第六章 余心
外は、すっかり夜の色に染まっていた。
食器の触れ合う音が診療所の中から微かに聞こえる。
澤井はいつものように、裏口に出てライターを鳴らした。
小さな火が揺れて、煙が夜気に溶けていく。
「……ったく」
唇の端から漏れた煙とともに、ため息も消えた。
周りが何を言ったとしても、彼女は患者だと言い聞かせてきた。
だが、真剣な顔で、丁寧に、少し照れたように笑いながら料理をしている姿を思い起こすたびに胸の奥が騒つく。
自惚れだと思われてもいい。
それはまるで、"好きな人のために作る料理"と感じたからだ。
それに、あの目はもう死ぬことは考えていない。
ちゃんと、生きていた。
(……よかったんだ。だが、俺はよくない…)
灰を落としながら、自嘲気味に笑う。
助けた命に情を抱くなんて、医師として間違っている。
(あいつは何かを取り戻そうとしている。
……それを俺の勝手な情で邪魔してはいけない…)
そう分かっていてもブレーキは利かず、むしろ緩んでいく一方だった。
ふと、二階の窓を見上げると、中からもれる明かりに柔らかな影が揺れていた。
「……真っ直ぐで……お前はずるいな」
窓越しにうっすらと見える彼女へそう呟くと、
煙草の火を消し、裏口の扉を静かに閉じた。
その頃、澄香は食後の皿を重ね、湯気の立つ流し台の前に立っていた。
水の音がぽつりぽつりと響き、静かな診療所に小さく反響する。
「……はぁ」
なぜか、澄香は小さくため息をついた。
誰かのために食事を作り、美味しいと言ってくれる人がいる。
誰かとたわいもない話をしながら、食事をする。
そんなささやかな行為がこんなにも胸を温める。
嬉しいはずなのに。
医師だから、仕事として私を助けてくれた。
そう思っていた。
だが、ぶっきらぼうに、さりげなく自分を守ってくれる姿を思い起こすたび、胸の奥が騒つく。
自惚れだと思われてもいい。
それはまるで、"好きな人のためだけに守る"と感じたからだ。
(……夕飯喜んでもらえてよかった。
……けど、私はよくない)
気を紛らわすように、皿洗いを続ける。
命を助けてくれた人に、ここに居させてくれる人にこんな感情を抱くなんて、どうかしている。
(先生は、先生の人生を生きている。私の身勝手な感情で邪魔してはいけない……)
水を止め、手を拭きながら窓の外に目を向ける。
煙草の火がふっと消えるのが見えた。
「……優しくて……先生はずるいです」
窓越しに見える彼にそう呟くと、水音と一緒に静かな夜に溶けていった。
朝の診療所はまだ静かだった。
雪解けの水が屋根から滴り落ちて、春の訪れをほんの少し感じさせる。
澤井は一階の診療所で診察の準備、二階では澄香が
朝食の後片付けを行っていた。
洗濯機を回し掃除を終えると、一連の家事の合間、
意を決したように澤井のいる一階へ向かった。
「…先生、少しいいですか?」
澤井が手を止め、顔を上げる。
「…なんだ?」
「そろそろ、診療所の手伝いもさせてもらえませんか?」
澄香の声は小さく、指が僅かに震えている。
けれど、そこには確かな意志があった。
「……身体もよくなってきたし、ここまでしてもらって家のことだけじゃ割に合わないです」
「……あのな」
澤井は一拍置き、静かに言った。
「お前は家のことを任せてから、ちゃんとそれをこなしてる。それで十分だ」
「人間、詰め込み過ぎるとまた崩れる。ましてや、死ぬところだった」
澄香の方へ視線をやると、真っすぐに澤井の目を見つめている。真剣そのものだが、どこかそれでは不服そうに。
澤井が言うように澄香は家事を任せられてから、
完璧過ぎるほどにこなしてきた。
食事の準備、洗濯、掃除、買い出しなど、慣れない環境に身を置きながら。仕事を終えた澤井を、少しでも楽させたいと。
その必死さは、自分を救ってくれた感謝からか、ここに居続けている申し訳なさなのか、はっきり分からない。
そしてもう一つ、"ここに居させてほしい"という願いがどこかにあるのかもしれない。
それはここに居る時間が経つほど、強くなっていく。
「……やっぱり迷惑ですよね…」
澄香の真剣な眼差しと、その追い討ちのような言葉に、澤井は折れる。
「……分かった。ただし、無茶したら出禁だ」
小さくため息をつきながら、そう言った。
これまでも自分の身を削って倒れる人間をみてきた。
それがここで起きてしまわないか、無理をさせているのではないかと澤井は心配でならなかった。
だが、彼女は前を向いている。以前のような影はもうない。止めたら、逆に戻ってしまうような気がした。
その決断は、治療の一環か、手伝ってくれたら助かるからなのか、はっきり分からない。
そしてもう一つ、"ここに居てほしい"という願いが
どこかにあるのかもしれない。
「ありがとうございます」
「ああ、しょうがないな」
椅子にもたれながら、澤井は半ば呆れたように笑った。
澄香もまたその笑みを見て、つられて笑う。
打ち明けられない互いの密かな願いは、どこかで通じ合っているようだった。




