。
商店街の道にはコサージュをつけた学生服の子どもたちやその家族が多く見られる。
(もうそんな季節か……)
そんなことを思いながら、暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!」
カウンターの向こうで、穂子が忙しそうに手を動かしている。
客席は満席、厨房の奥からも湯気と掛け声が絶えない。
「あら澄香ちゃん!ごめんね、ちょっと忙しくて」
「いいえ、大丈夫ですよ」
穂子は笑顔を見せたが、その額にはうっすらと汗が
滲んでいる。
いつもの朗らかさの裏に、疲労の影があった。
「……忙しそうですね…お疲れでないですか?」
「大丈夫よ!まあ、でも春休みで人が多いし、
バイトの子は進学で上京しちゃったから、
この通り、戦場よ」
穂子は笑いながら、鍋をかき混ぜた。
澄香は小さく笑い返したが内心、どこか引っかかる。
(……明るく振る舞ってるけど、疲れてるみたい)
動きはどこかぎこちなく、注文票を片手に走りながらも、目の下の疲れは隠せていなかった。
調理、皿の片付け、注文取り、湯呑みの補充──。
昼食を摂りながらも、澄香は忙しく立ち回る穂子を
何度も目で追ってしまう。
澄香はカウンターの隅で湯気の立つ味噌汁を見つめた。
(私は藤田さんと、ここのご飯にも救われた)
あの時の温かさが今も心の底に残っている。
会計を済ませ出口に向かう途中、澄香はふと足を
止めた。
「…あの!」
穂子が振り返る。
「どうしたの?」
ひと呼吸おいて、澄香は真剣な目で言った。
「お昼の時間だけでも、手伝わせてもらえませんか?」
穂子は目を丸くし、ふっと笑った。
「……まあどうしよう。すごく助かるわ!」
だがすぐに、我に返ったように言う。
「でも、診療所のこともあるんだろ?大丈夫かい?」
「大丈夫です。午後は三時からなので、それまでは。
患者さんが多い時は難しいですが…」
「先生に怒られないかしら。澄香ちゃんお借りして」
「私がしたいことなので。先生には内緒にしておきます」
「そこまで言うんなら、早速お願いしようかね」
「ありがとうございます!」
「礼を言うのはこっちだよ。来れる時でいいからね」
「はい!よろしくお願いします」
店の外に出ると、潮の香りを含んだ春の風が頬を撫でた。
(……やっと自分の意思で動けた気がする)
その胸の奥に少しだけ誇らしい気持ちが灯っていた。
翌日の昼下がり。
ふじた食堂の暖簾の向こうからは、次々とお客さんが
入ってくる声が聞こえた。
「澄香ちゃんこっちお願い!」
「はい!」
澄香は腕をまくり、手際よく皿洗いをしている。
厨房では穂子がフライパンを操りながら、笑い混じりに指示をとばす。
油の弾ける音、味噌の香り、客の笑い声。
どれもが澄香にとっては、新しい"生きる音"だった。
「ご飯大盛りで!」
「はーい!」
「活気がいいねぇ!お嬢ちゃん!」
「ありがとうございます!」
いつの間にか声も通るようになる。
忙しさに飲まれながらも、どこか心地いい。
(……誰かのために動くって、ほんと嬉しい)
手を動かしながら澄香はそう思った。
穂子が皿を拭きながら声をかけた。
「やるじゃないの。まるでずっとここにいたみたい」
「そんな……まだまだです」
「そういう謙遜さも、おばちゃん好きよ」
穂子の笑い声に、澄香も小さく笑った。
昼時のピークは過ぎ、店内の喧騒がようやく落ち着く。
テーブルを拭きながら、澄香は額の汗をぬぐった。
疲れているが、心は軽かった。
「本当にありがとうねぇ。まだ時間あるかい?
息抜きに少しだけお茶でもしましょ」
「はい!ありがとうございます」
食堂の一角で、二人は並んで座って息抜きをする。
穂子が湯呑みを啜りながら、ふと澄香に聞いた。
「ほんと手際がいいねぇ。どこかでお店やってたの?」
「いえ、全然。前は……法律の仕事をしてました」
「ほぉ〜、そりゃすごい。法律の仕事って何するんだい?」
「……えっと、弁護士をしてました」
穂子の手が一瞬止まった。
「こりゃまたすごいねぇ。あら、私ったら、
聞いてばかりで悪いねぇ」
「いいんです。けど……今でも思い出します。
助けられなかった人のこと…
救ってあげなきゃいけなかったのに…」
穂子はその言葉を遮らず、ただ静かに頷く。
そして、それ以上は聞かなかった。
「あっ、すみません。暗くなっちゃって」
「いいのよ、何でも話してちょうだい。
あらもうこんな時間!本当、今日はありがとうねぇ」
「いえ!またお願いします」
澄香は時間に追われるように、食堂を後にした。
だが、忙しなさは時間のせいだけではない。
誰かのために動いた達成感ともう一つの冷たい過去が澄香の心で複雑に絡み合った。
(まだ先生にも話せてないのに…少し喋っちゃった)
それは、冷たい過去の上に静かに芽吹いた
“再生”の始まりだった。
そして、かつて自分が受けられなかった"母のぬくもり"を穂子の笑顔の中で、そっと探していたのかもしれない。




