第七章 信頼
雪は溶け始め、冬の名残を残した空気の中に春の匂いが混ざっている。
澄香はカウンターの内側に立ち、緊張で背筋を伸ばしていた。
小さなノートとペンを手に、何度も深呼吸をして心を落ち着かせる。
(……緊張する…けど、決めたことだから…)
診療所の引き戸が、カラッと音を立てた。
年配の女性がでゆっくりと入ってくる。
「おはようございます。こちらで受付しますね」
挨拶をし、少しだけぎこちない笑みを浮かべた。
「おはよう。おやまあ、どこの別嬪さんかと思ったら。新しい子かい?」
「はい。不慣れな点もあると思いますが…よろしくお願いいたします」
「硬くならなくていいのよ。先生はいい人雇ったねぇ」
その声に反応し、奥の診察室から澤井が顔を出した。
「雇ってねえ。ただの手伝いだ」
「いいじゃないの、相変わらず口が悪いんだから。
嬉しいくせに」
老婆は笑いながら診察室へ入っていった。
澄香はその背中を見送り、胸に手を当てた。
(……ふぅ)
最初こそ声が震えぎこちなかったが、二人、三人と患者が来院するたびに自然と笑顔がこぼれるようになっていた。
「今日はどうなさいましたか?」
「昨日の漁で腰やっちまってよ、ちょっと診てほしいんだ」
「こちらでお待ちくださいね。楽な体勢で大丈夫ですよ」
「姉ちゃんは優しいなぁ。どっかの先生とはえらい違いだ!がはは!」
(……冷やかす元気があんなら帰れ)
時折、待合室から澤井を茶化す会話が聞こえる。
内心悪態をつくが、口元はどこか緩んでいた。
電話が鳴り、澄香は少し慌てながらも受話器を取る。
「はい、しらさぎ診療所です。
……本日は午前の診療となります。
……はい、失礼いたします。」
滑らかとは言えないが、しっかりとした声。
合間には患者とたわいもない会話を交わす。
「あそこの食堂は生姜焼きが美味しいのよ」
「そうなんですか!今度頼んでみます」
心配と緊張とは裏腹に、診療は穏やかに過ぎていった。
澤井は時折、待合室の方を気にする。
だが、着々とこなす澄香の様子を見て声を掛けるでもなく、ただ見守り続けた。
(……気にし過ぎか)
そう、内心呟く。
診療時間が終わり、帰り際の患者が澄香を見て微笑む。
「病院なのに、お嬢ちゃんのおかげで今日は楽しかったわ」
澄香は思わず笑みを返した。
「ありがとうございます。お大事になさってください」
ドアの閉まる音とともに、診療所が静まり返る。
澄香は大きく息を吐いた。
「……緊張した」
「……よくやった」
澤井は澄香の元に立ち寄り、ぼそりと言った。
「ありがとうございます…」
その短い言葉が、何よりも響いた。
褒められることなんて、もうずっとなかったから。
誰かの役に立てたという小さな確信が、
澄香にとって生きる実感そのものだった。
二人の間に、少しの沈黙。
澤井は壁掛けの時計をちらっと見てから、静かに言う。
「…これからも頼む」
「えっ?」
「……俺も助かる」
不器用な言い方は、彼なりの"信頼"の証だった。
澄香は瞬きをしてから、ふと笑った。
「……はい!」
「……ああ」
その笑顔と、明るい返事に、澤井は咄嗟に視線を逸らした。彼女の真っすぐな眼差しに、吸い込まれそうな気がして。
小さな会話、短い言葉。
けれど、二人には、“もう一人ではない”という確かな温度があった。
春の風が診療所のガラス戸をやさしく鳴らしていた。
はじめは緊張ばかりだった診療所での仕事も、
今では自然に笑えるようになった。
「先生、午後は往診ですね?」
「ああ。留守番頼む」
そんな会話が、もう日常の一部となっていた。
雪国の港町にも春が訪れたある日、幼い男の子と母親が診療所に訪れた。
「嫌だ!痛いの嫌だ!」
腕には擦り傷。だが、傷や出血よりも恐怖が大きく、
母親の腕の中で暴れていた。
澤井がどう声を掛けても、子供はさらに泣きじゃくる
一方だ。
「大丈夫だ、すぐ終わるから」
「嫌だ!嫌だ!」
頭を振り、小さな手で拒む。
澤井は困ったように息をついた。
(……子供は慣れねぇ。どうすりゃ…)
そのとき、待合の向こうから澄香がそっと近づいた。
「…先生、少しいいですか?」
澤井が視線を向ける間もなく澄香はしゃがみ込み、
子供の目線と同じ高さに顔を合わせた。
声の調子を一段落とし、まるで秘密を打ち明けるように柔らかく言う。
「怖いよね。私も小さい頃は病院怖かったんだ」
泣き顔が一瞬止まり、子供の呼吸が揺れる。
「先生はね、意地悪そうに見えるけど、とっても優しいんだよ。私のことも助けたくれたの」
澤井は目を逸らす。
(……おい、意地悪って…)
「ほんとに?」
「うん!もう少し頑張れたら、ここに好きな絵描いてあげる。何がいいかな?」
「………くるま」
「いいね!じゃあ、まずは先生に助けてもらおう」
「……うん」
子供は涙の残る瞳で頷き、ようやく腕を差し出した。
消毒の綿が肌に触れても、もう泣き声は上がらなかった。
澤井が手早く処置を終えると、澄香が笑顔で褒めた。
「頑張ったね!じゃあ、はい!車のごほうび」
「……かっこいい!お姉ちゃんありがとう」
子供の小さな肩がそっと下がる。
「本当にありがとうございます」
「いえ、お大事にしてください」
母親は目頭を押さえながら何度もお礼を言い、
親子手を繋いで帰っていった。
診療所に静けさが戻る。
澤井は手にしていたガーゼを片付けながら、ぼそりと
口を開く。
「俺がやらなきゃいけないところ、悪い。
……助かった」
その声はいつものぶっきらぼうな調子ではない。
人の命を預かる医師として、心からの感謝だった。
「いえ、そんな……私は何も」
澄香は頬を赤らめ、少し視線を逸らす。
「お前こそ、さっきの子供みたいに、もっと自分を褒めろ」
「すぐ口が悪くなるんですから」
照れくさそうにする澤井を見て、澄香は小さく笑った。
(……もっと町の人たちの力になりたい。
こんなにいい所を死に場所にしてたなんて、申し訳ない…)
診療後の片付けをしながら、澄香の胸に新たな想いが灯った。
それは、確かに"生きる理由"となっている。
外はすっかり暮れて、窓の外では漁港の灯りがぽつぽつと滲んでいる。
診療所の電気を落とし、澤井は裏口の扉を開けた。
夜風がひんやりと頬を撫で、今日一日の熱を冷ますように抜けていく。
ライターの火をつけ、煙草をくわえたまま天を仰ぐ。
「……やれやれ」
白い煙が静かに立ち昇り、夜空に溶けていった。
耳の奥で、子供の泣き声がまだ残っている。
泣きじゃくり、どうにもならなかった。
いや、自分がどうにかしなければいけなかったのに。
それなのに──
彼女の行いで、すっと落ち着いていた。
『先生は意地悪そうに見えるけど優しいんだよ』
無意識にその台詞が蘇り、思わず口の端が上がる。
「……意地悪…ねぇ」
(あいつは、本当に人の心の扱いが上手い)
声のトーンも、距離の詰め方も、あれは一朝一夕で
できるものではない。
子供も、大人も同じように救われる。
自分だって──もう何度救われたか分からない。
灰を落としながら、煙を深く吐く。
(……だから危ういんだよ。お前は…)
煙の消えた夜空の下で、澤井の胸には新たに、
何か小さな火が灯った。




