第二章 微光
翌朝、外は快晴で差し込む光が柔らかく部屋を照らしていた。
ベッドの上でぼんやり天井を見ていた澄香の元に、
静かな足音を立て、盆を持った澤井が現れる。
その上には湯気を立てる白粥と、小皿に梅干。
「…食えるか?」
机に置くと同時に、レンゲを澄香の前に差し出す。
ぶっきらぼうだが、声のトーンはどこか柔らかく、
手際の良さから気遣いが滲んでいた。
澄香はほんの少しだけ頷き、
「……あ…ありがとうございます…」
ここへ来て初めて感謝を述べた。
戸惑いながらも身体を起こし、レンゲを手に取る。
「礼はいい。食え」
澤井は背を向け、デスクの椅子に座る。
「……いただきます…」
消え入りそうな声でそう言うと白粥をゆっくり一口、口に含む。
熱い白粥がゆっくり喉を通っていく。
ただ、それだけなのに、涙が出るのを必死に堪えた。
(誰かが温かいご飯を作ってくれるなんて、いつ以来
だろう)
温かさが身体にじんわりと染み込む。
でも、それ以上に、胸の奥に何かがこみ上げてくる。
「熱いからな。気をつけろ」
ただ、そばで毛布をかけ直し、温かい手を添えるわけでもなく、澤井は淡々と声をかける。
その無愛想な温かさが、澄香の心に響いた。
(終わらせようとしていた自分を、仕事だって言ってたけど、死にかけていた自分にここまでしてくれるなんて…)
名前も素性も分からない、命の危機にあった自分を
放っておかず、ここまで面倒を見てくれている。
澄香の心は張り裂けそうになった。
やがて涙が、熱いお粥の湯気に混じって、頬を伝う。
涙はもう止められなかった。
澤井は一瞬だけ眉をひそめた。
ただ、何も言わず、彼女が食べ終えるのを待っていた。
白粥を食べ終えると、そのまま布団に顔を埋め、泣き続ける。
泣いている澄香を見て、一瞬言葉を探すように、
「……そうやって、泣けばいい」
その声は、ぶっきらぼうで、不器用で、けれど、どこまでも温かかった。
澄香は答えず、布団をぎゅっと握りしめる。
嗚咽がこみ上げ、声にならない声が漏れる。
時計の針の音と、彼女の泣き声だけが部屋に響く。
しばらくして、澤井がふと呟く。
「そういや、名前を聞いてなかったな」
その一言に、澄香は一瞬だけ目を見開いた。
(名前を……)
胸の奥で、ずっと抑えてきた孤独が少しずつ顔を出す。
口を開きかけては、すぐに閉じる。
長い沈黙。
澤井は眉をひそめるが、それ以上は追求しなかった。
「まあ、今はいい」
そう言い残し立ち上がると、部屋を後にしようとする。
背を向け、戸口に手をかけた瞬間。
「……山城、澄香です…」
小さな声が背中に届いた。
澤井は足を止め、振り返らずに少しだけ肩を落とす。
それから、わずかに口角を上げて低い声で返す。
「……いい名前だな」
その一言に、澄香は胸の奥がどんと熱くなった。
戸口に立つ澤井へ、今度は彼女の方から問いかける。
「……先生は?」
澤井はしばし黙り、振り返って視線を合わせる。
「…澤井だ。澤井譲治」
そう答えると、照れを隠すように咳払いし、部屋を
後にした。
澄香にとってその問いかけは、か弱くも、確かに自分を取り戻すための一歩となった。
診療所の裏口に出ると、冷たい風が頬を撫でた。
澤井はポケットから煙草の箱を取り出す。
火を点け、深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
煙に想いを流し込むように、次の一口を吸い込む。
胸の奥で妙なざわめきが消えない。
(……情に流されるなよ、俺)
これまで、幾度となく患者や人との距離感で痛い思いをしてきた。
深入りすれば、誰かが傷つくこともある。
だから必要以上に関わらないと決めていた。
まだ事情も知らない。死に場所を求めていた。
放っておけばいい。情に流されるのは、自分が一番
嫌ってきたことだ。
だが──
布団の上で震える肩。
白粥を食べ終え、小さな声で名前を告げたときの瞳。
どれもが、胸を締めつけてくる。
思えば最初に見つけたときも、命の灯が消えかけていた。
それでも必死に助けた。
あのときの自分の行動は、医者だから、なんて言い訳じゃない。
ただ、見過ごせなかった。
澤井は額を押さえ、ため息を吐いた。
(………危うい女だ……)
胸の奥をざわつかせるこの衝動を、煙で誤魔化す。
だが誤魔化せば誤魔化すほど、心は静まらない。
煙草を吸い終えると、火を揉み消し、診療所へ戻る。
部屋の扉を開けると、澄香は上体を起こしていた。
痩せた頬、弱々しい目。それでも彼女はまっすぐこちらを見た。彼女はふと鼻をひくつかせ、ぼそりと呟く。
「…煙草ですか?」
声は掠れているが、不思議と柔らかい。
一瞬、澤井の表情が固まる。だが、言い訳はしなかった。
「……ああ。外でな、悪い」
澄香は少し黙った後
「…不思議と、落ち着くような気がします」
と小さく首を振りながら返した。
澤井の胸が、言葉にならない衝撃で揺れる。
誰からも嫌がられる癖だと思っていた匂いを「落ち着く」と言った澄香。
「変わった奴だな」
それだけ言うと、手元の器具に視線を落とした。
背中越しに感じる彼女の微かな安堵。
澤井は、煙草の匂いがまだ残る指先を強く握りしめた。
昼下がり。診療所の喧騒が一段落し、待合室のざわめきも消えたころ。
澤井はカルテを机に置き、澄香のいる部屋に向かう。
「……少し歩けそうか?」
椅子に腰掛けていた澄香が、驚いたように顔を上げる。
「……でも、まだ足が……」
「無理はしなくていい。様子を見たいだけだ」
短く言いながら、差し伸べられた手。
ためらいながらも澄香はその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
一歩、二歩……
澄香の足取りは思ったよりもおぼつかないが、確実に足を踏みしめる。
負けじと次へ進もうとした瞬間、ふらりと身体が傾いた。
「あっ……」
その瞬間、背後からすっと手が差し伸べられる。
無言で、澄香の肘あたりに軽く触れるだけ。
強すぎず、しかし確かに支えきる力が伝わった。
「……しっかり掴まれ」
低く呟く声。どこか柔らかさがにじんでいる。
小さく息を整えながら、支えられたまま顔を上げた。
目の前には、自分をしっかりと見つめる澤井の瞳。
無骨で冷たそうなのに、奥にある温度が確かに伝わってくる。
「……すみません…」
「謝ることはねえ」
ぶっきらぼうに言って、そっと彼女をベッドに戻すと、デスクに座りカルテを書く。
だが澄香の耳には、その声の奥に潜んだ微かな“安堵”が確かに響いていた。
支えられた手は、思っていた以上に温かくて、確かで。
「守られている」という感覚が、身体の芯にずしりと響いていた。
(……どうして私にここまで…)
彼はぶっきらぼうで、余計な言葉は言わない。
けれど、倒れそうになった自分を迷いなく支えてくれる。
その腕の強さに、冷たさよりも安心感のほうが勝ってしまう。
(私は死ぬつもりでここに来たのに……どうしてこんなふうに、胸が苦しくなるんだろう…)
瞳をそらそうとしても、目の前にある横顔から視線を外せない。
不器用で、疲れているようにも見えるのに、
その目は真剣で、必死に自分を支えようとしている。
胸が、痛い。
けれどそれは、もう“死にたい”と思ったあの夜の痛みとは違う。
小さな希望が、心の奥でじんわりと膨らんでいるような痛みだった。
(……この人のそばなら……もう少し、生きてみたい…けど……)
守られることの嬉しさと、申し訳なさがごちゃ混ぜになり、言葉にならない。
やがて、小さな声で絞り出す。
「……私がいて、余計に疲れませんか?」
そう言った瞬間、空気がピンと張りつめる。
澤井は眉をひそめ、しばらく言葉を探していた。
そして、溜め息混じりに返す。
「疲れるかどうかは俺が決めることだ。お前が決めるな」
その声は怒鳴り声ではなく、柔らかくて、奥に苛立ちと心配が同居しているような音だった。
澄香は驚いて顔を上げる。
澤井は不器用な笑みを浮かべながら、ほんの少し目線をそらして続けた。
「嫌なら最初から助けてねぇよ。それくらい分かれ」
その言葉で、胸の奥の“自分は迷惑な存在”という感覚が、少しだけ薄くなる。
「……その辺にして、飯でも食うか?」
唐突な提案に、澄香は一瞬きょとんとする。
でも、その声に“お前をここに置いていいんだ”という肯定が含まれている気がして、胸がじんわり温かくなった。
澄香は小さく微笑んで、頷いた。
「…はい」
澤井はしばらく黙って澄香を見つめたあと、ぼそりと口を開いた。
「近くに行きつけの食堂がある。ついてきてくれるか?」
澄香は目を瞬かせた。
外に出るなんて想像もしていなかったからだ。
心臓が跳ねる。
「……外?」
足取りもまだおぼつかない。また迷惑をかけるんじゃないか、と不安がよぎる。
「歩ける分だけでいい。無理そうなら戻る」
その言葉に、安心が胸に落ちてきた。
澄香はそっと頷き、小さく微笑んだ。
「……お願いします」
澤井はわずかに口角を上げると、玄関に向かい上着を羽織った。
その背中は大きくて、頼もしかった。




