第三章 萌芽
診療所を出て、雪解け水が小さく流れる路地を二人で歩く。
澄香はまだぎこちない足取りだが、澤井が横にいる
安心感が背中を支えていた。
「ふじた」と書かれた小さな暖簾をくぐり抜けると、ふわりと出汁の香りが鼻をくすぐる。
木の温もりを感じる食堂の中から、朗らかな声が響いた。
「あら!先生いらっしゃい!」
店の奥からこの食堂を営む、藤田穂子が声を張る。
「おやおや今日は珍しい!先生が可愛いお嬢さん連れてくるなんて!」
穂子は目を丸くし、にっこり笑う。
澄香は驚いて軽く頭を下げた。
「……急に、すみません」
緊張で声が震える澄香に、穂子は手をひらひらさせた。
「なぁに謝ってんのよ!いいのいいの!座って!先生が連れてきたんだから、間違いない子だよ!」
澤井は少しだけ眉をひそめ、ぶっきらぼうに言い返す。
「余計なこと言うな。こっちはまだ体調が戻ってねぇ。軽いもん頼む」
「はいはい、分かったよ。まったく、うちの優しい先生は口が悪いんだから!」
穂子は茶化すように笑いながら、温かい湯気の立つ味噌汁と小鉢を手際よく並べていく。
澄香は思わずふっと笑みをこぼした。
(……確かに口は悪いけど、やっぱり優しいんだ……)
「はいお待ち!」
テーブルに並んだのは、湯気の立つ味噌汁に小さな焼き魚、ほかほかの白いご飯。
澄香は箸を持ちながらも、うつむき加減でしばらく
手をつけられずにいた。
「……食わねえと、体がもたねえぞ」
澤井の言葉に促さる。
「……いただきます…」
澄香は箸をそっと動かし、一口、味噌汁を口に含んだ。
出汁の温かさが、冷え切った体にじんわりと染みわたっていく。
「……美味しい」
かすかな声でそう言った澄香を、澤井はちらりと見た。
何も返さなかったが、その口元がわずかにほころんだのを澄香は見逃さなかった。
再び沈黙が落ちる。
味噌汁をすする音と、焼き魚の骨をほぐす箸の音だけが店内に響く。
穂子はそんな二人を遠くから見守り、くすりと笑って奥へ引っ込んだ。
やがて澄香は、勇気を振り絞って問いかけた。
「……先生はよくここに?」
澤井は短く頷く。
「ああ。腹が減ったら、だいたいここだ」
それだけ言って、また箸を動かす。
澄香はどこか可笑しくなって、小さく笑みを浮かべた。
その笑顔に気づき、澤井は一瞬、視線を泳がせる。
けれどすぐに表情を引き締め、何事もなかったように味噌汁を口に運んだ。
(…こんな風に誰かと飯を食うのは、久しぶりだ……)
しばらくして、澤井のポケットの中で携帯が震えた。
「……悪い、ちょっと出る」
短く言い、椅子を立って外へ向かう。
背中を押すようにドアが閉まると、食堂の空気がふっと和らいだ。
残された澄香は、お茶を前に所在なげに箸を整えている。
そんな彼女に、穂子が台所から顔を出し、ニヤリと笑った。
「あんた、運がいいね」
澄香は驚いて顔を上げた。
「…えっ?」
穂子はエプロンで手を拭きながら、澄香の隣に腰を下ろした。
「先生はああ見えて根は真面目でね、腕も確か。
人助けが下手なくせに、放っとけない人がいるとすぐ首を突っ込むんだよ」
澄香は思わず視線を落とす。
胸の奥がじんわり温まるような、それでいてむず痒いような気持ちがこみあげる。
「……そう、なんですね…」
穂子はふっと声を潜めて、茶化すように笑った。
「あの人、長いこと一人でいるからねぇ。あんたみたいな素直で可愛い子が来て、嬉しいんじゃない?
…案外、相性いいかもよ?」
「……っ!」
澄香は耳まで赤くなり、慌てて湯呑を両手で持ち上げた。
茶の温かさで顔の火照りをごまかすように口をつける。
そのとき、電話を終えた澤井が戻ってきた。
澄香の様子に首をかしげる。
「……どうした?顔赤いぞ」
「な、なんでもないです!」
穂子はそんな二人を見て、声を出さずに肩を揺らして笑っていた。
食堂を出ると、白鷺町の空気は冷たく澄んでおり、
吐いた息が白く浮かぶ。
澄香は両腕を抱きしめるようにして歩く。
そのすぐ横には澤井の背中。無言で歩く大きな背中が妙に心強い。
「……ご馳走様でした。ありがとうございます」
緊張した声でそう告げる。
澄香にとって「ありがとう」と口にするのは簡単なはずなのに、今は胸の奥にまだ見えない壁があり、思うように言葉が出てこない。
澤井はちらりと彼女を見た。
「……ああ」
ぶっきらぼうな返事。
けれど、声の調子は不思議と柔らかい。
しばらくして、ふと、澄香が小さな声を落とす。
「先生って、一人が長いんですが?」
澤井の足が、わずかに止まった。
一瞬だけ横目で澄香を見たが、すぐに前を向き直る。
「……なんでそんなことを聞く」
「あっ、いえ……すみません…」
澄香は慌てて首を振る。
「食堂の藤田さん、先生のことよく知ってるみたいだったけど、家族の話はしてなかったので…」
返ってきたのは、風に紛れるような短い吐息だった。
「……詮索するもんじゃねえよ」
ぶっきらぼうな声音。
だが、その背中からはどこか距離を取ろうとする気配が漂っていた。
澄香は思わず唇を噛んだ。
自分も、まだ全てを打ち明けていない。
それでも、聞きたいと願ってしまったのは──
この人の孤独が、どこか自分と重なって見えたからだ。
沈黙のまま、二人は雪解けの町道を歩く。
診療所へ戻ると、外よりもずっとあたたかな灯りが二人を迎えた。
澄香は玄関で小さく深呼吸をしてから、靴を脱ぎ、遠慮がちに中へ入る。
澤井はコートを壁に掛け、無造作に振り返った。
「……少しでも死ぬ気がなくなったんなら、好きなだけここにいろ」
その言葉に、澄香の胸は不意に温もりで満たされる。
けれど同時に、心のどこかでざわめきが生まれた。
「……でも…」
視線を伏せ、両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
それでも、どこへ帰るあてもない自分の姿を思うと、言葉は喉に詰まった。
澤井はそんな澄香を一瞥すると、短く鼻で笑った。
「……他に行く場所なんてあるのか?」
突き刺すような言葉。
だがそこに嘲りはなく、ただ真実を見抜いた淡々とした響きだけがあった。
澄香は驚いたように目を見開き、うつむいたまま肩を震わせる。
図星を突かれた悔しさと、それでも本当の自分を見透かされている安堵が、同時に胸に広がっていった。
「……ありがとうございます…」
小さな声で礼を言う澄香。けれどその直後に、意を決したように続けた。
「……炊事とか、洗濯、診療の手伝い…私に出来ることをやらせてください。何もしないで居るのは、あまりにも…頼りにならないかもしれませんが…」
澤井は腕を組み、短く息を吐いた。
予想はしていた。
彼女の眼差しは、「役に立ちたい」「迷惑をかけたくない」という気持ちが滲んでいる。
壊れそうなくらい細い体なのに妙に強情で、一度口にしたら譲らないだろうと分かる。
言葉の端に宿る切実さが、彼の胸に妙な痛みを残した。
医師として、そして一人の男として、情に流されてはいけないと自分に言い聞かせながらも。
「……条件がある」
澄香は真剣な目で見つめ返す。
「…条件?」
「俺が診察して、身体が治ったと判断してからだ。それまでお前は患者だ。いいな?」
静かな声が、否応なく距離を定める。
澄香の胸の奥に、拒絶にも似た厳しさと同時に守られている安心が同居する。
「…分かりました」
澤井はそれ以上何も言わず、手近な棚に置かれたカルテを乱雑に揃えた。
その背中を見ているだけで、不思議と胸の奥がじんと熱くなる。
やがて沈黙を破るように、短く言った。
「明日、出かけるぞ」
唐突な言葉に、澄香は思わず顔を上げた。
「え……?」
振り返った澤井は、どこかぶっきらぼうに眉を寄せて続ける。
「ここに居るんなら、必要な物くらいあるだろ?」
その声音に優しさは混じっていない。
ただ事務的で、当たり前のように言い放っただけの調子だが、澄香には、その無骨さがかえって胸に沁みた。
「……ありがとうございます」
かすれた声でそう告げると、澤井は視線を逸らし、照れを隠すように煙草の箱をポケットに押し込んだ。
今日の診察を終えた澤井は診療所の裏口に立っていた。
雪国の夜は冷え込みが厳しく、吐く息が白く溶けていく。
壁にもたれかかりながら、澤井はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
煙を吐き出すと同時に、胸の奥に溜まっていた重たい感情がふわりと揺らぎ、少しだけ軽くなる。
(……訳も知らねえ女をうちに置いておくなんて、俺は何を考えてる…)
たまたま診療所の裏で倒れていた女。
氷のように冷え切って痩せた身体、力なく風に揺れる睫毛、そして、沈んでいた顔……
だが、さっき彼女が見せた表情が脳裏をよぎる。
小さく「ありがとうございます」と呟いて、ぎこちなく笑った顔が。
死に場所を求めて来た人間とは思えない、どこか必死に生きようとする光があった。
(……守りたい、なんて思っているのか?)
煙草の火を深く吸い込み、熱い煙を喉に落とし込む。
肺が焼ける感覚と一緒に、抑え込んでいた衝動も少しは鎮まる気がした。
けれど吐き出した白煙の向こうで、彼女の姿が重なって離れない。
弱々しいのに、まっすぐで。
放っておけるわけがない。
(……結局俺は、あの頃から変われていない…)
煙草の火を消し、胸の奥の葛藤を残したまま再び診療所の中へ足を踏み入れた。
「とりあえずついてこい」
無骨にそう言うと、澄香は少し戸惑いながらも従う。
階段を上がると、そこには生活の匂いが漂う空間が広がっていた。
木の床にキッチン、ダイニングテーブル、ソファ。
窓辺にはマグカップや読みかけの本が雑然と置かれ、どこか温かい。
「空き部屋があるから、ここを使え」
澄香は恐る恐る返す。
「……本当に、いいんですか?」
「ああ。トイレはここ、風呂は向こうだ。タオルは棚に置いてあるのを使え。着替えは診療所の貸し出し用の服がある。サイズやらダサいのは文句言うな」
澄香は案内を受けながら、生活感のある空間に戸惑いつつもどこか安心する。
「まあ、他に必要なもんがあったら言え」
そう言いながら澤井はキッチンへ向かった。
「そこに座ってろ。すぐできる」
澄香は遠慮がちに腰かけ、静かにその様子を眺めていた。
まな板を用意し、手際よく野菜を切っては鍋へ放り込んでいく。
「…先生、料理慣れてるんですね」
ぽつりと零す澄香に、澤井は包丁を止めずぶっきらぼうに返す。
「一人が長いからな。嫌でもそうなる」
出汁の香りが部屋に広がり、炊き立てのご飯と寄せ鍋が並ぶ。
二人は向かい合って座り、ぎこちなく箸を取る。
「…いただきます」
一口、口に運ぶと、身体の奥に染み込むように温かさが広がり胃袋が求めるように受け入れていく。
沈黙の中箸を進めていたが、ふと澄香が顔を上げる。
「……すごく…美味しいです」
気づけば涙が滲んでいた。慌てて拭おうとするが、手の甲でごまかす動きはぎこちない。
「普通の鍋だけどな」
澤井はそれだけ言うと、ただ黙々と飯をかき込む。
澤井が言うように、特別な夕飯ではない。
だが、澄香にとっては久しく目にしていなかった
「家庭の食卓」だ。
「当たり前」と思われることが、自分にとってはずっと当たり前ではなかった。
心の奥の古傷が、不意に疼く。
「……私にとっては、普通ではなかったので…」
澄香は慌てて口をつぐみ、震えながら箸を強く握る。
言ってしまった──と後悔するように視線を落とし、滲んでいた涙が溢れ出した。
対面の澤井は、箸を持ったまま無言で彼女を見ていた。
追及するような言葉は投げかけない。
ただ、短く息を吐き、黙々と食事を続けた。
その沈黙は、決して拒絶ではなく──「言いたくなければ言わなくていい」と告げているように感じられた。
澄香の胸に、温かさと苦しさが同時に広がっていく。
「……ご馳走様でした。変なこと言ってすみません…」
澤井は片付けの手を止め、ちらと彼女を見やった。
眉間にうっすら皺を寄せるが、怒っているのではなく、むしろ困惑の色が濃い。
「謝ることなんてあったか?」
短い返事だが、どこか柔らかさを帯びていた。
その響きに救われたような気がして、胸の奥の緊張を少しだけ緩める。
(どうしてこの人は、こうやって受け止めてくれるんだろう)
澄香は不思議でならなかった。
皿を洗い終えタオルで手を拭った澤井が振り返ると、澄香は椅子に座ったまま、ぼんやりと食卓を眺めていた。
疲れが色濃く浮かぶ横顔に、澤井は少し眉を寄せる。
「……風呂でも入ってこい」
唐突な言葉に、澄香は目を瞬かせる。
「……え…でも…」
口ごもる彼女に澤井は視線を逸らしたまま言葉を重ねた。
「今夜は大雪らしい。早めに入ってゆっくり休め」
その声音は素っ気ないのに、不思議と命令ではなく気遣いに聞こえる。
澄香は少し戸惑いながらも、小さく頷いた。
「……はい」




