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第四章 閃光

白い湯気が立ちこめる浴室。

湯船に身を沈めた澄香は、小さく息を吐いた。

全身にじんわりと温かさが沁み込み、冷え切っていた身体が解けていく。


(……何でこんなに優しくするの…)

素っ気ないのに、見捨てはしない。ぶっきらぼうなのに、気遣いが透けている。

そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。


たが、自分の姿を省みると、ハッとなる。

(いい歳して人の家に転がり込んで、私は何をやっているんだろ…)


弁護士として、それなりに自分の足で立ってきたつもりだった。

今は、全てを投げ出し、赤の他人に縋っている。

情けなさが込み上げ、唇を噛んだ。

そう思った瞬間、視界が滲み、湯気と涙が混ざり合った。

後悔と罪悪感もあるが、どこかで安心感が混在している。

(……いくら好きなだけ居ろって言われても…)


──ポチャン

湯の中へ涙が落ちる。

澄香の胸の奥は、そんな葛藤で苦しくなった。



湯から上がり、頬に火照りが残っている。

髪を拭きながら廊下を抜けると、リビングでは澤井が薄暗い明かりの中、帳簿を見ていた。


「……お風呂ありがとうございました」

「ああ」


澄香は少しだけ躊躇いながら立ち止まる。

「……おやすみなさい」

「ああ、ゆっくり休め」


淡々とした声だが、どこか温度を含んでいて、澄香の胸に微かな熱が残った。

布団に入っても、澤井の声が耳に残って眠れない。


そのうち、窓の外で雪が強くなる。

白い世界に混ざるように、澄香のまぶたの裏で、かつての夜の記憶が疼き出す。


外は静かだが、雪はぼたぼたとさらに強さを増した。

だがその静寂を破るように突然、轟くような雷鳴が空を裂いた。

澄香はピクリと肩を震わせる。


(……どうして今…)

雷鳴は澄香の心の奥を叩き続け、瞼の裏に過去の光景が浮かぶ。


あの夜も、こんな音だった。

雨が叩きつける音と稲妻の轟音。

そして、怒鳴り声。


「出てけ!」

ドアが閉まる音。

まだ幼かった澄香は、裸足のまま外に放り出された。

空は稲妻で裂け、雨が顔を打つ。

濡れた足が泥の上を滑り、転んでも、泣いても、

誰も迎えには来なかった。


──その時から、雷は恐怖の音になる。


呼吸が浅くなる。

喉の奥が焼けつくように痛い。

見えない何かに押さえつけられる感覚。

雷鳴は容赦なく、澄香の冷たい過去の記憶を呼び寄せる。

「……ごめんなさい……もうやめて……!」


その時、廊下を通る足音がした。

「眠れないのか?」

ドアの向こうから低く落ち着いた声がすると、

澄香はびくりと顔を上げた。


澤井は部屋に入らず、ドアのところで腕を組む。

「怖いのか?」


澄香は目を伏せ、声を震わせた。

「……小さい頃のこと、思い出しちゃって…」

「……」

「いい歳して、普通じゃないですよね、雷で怖がるなんて……」


澤井は小さくため息をついた。

「普通かどうかなんて、人それぞれだ」

「……」

「誰かに理不尽なことをされたのなら、怖くなって当たり前だ」


澄香の瞳から、再び涙が滲む。

だがその涙は、怯えの涙から、長い年月封じていた

心が緩んだ涙に変わった。


「眠れそうか?」

「……すみません…正直怖いです」


澤井は無言で部屋に入り、ストーブの火を少し上げた。

その動作だけで澄香の目尻から、また静かに涙が溢れた。


外の雷雪はいつの間にか遠のき、静けさが戻る。

澄香は目を伏せたまま、澤井が近くに腰を下ろしたのを感じていた。


「少し落ち着いたか?」


澄香はゆっくりと頷く。

「……すみませんでした。こんな時間に、子供みたいに取り乱して…」


「謝ることなんかない」

澤井の声は低くて、妙に優しい。


澄香は息を吸い、そして──

もう隠すのをやめようと思い、打ち明ける。


「……子供の頃、母親から暴力を受けていました」

声は震えているが、止まらない。


「ある時、外に閉め出されたことがありました。その日は雨で、雷が酷くて……

けど、泣いたら叩かれる、もっと酷くなると分かってました。だから泣かないように、母の気が済むまで、ひたすら時間が経つのを待っていました…」


澤井は何も言わず、ただその場で彼女の話を聞く。


「母はそれを躾だと言っていました。実際に誰も助けてはくれなかったので…私が悪い子だからと思っていました」


記憶の底から、冷たい冬の空気が蘇る。

あの時の自分は、泣くことすら許されなかった。


「大きくなって母の言動は間違っていると、やっと

捉えられた時に思いました。弱い立場の人を助けたいって…必死に勉強して、弁護士になって、なのに……私は……」


声が途切れ、涙が頬を伝った。

それ以上、ここでは話せなかった。


澤井は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「お前は強いんだな」


澄香は布団に顔を埋めた中で、僅かに視線を上げる。


「自分が傷を負っているのに、他の誰かを助けようとするなんて、並の人間にできることじゃない」


澄香の瞳から、また涙が溢れた。

もう止められなかった。

澤井は近づき、手を伸ばしかけたが──

途中で止める。


「……無理に消そうとする必要はない。実際そう簡単に過去の傷は消えない……

だが、自分のことはちゃんと労ってやれ。自分が悪いと思うな。お前は何も悪いことはしてないんだからな」


手を伸ばす代わりに、そう言葉を落とした。


その言葉に、澄香は涙の向こうで彼を見上げた。

目にはほんの僅かな光が差し込む。


「……先生は、優しいんですね」

「…そうか?」

「はい、雷より、ずっと…」


澤井は少しだけ笑って立ち上がる。

「…遅いから、寝ろ」

照れを隠すようにそう言い残し、部屋を後にした。

夜も更け、雪が静かになると、澄香は安心して眠りについた。


部屋を出た澤井は、さっき見た澄香の泣き顔が頭から離れずにいた。

あの細い肩を震わせながら、必死に言葉を絞り出した彼女の姿。

医師として患者の涙は何度も見てきたはずだが、あれはどこか違った。


雪の中に倒れる彼女を見た時は、生きることを拒んでいた。死ぬつもりだった最後まで、誰にも助けを求めず、誰にも頼らずに。


けれど、今は立ち上がろうとしている。

ほんの少し、人を信頼して、頼って、助けを求めているように見えた。

本当は、ここで終われない、まだ生きたい──

そう彼女が願っているように感じた。


「……強がりだな」

澤井は診療所の裏口へ向かう。

胸が締めつけられるのを紛らわそうと、震える手で火を点け、煙草を吹かした。


医師として、冷静でいなければならない。

だが、それだけでももう済まされない。

自分はあの女を患者ではなく、もう一人の人間として見てしまっている。

線を越えたら、何かが崩れると分かっていながら。


澤井もまた、自分の冷たい過去を思い起こす。

救えなかった、あの命──

後悔が今も胸に残っている。

それを忘れるために、場所を移し、医者を続けてきた。


(……助けたいに決まってる……どう思われてもいい…)


ふと、灰を落としながら二階を見上げるとら窓越しに小さな明かりが漏れている。

「……眠れていれば、今日はそれでいい」

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


彼の決意と迷いが、降り積もる雪のように、そっと沈んでいった。



翌朝、澄香は眩しさで目を覚ました。

昨夜の雷雪は嘘のように止み、窓の外には白銀の世界で広がっている。


ふと、味噌と出汁の香りが漂ってくる。

そっとリビングのドアを開けると、キッチンの前に立つ澤井の姿があった。

見慣れた白衣ではなく、紺色のフリースを着ていて、

手慣れた様子で淡々と朝食を作っている。

いつもと違う背中に、ほんの少しだけ見惚れた。


「……おはようございます…」

声を掛けると、澤井が振り返った。

朝の光に照らされた顔は、昨日より穏やかに見える。

「ああ、起きたか」


だが、澄香は何か喉の奥に引っかかる感じがした。


冷たい過去に苛まれたところを、夜遅くに気にかけてくれたこと。

何も言わず、そばで話を聞いてくれたこと。

否定せず、自分を受け止めてくれたこと──

診療も家の仕事もして疲れているはずなのに、

何か一言でも謝りたかった。


「……あの、昨日は夜遅くに……」

その瞬間、澤井が唐突に口を挟んだ。

「食べるぞ」

ぶっきらぼうな声で、謝罪の言葉を避けるように。

澤井は、炊き立てのご飯に卵焼き、味噌汁を無言で

テーブルへと並べている。

その仕草はあまりに自然で、まるで「昨日のことなど何もなかった」とでも言うようだった。


澤井に促され、箸を取る。

見慣れた献立だが、どこか懐かしさがこみ上げる。

一口食べると、冷たい過去を打ち消すように、塩気と温かさが身体に沁みわたった。


「美味しいです」

「…そうか」

短く返すが、口調の奥に僅かな照れが滲んでいる。


澄香は黙々と食べ続けながら、少し窓の外に目をやると、小さく呟いた。

「昨日はあんなに雷が鳴っていたのに、夢みたいですね…」

「こっちの方じゃ、よくあることだ。荒れた夜の後は、綺麗に晴れる」



「……まるで、昨日の自分みたい」


その言葉に澤井は一瞬箸を止め、一瞬何かを思い出したように視線を落とす。

だが、すぐに彼は小さく笑った。


「強ち、悪くないだろ」


澄香は箸を置き、静かに笑みを返す。

(……先生が近くにいるなら、生きてていい…)

心の中で、ようやく春の兆しのようなものを感じた。



朝食を終えしばらくすると、二人は一階の診察部屋へ向かう。

今日は休診日で、部屋の中は静まり返っていた。


「身体の調子はどうだ?」

澤井が診察の椅子を指し、澄香を座らせる。

「…ここへ来た時より、ずっと楽です」

「そうか、じゃあ診るぞ」


澤井は聴診器の先を手で温めると、呼吸の音を聴取した。

「深呼吸して」

手慣れた様子だが、真剣な表情で診察が行われていく。


「次、背中向けて」

澄香はおずおずと、澤井に従う。

聴診器の先と、彼の手が布越しに触れるたび、心臓の鼓動が速くなる。


「平熱、脈も落ち着いてる。呼吸も問題ない」

「だが、疲れは残ってそうだな」

澤井は前に回り込み、目の下を軽く指で押して眼瞼結膜を覗き込む。


「少し貧血気味だな。寝不足もあるだろ」

「……はい」

指先が離れる瞬間、頬に残った温もりが妙に鮮明だった。


澤井は聴診器を首にかけ、カルテに数行走り書く。

「体力は戻ってないが、炊事と洗濯くらいなら許可する」

「……いいんですか?」

澄香は思わず顔を上げた。

「ああ、少しずつ身体を動かして、慣らしていけ」

「ありがとうございます」


言葉は素っ気ないが、彼の言う許可は"信頼"のようにも聞こえた。自惚れているだけかもしれないが、自分が生活に必要とされている気がして。


診察を終えると、澤井は何かを思い出したように口を開いた。

「それじゃ、出かけるぞ」

「……えっ?」

唐突過ぎて、澄香は一瞬瞬きをした。

「暮らすのに必要なもの、買いに行くって言ったろ?」

澄香もまた、何かを思い出したかのように、返す。

「はい、お願いします」


「雪が深い。長靴あるから履け。上着は俺ので我慢しろ」

そう言って、澤井は無精髭を撫でながら玄関へ向かう。

澄香は小さく息を吐き、その背中を追いかけた。


車のエンジン音が響き、二人は診療所を後にした。

澄香にとって、その音は確かに、これからも"生きる音"のように聞こえた。

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