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第五章 息吹

暖房の風が助手席の窓を曇らせ、外の景色をぼんやりと滲ませている。

車内は静かだった。

澄香は何か話そうとするが、言葉が出てこない。

澤井が先に口を開いた。


「…寒くないか?」

「…あっ、はい。平気です」

澄香はどこかぎこちなく答えた。


それきりまた静寂が続いた。

ぎこちなさは残るが、不思議と居心地は悪くない。


車で15分ほど走ると、雪原の中にぽつんと立つ建物が見えてきた。

それはスーパーや薬局、洋服店、それに小さなカフェなどが一体となった複合施設だ。


「ここなら、一通り揃うはずだ」

澤井はハンドルを切りながら、淡々と言う。

「……こういうの、久しぶりです。なんだかワクワクしますね」

「別に、観光じゃないからな?」

「分かってます」

澄香は小さく笑った。

このやり取りを境に、これまでのぎこちなさが嘘のように溶けていった。


駐車場に車を停めると、まずは洋服店に向かった。

「何着か買っとけよ」

澤井に促され、澄香は店内を見回した。


澄香は目に留まった服を、鏡の前で自分に合わせる。

「…….これも可愛い…」


澤井は腕を組みながら、そんな彼女を見守る。

が、どこか落ち着かない。


(……似合ってるな)

喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込んだ。

医師として患者の回復を見られて嬉しい──

それだけだ。

そう言い聞かせながらも、胸の奥は騒ついている。


ついこの前まで、死のうとしていた。

生気のない顔で、冷たい雪の上に倒れていた。

だが、今は自分の目の前で、買い物を楽しんでいる。

それも心から、笑顔も見せて。


(馬鹿か、俺は)

たった数日で、何を見ている。

助けた女に、こんな目を向けるなんて、どうかしている。

ただ、治療しないと危なかった、治ったとしても行くあてがない、だからこうしている。

どんなに女らしく見えようと感情を差し込むのは──

違う。


それでも、鏡に映る彼女の姿からどうも目が離せなかった。

生きようとしている。

これまでも、数えきれないほどの患者を見てきたはずなのに。

医師という理性の鎧の下で、彼女の"生"を初めて見る瞬間──その姿は、眩しくて仕方がなかった。


「似合ってるな」

気づけば、口が勝手に動いていた。

澄香が驚いたように振り返り、目が合う。

その瞬間、胸の奥が跳ねた。


(…….何を言ってる)

言い訳の言葉が出てこず、慌てて咳払いをするしかなかった。

澤井はポケットの中で拳を握りしめ、自分の心を静かに叱る。

(……同情するな…)


「…ありがとうございます」

澄香は小さく微笑みながら、礼を言う。

真っ直ぐな彼女の声が耳に残り、どんな理屈もすべて

霞んでいった。


澄香はカゴいっぱいに気に入った服を入れ、レジに向かう。

(……なんだか楽しい。必要な買い物ってだけなのに…)

会計袋に服を詰め終えると入口付近で待っている

澤井の元へ向かった。

「本当にいいのか?自分で払って」

澤井は眉間に皺を寄せ、澄香に問いかけた。


「はい。それなりに、貯金はしていたつもりです。

それに……最後の方は、特にお金を使うことがなかったので…」


「……そうか」

彼女の言う、"最後の方"という言葉に、本当に命を終わらせようとしていたことが滲む。

それに冷たい過去は、昨夜打ち明けたことだけではない。他に決定的な出来事があったんだと、澤井は感じ取る。

(……別に、詮索することじゃない。こうして楽しそうにしているなら)


「次、行くぞ」

そう言うと澤井は、視線を外しながら、荷物を持ち上げる。その仕草はぶっきらぼうなのに、どこか優しかった。


次に向かったのはドラッグストアだ。

棚いっぱいに整然と並ぶ商品が、どこか眩しかった。


「俺も買うものがある。まとめて払うからカゴに入れとけ」

「……いや、でも…」

「拒否権はなしだ」


澄香はその言葉にくすっと笑い、二人は別々に売り場を見渡す。


(シャンプーに歯ブラシ、化粧水……それと…)

手に取るたび、胸の奥が少し騒めく。

普通の日用品の買い物だが、今それをしている自分がまだどこか信じられなかった。


「終わったなら、カゴよこせ」

「あ、はい…もう大丈夫です」

「すぐそこにベンチがある。座って待っとけ」

澤井はそう言うとカゴを受け取り、レジへ向かった。


(素直じゃないのに……先生はずるい)

澤井のぶっきらぼうで何気ない言葉は、優しさが隠しきれていない。


澄香は、そんな澤井の言動に温度を感じ始めていた。

(……もう二度と、人を優しさを信じないつもりだったのに…)


それが普通の、医師としての仕事と気遣いなのか、それとも──

彼の本心は分からないままに。



最後に二人は、食品売り場に向かった。

「食いたいもんがあれば、入れとけ」

澤井はカゴを片手に、ぶっきらぼうに言う。


「えっと、じゃあ……」

澄香はそう言いながら、まずは野菜を慎重に鮮度を確かめながら、カゴへ入れていく。


(食べることに、興味を示すようになったのか)

真剣に選ぶその仕草は、澤井の胸に刺さる。


「何か作るのか?」

自分の気を逸らすように、澄香に問いかけた。


「とりあえず、何かしらは……でもできれば…」

言いかけて、澄香は言葉を飲み込んだ。


「まあ、港町とはいえ魚ばっかりだと飽きるからな。

肉も買うといい。貧血にも効くだろう」


澤井はその飲み込んだ言葉に、追求せず返した。

澄香のためを思ったことか、好物を作って欲しいということなのか。自分でも分からなかった。


「さ、帰るぞ。これくらいなら持てるか?」

「はい」

一通り買い揃えると二人で荷物を持ち合い、並んで歩く。

その並ぶ影が冬の陽に柔らかく伸びていった。



家へ戻ると、澄香はさっそく荷物の整理を始めた。

「ここに置いてもいいですか?」

「ああ」

澤井に尋ねながら、買ってきた日用品を棚にしまっていく。


荷物を片付け終えると、澄香は一息ついて窓の外を見た。

快晴で、陽射しが白く差し込んでいる。


「なんだか、眩しいですね」

「雪のおかげで、陽が跳ね返すからだ」


(…ふと空を眺めることも、前の私にはなかった)

都会では見慣れない景色だからかもしれないが、

その光景は、澄香の心を癒し、表情が柔らかくなる。

澤井はその横顔を見て、少し口角を上げた。


「……昼飯でも食いに行くか」

「えっ?」

「昨日行った食堂だ。腹が減った」

唐突さに一瞬戸惑ったが、すぐに返事をした。

「はい」


澄香は買ったばかりの新しいコートを羽織り、澤井の後を追いかけながら、白く光る町の中へ歩き出した。


二人は昨日も立ち寄った、ふじた食堂へと向かった。

昼時で湯気と人の声が賑やかに混ざっている。


「おや先生、今日も来たの?あら、澄香ちゃんも

いらっしゃい!」


「…こんにちは」

「いつ来てもいいだろ。いつものを頼む」

「はいはい!素直じゃないんだから」

穂子は笑いながら二人を席へと案内する。


「澄香ちゃんはどうする?」

「あっ、えっと…じゃあ、先生と同じものを…」

「はいよ!なんだか澄香ちゃんのこういうとこ、先生に似てるわねぇ」

「……えっ!?」

穂子のその一言に、二人は同時に顔を上げ、目が合う。

澄香は小さく俯き、澤井は咳払いをした。


「……どこがだ?」

「なぁに、勘よ!勘!まあ、少なくとも不器用なところはそっくりね」

穂子の茶化しに、澄香の頬がほんのり赤く染まった。


「ところで昨日は雷がすごかったねぇ。大丈夫だったかい?」

穂子が話題を変え話しかけると、赤く染まった頬のまま少しだけ笑って頷いた。


「はい、先生が気にかけてくださったので…」

「へぇ〜、この先生が?珍しい。だからあんなに雪が降ったのかしら!」


「……やかましい」

澤井は湯呑みを持ち上げ、そっぽを向く。

「なぁに、いいことじゃないの!先生が優しくするなんて」

「……余計なお世話だ」


そんな不器用なやり取りに、澄香は思わず口元を押さえ、笑ってしまう。

穂子はそれを見逃さない。


「ほらほら、こういうところが二人そっくりなのよ」

穂子の更なる茶化しに二人は言葉を失い、ただ顔を赤らめた。

自覚のない照れが、何よりもよく似ていた。


料理が運ばれると、湯気と出汁の香りがふんわり広がる。

澄香は箸を取り、口に運ぶ。

「…美味しいです」

「ああ、うまい」

その二人の短いやり取りに、穂子は笑いながら厨房の奥へ入っていった。



「ごちそうさまでした」

澄香は食事を終え、湯呑みを両手で包みながら静かに頭を下げた。

「悪い、ちょっとトイレ」

澤井はそう言い残し、席を立つ。


澄香はしばらくその背中を見送っていたが、

ふと、思い立ったように穂子に身を寄せた。

「…あの、藤田さん」

「なんだい?」

「先生って、その…どんな食べ物が好きなのかご存知ですか?」


穂子は一瞬目を丸くし、にやりと笑う。

「おやおや、ずいぶんいい質問だねぇ」

「ち、違うんです!色々よくしていただいているので。その、ご飯くらいは…と思って……」

「はいはい、言い訳はそれくらいね。可愛いんだから」


澄香は耳まで真っ赤になる。

視線を落としながら、手元の箸袋をいじっていると、

穂子は手を口元に寄せて、ひそひそ声で囁いた。


「実はあの先生、唐揚げとハンバーグが好きなんだよ」

「………子供みたいですね」

(だからさっきのスーパーで、肉も買っとけって…)

そんなことを思い出しながら、澄香は思わず吹き出した。

同時に、そんなところが少し可愛いと思ってしまった。

「でしょう!?あんな渋い顔して口が悪いのにねぇ、あはは!」

二人は堪えきれず笑い合う。


「ありがとうございます。穂子さんに聞いたことは内緒にしておきます」

「おや分かってるねぇ。まあ、食卓に出したらバレると思うけど。顔に出るからね、先生は」


その時、奥のドアが開き、澤井が戻ってきた。

「何をコソコソ話してる」

「なーんにも。ねぇ、澄香ちゃん?」

「は、はい……! なんでもありません!」


穂子の悪戯っぽい笑みを背中に受けながら、

澄香はそっと俯き、唇の端に微笑を浮かべた。



夕方、窓の外は橙色の光が雪面に反射してきらめいていた。


「さて、作ろう」

誰に聞かせるでもなく呟きながら、袖をまくる。

慣れない場所だが、調理器具の位置はもう何となく分かるようになってきた。

(唐揚げとハンバーグ、どっちにしよう……)

穂子の言葉を思い出しながら、少し考え込む。

静かに冷蔵庫を開けると、午前中に買った鶏肉が目に入った。

「……今日は唐揚げにしよう」


そう思い立つと、鶏肉を取り出して切っていく。

下味をつけ生姜とニンニクの香りが漂うと、手慣れた様子で片栗粉をまぶした。

じゅわ、と弾ける音が静かな診療所に広がる。


「ん?」

診察部屋でカルテの整理をしていた澤井はその匂いに

そそられ、キッチンへ向かった。


「……いい匂いがすると思えば」

背後から声がして、澄香はびくりと肩を跳ねさせた。

振り返ると、澤井が口元に微かに笑みを浮かべながら腕を組み、ドアのところに立っている。


「す、すみません……勝手に。油はねとか、後できれいにするので…その…」

「そんなことはいい。で、何を作ってるんだ?」

「ゆ、夕飯のおかずです」

「…………見りゃ分かる」


そんな無邪気なやり取りに、二人は思わず笑みをこぼした。

「すぐできるので、休んでてください」

「ああ、頼んだ」


澄香は揚がった唐揚げを油切りし、皿へのせていく。

炊き立てのご飯、味噌汁も並びも夕飯が出来上がった。


「口に合うか、わかりませんが…」

そう謙遜し、二人は食卓に向かい合った。


「うまそうだな。……食べていいか?」

「はい。どうぞ」


澤井は箸を取り、唐揚げを一口、口に運んだ。

噛んだ瞬間、熱と香ばしさが口いっぱいに広がった。


「……うまい」

一言だが、それは嘘のない声で、どこかで照れが混ざっていた。


「……よかったです」

「料理できるんだな」

「……一人が長いので。先生と同じです」

「……まあ、そうだな」


たわいもない会話をしながら食べ進める。

「そういえば、俺の好物言ったか?」

「え?あっ、それは、たまたまです。そうそう、先生も言ってたじゃないですか、肉は貧血にいいって」

「何をそんな慌ててる。まあ、言ったが」


(どうせ食堂で聞いたんだろ。……別に悪く思うな)

その言葉を胸にしまった。

澤井もまた、彼女のそんなところが、少し可愛いと思ってしまったからだ。


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