第十一章 真義
季節は進み、初夏の風が港から潮の香りを運ぶ。
診療所の前には朝顔の鉢が並び、陽射しの中で
淡い影を落としていた。
澄香の一日はあれから変わらず、家事、診療所と
食堂の手伝いを掛け持っている。
ごくありふれた日常。
だが、その日常がまたも少しずつ綻び始めていた。
澄香は朝早くから掃除と洗濯を済ませ、診療の準備まで整えていた。
いつもの日課だが最近は動くたび、少し息が上がる。
(…最近暑くなってきたからかな)
袖で額の汗をぬぐいながら呟く。
寝ても疲れが抜けず、目覚ましより早く目が覚める
ことも続いていた。
やりがいがある反面、しっかり食事を摂る時間すら
惜しく感じるほど忙しい日々だ。
(……もう少しだけ、このくらい大丈夫…)
そう心の中で言い聞かせる。
だが、その“少しだけ”が積み重なっていくことを
彼女自身まだ気づいていなかった。
午後の診療時間。
診察室のドアが開き、澤井が顔を出す。
「次、入れてくれ」
「あっ、はい」
立ち上がった瞬間、視界がふっと揺れる。
手元の書類が滑り落ち、床に散らばった。
「……どうした?…」
澤井がすぐに駆け寄る。
「いえ、大丈夫です。ちょっと手が滑って」
笑ってごまかすが、その笑顔はどこか引きつっていた。
澤井は拾い上げた書類を見つめたまま、何も言わずに
彼女を見た。
(また、“大丈夫”か…)
胸の奥に、あの日の焦燥がかすかに蘇る。
だが、声を掛けられなかった。
彼女が今、ようやく見つけた“生きる形”を自分の言葉で止めたくない。
それでも、どこか小さな不安がこびりついて離れなかった。
澄香は再び席に戻り、深呼吸をした。
(……頭も痛い…けど、少し薬飲めば……)
窓の外では、雲がゆっくりと陽を遮る。
ついさっきまで暖かかった部屋の中に僅かな冷たい影が落ちた。
それは、静かな春の終わりを告げた前触れの
ように──。
その日は朝から患者が途切れず、澤井も休む間もなかった。昼を過ぎても診察室の扉はひっきりなしに開き、終わったのは夜のはじめ頃だった。
「ようやく終わりか…」
澤井がカルテを閉じた頃、澄香が待合から顔を出す。
「お疲れさまです。買い忘れたものがあって少し
出かけてきますね。すぐ戻ります」
「ああ、暗いから気をつけろ」
短いやり取りのあと、澄香は買い物袋を手に診療所を出た。
(これくらいなら…先生も疲れてそうだし)
港の通り沿いにある小さな薬局。
中へ入ると、棚には整然と薬の箱が並んでいる。
澄香は迷うように足を止め、ひとつひとつラベルを読む。
(とりあえず頭痛薬と、あと…疲労回復……
これも買っておこう)
かごの中に薬を入れ、もたつきなく会計を済ませる。
外へ出ると、港の灯りがぽつりぽつりと灯る。
澄香は薬袋を見つめながら、そっと息を吐いた。
二階のキッチンに戻ると湯を沸かしながら袋を開けた。
(とりあえず頭痛薬飲んでおこう)
白い錠剤が二つ、手のひらに転がる。
ふと、ラベルに視線を落とした。
「あ、一回一錠だった…でも出しちゃったし、ちゃんと効いてほしいし…」
(一錠くらい…)
コップの水面が彼女の手の震えで小さく波打つ。
それでも飲もうとした、その一瞬。
「何してる」
低い声が背後から響いた。
澄香の手が止まる。
振り返ると、扉のところに澤井が立っていた。
「ちょっと、頭痛くて…薬を…」
「お前がこういうことを黙っているのは百も承知だ。
分かってる。問題は薬のことだ」
声が低い。
だが、その奥には明確な怒りがある。
「一錠くらい…ちゃんと効いてほしいし…」
「勝手なことするな!」
怒鳴り声が壁に響き、澄香は目を見開いた。
「お前、どれだけ危ないことしようとしてるか
分かってるか?」
「……大袈裟です!ただ少しでも……早く治したかっただけで……」
「そんな理由で薬を増やすな!俺の前で!」
澄香は何も言えず、肩を震わせた。
手の中に残る白い錠剤が妙にに重く感じた。
澤井の顔は険しい。
しかしその目には、怒りとは別の色が滲んでいた。
「……死ぬ気か」
その言葉に、澄香の瞳が大きく揺れた。
「……そんなつもりじゃ……」
「そうやって“少しくらい平気”で壊れてく人間を、俺は何度も見てきた。………死んだ人間もな」
声が掠れていた。怒鳴りながらもどこか苦しげで。
澤井の手が無意識に彼女の手から薬袋を取り上げた。
澄香は怯え、沈黙が落ちる。
澤井は薬を握りしめたまま背を向け、息を荒くしている。
ただ、外から波の音だけがかすかに届く。
その音が澤井の胸の奥の痛みをゆっくりと抉ってく。
(……また、同じことを繰り返すところだった)
少し経ち、怯える澄香を見て、澤井は我に返った。
「……悪かった。怒鳴るつもりじゃ…」
その言葉に澄香は涙を拭いながら、はっと顔を上げた。
「……いえ、私こそ、すみません…」
澤井は深く息を吸い込み、掠れた声で言った。
「……昔、似たようなことがあったんだ…」
澄香は息を呑み、澤井の話に耳を傾けた。
「大学病院にいた頃だ。当時俺は研修医の指導もしていた。その日は当直で、立て続けに患者が急変した。
他の部署から応援を呼んで、俺は若い当直医に指示を
出した。薬の量まで。」
声は淡々としているのに、その奥には明らかに
熱があった。
「だが、そいつは指示を無視して、薬を量を自分の判断で増やして患者に投与した。指示した量では足りないと思ったらしい。そして……患者は死んだ」
澄香の目が揺らいだ。
(……そんな…)
「カルテの記録には俺のIDで処方履歴が残ってた。
後からわかったが、投与した薬が致死量を超してる
ことに気づいたそいつが、責任を逃れようと俺の端末
から入力したらしい」
その時の澤井は、何度画面を見返しても状況が飲み込めなかった。
指示も投薬も記録も──
あらゆる責任が自分ひとりに向けられているようで、
画面の文字が酷く冷たく感じられた。
「…病院では、薬を使ったら記録のために空のアンプルを残しておくから、ごまかせないとでも
思ったんだろう」
澤井は、膝の上で指を組んだまま、ゆっくり続けた。
「虚偽の記録が残ったから当然、俺が責任を問われた。何回も聴取されたし、報告書も何枚も書かされた。結局、内部調査でそいつが不正にIDを使っていた
ことが分かって、俺への疑いは晴れた」
澤井は視線を落とした。
指の関節が白くなるほど拳を握っている。
「だが、患者は戻らない。
……まだお前くらいの、若い女の人だった」
「それからだ。誰も信用できなくなった。俺がこんなんだからって自分を責めた。
だから一人でやっていこうと決めて、大学病院を
辞めてここへきた。自分を押し殺してでも」
澄香はただ、息を殺して聞いていた。
同じ“命を救えなかった者”として、その痛みが痛いほど伝わってきた。
「……先生…」
「だから、お前が薬を多く飲もうとした時、その記憶が一気に蘇った。ほんの誤差で、人は簡単に死ぬ。
“また誰かが死ぬ”って。あの時の、心電図モニターの
アラーム音がまだ耳に残ってる」
言い終えたあと澤井は小さく笑った。
だがその笑みは、痛みを押し隠すためのものだった。
「本当に悪かった。あの頃は守るべきものが分からずに突っ走ってた。今は、何をしてもやり過ぎだの、配慮が足りないだの、うるさい時代にな。俺は何にも変わってない」
澤井の言葉が途切れると、部屋の中は静寂に包まれた。
秒針の音だけが、現実へ引き戻すように響いている。
澄香は息を詰めたまま動けなかった。
何かを返したいのに、喉が震えて、声にならない。
ただ、彼がどれほどの年月、その記憶に縛られて
きたのか──
その重さだけが、胸にずっしりと響いていた。




