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第十章 真価

夕暮れの港を後にして澤井はゆっくりと診療所へ戻った。

玄関の灯りが茜色から夜の色へと変わり始めている。

靴を脱ぐと、微かに味噌と出汁の匂いが漂ってきた。


キッチンで澄香は湯気の立つ鍋をかき混ぜていた。

澤井の気配に気づくと、振り返りかけて少しだけ肩を

竦める。


「………お帰りなさい…」

「……ああ…」


背中越しに短い言葉を交わす。

澤井は上着を脱ぎながらしばし言葉を探すように沈黙する。

火の音と鍋の泡立つ音だけが静かに流れていた。


「……あの、先生…」

「昨日は悪かった」

澄香が言いかけたのを遮るように、澤井の口が開いた。

澄香は驚き、息を呑む。


「お前を責めたかったわけじゃない。ただ、怖かった…」


「…怖い?」

「自分に責任を感じて、また壊れやしないかって。

だが、違った。俺がお前を信じなきゃいけなかった。

あの時とは違うのに…」


その目に一瞬、深い影が宿る。

澄香に初めて出会った日のことか、医師としての経験からか、それとも──過去の何かか。

澄香は何も言えずただ彼の横顔を見つめた。


澤井は苦笑いするように頭を掻いた。

「……聞いた。弁護士だったんだな」

澄香は小さく肩を震わせた。

「すみません、ずっと隠すつもりじゃ…」

「いや、いいんだ。お前らしい」


澤井のその言葉に澄香は息を呑んだ。

いつもの、その自分からは無闇に詮索しない優しさが、今日はやけに胸の奥を熱くする。

それと同時にずっと隠してきた“痛み”が顔を出す。


澄香はゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「……今ここで、ちゃんと話します」

その声は震えていたが、芯が通っている。

澤井は少し驚きつつも椅子に腰を下ろし、澄香の話に

耳を傾けた。


「……ある日、一人の女性から依頼を受けました。

離婚の相談で、夫から心理的なDVをされていると」


依頼人の言葉を聞くうちに、相談内容そのものよりも

語られる"孤独"の方が胸が刺さった。

その孤独はあの日自分が味わったものとよく似ていたからだ。


「最初は自分が我慢すればいいと思ってた。

けど、子供が大きくなってきて、それを見たら育ちに

悪いって思うようになった。だからここで闘いたい

って、その方は言っていました」


澄香は一度、深く息を吸った。

「どこか私に似ている気がして…その方の力になりたいと思いました。証拠を集めて、訴訟にこぎつけるまで何ヶ月も準備しました」


指先が震える。

膝の上で無意識に握り締める手。

「だけど、結果は思うようにいきませんでした。

そして一週間くらい経って、その方は自殺しました」


その知らせを受けた瞬間、澄香の中でこれまで積み上げてきた何かが崩れ落ちていった。

あの日まで必死に支えていた声も、手を伸ばしてくれた想いも、すべて自分の指の間から零れ落ちていったようだった。


「救ってあげられなかった……救ってあげなきゃいけなかったのに、あの人は何も悪くなかったのに……」

唇を噛み、涙がひとつ頬を伝う。


「私のせいでって……何度も責めた。

私がもっとちゃんとしていれば……

けど、他にも思うこともたくさんありました。

私個人の感情で動いてしまったかもしれない。

依頼者の気持ちは後回しにしていたんじゃないかって……似たような経験があることを言い訳にして……」


澤井は何も言わなかった。

ただその場に座り、彼女の声を最後まで聞いた。


「……それで、終わらせようと思いました。

私には、弁護士を続ける資格も、生きる資格もない……こんな私が……生きてていいはずない……」


口元を押さえるが、嗚咽と震えは止まらなかった。

「──これが、あの日雪の上にいた理由です…」


澤井はゆっくりと息を吐いた。

その目には、同情ではなく、深い理解があった。


「……救えなかった命を背負って生きるのは苦しい。でもな、誰かを助けようとした時点でお前はもう、誰かの希望になったんだ」


澄香は顔を上げる。

「……希望?」


「ああ。お前がその人に手を伸ばした時点で、

その人は自分を信じて、一緒に立ち向かおうとしてくれる人がいるって信頼したはずだ」


澤井は続ける。

「お前は何も悪くない。裁判も判決も、お前一人で

背負うものじゃない。自分を追い詰めるのはよくないが、それだけ真剣に向き合った何よりの証拠だ」


「……医者も同じ、救えない命なんていくらでもある。だが、向き合うことをやめたらそれで終わりだ。

お前はそれでも向き合ってた。それが全てだ」


沈黙の中で、澄香の涙が静かに溢れた。

その涙は苦しみではなく、ようやく“許せた”涙だった。


「……先生、ありがとうございます。

いつも、私を救ってくれて」

その一言に、澤井の胸が静かに揺れた。


「……違う…」

そう呟きながら、視線を落とす。

次の瞬間、言葉が零れた。


「……俺も、お前に救われた。

ここにいてくれて、感謝してる」

それは、これまでの言葉の中で、一番柔らかかった。


澄香は涙をこぼしながら、小さく言う。

「……そんな、私は先生のこと救ったなんて…」

「いいや、助けられてる。まあ……

走り過ぎたら止めるからな」

「…はい」


澤井は続けて何かを言いかけて、飲み込む。

その代わりにぶっきらぼうに返した。

それは、まだ彼女に明かしていない自分の過去か、

照れ隠しの向こう側にあるものかはわからない。


外では春の夜風が木々を揺らし、ようやく二人の間にも柔らかな風が吹き始めた。



それから数週間が過ぎた。

診療所はすっかり穏やかな日常が戻っている。

港は穏やかで、カモメの鳴き声が風に混じって響く。


澄香はいつものように家事と診療所の手伝いをして

昼時は食堂の手伝いまで掛け持つ。


午前中の診察が終わり、ひと段落した頃。

「先生、コーヒー淹れました」

「おう、そこに頼む」

テーブルに湯気の立つマグを置くと、澄香は小さく頭を下げて診察室を出ようとした。

だが、その背に澤井の声が飛ぶ。


「顔色悪くないか?」

「え?」

「やっぱり無理してるんじゃないか?」

「日焼け止めでちょっと白く見えるだけです。

最近、日差しが強くなってきたので」

「……そうか」


澤井は短く返すだけだが、澄香はなぜか胸の奥が

少しだけ熱くなる。

(心配してくれるんですね)


「先生こそ、煙草はよくないですよ」

「医者に健康指導か。いい度胸だ」

「誰でも知ってますよ。よくないって」


二人の間にごく小さな笑いが生まれる。

それは以前よりずっと柔らかく、心地よい音だ。


午前の片付けを終えると澄香はそのまま食堂へ向かう。

足取りは少し重かったが、食堂の暖簾を見ると自然と

笑顔になった。

誰かからの感謝が、一番の薬であったから。


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