第一章 孤独
港町・白鷺町に、昼下がりの鈍い汽笛が響く。
雪は小さく舞っているが、視界を遮るほどではない。
その無人駅のホームに、ひとりの女性が降り立った。
山城澄香、三十二歳。
リュックひとつを背負い、中にはスマホと財布だけ。
薄手のニットにデニムという軽装は、都内の冬でも
心もとない。
ましてや、雪国へ来るにはあまりに無防備だった。
長く伸びた髪は雪で濡れ始め、服の隙間から冷気が
容赦なく入り込む。
彼女がこの雪国の駅に降り立った理由はひとつ──
ただ、知らない場所で、知り合いのいない場所で、
終わりたかっただけ。
駅を出ると、どこへ向かうでもなく、ただひたすら歩いて行く。
やがて港に行き着いた。
港の向こうに、古びた漁船が数隻停泊している。
波は静かだが、風の音だけがどこか哀しく響く。
澄香はベンチに腰掛け、何も口にせず、ただ海を見ていた。
──幼い頃、母親の手が振り下ろされた痛み。
──法廷で敗訴の言葉を聞いた静寂。
──依頼人の遺書に滲んだ涙。
──黒い喪服と、白い花の香り。
意識が途切れそうになると過去の記憶がじわじわと
湧き上がってくる。
その全てが、冷たいものばかりだった。
港を離れると、またひたすらに歩く。
目的地などない。ただ、雪が積もる道を、足が止まるまで。
次第に風が強くなり、雪も激しさを増していく。
身体の芯が冷え、視界がぼやけ始めた。
(このまま、雪に埋れれば…楽になれるかもしれない…)
そんな考えが、ふと脳裏をよぎった直後だった。
ふらりと、澄香の身体が横に傾き、雪の中へ崩れ
落ちた。
「おい……っ!」
鋭い声と、雪を踏みしめる足音が近づいてくる。
診療所の前の裏道を歩いていた澤井譲治は、吹雪の
中に倒れている人影に気づいた。
日中でも気温は氷点下を下回り、声を上げても風に
掻き消されるほどの寒さだ。
澤井はこの町で一人きりの診療所を営む医師である。
十年ほど前までは都内の大学病院に勤めていたが、
ある出来事を機にこの地へ移り住んだ。
──それは、三十八の時であった。
しゃがみ込み、雪に埋もれかけた女性の顔を覗き込む。
「……おい、聞こえるか? しっかりしろ!」
反応はない。
頬に手をあてた瞬間、その冷たさに眉をひそめた。
「……こんな格好で、何考えてんだ…」
澤井は自分が着ているダウンジャケットを澄香に
掛け、躊躇なくその身体を抱き上げると足早に
診療所の裏口へと駆け込んでいく。
医師としての本能が先に動いた。理由など要らない。
助けられる命なら、助ける。それだけだ。
雪の中、女を抱えて走る男の背を、町の灯が淡く照らしていた。
診療所の扉を乱暴に開け放ち、澤井は雪に濡れた澄香を抱え込んだまま中へ駆け込む。
暖房の効いた空気が流れ込むと同時に、彼はすぐに処置用ベッドへと横たえる。
「分かるか?しっかりしろ!」
その表情は、死んだように無表情だった。
静まり返った診療所の処置室。
雪で濡れた衣服が、澄香の身体に張りついている。
指先は紫色に変わり、唇は青白い。
タオルで乱暴に見えるほどの勢いで水分を拭き取り、毛布を被せた。
体温が下がりすぎている。
手足は氷のように冷えきっていた。
澤井は眉をひそめ、棚から体温計と血圧計を引っ張り出す。
「……34.0℃…」
体温、サチュレーション、血圧を確認する手は慣れていて、冷静だ。
室温を上げ、電気毛布を敷いたベッドの上に移した。
厚手のバスタオルを用意し、濡れた服を脱がす準備に入る。
「悪い……許せ」
澤井はそう小さくつぶやくと、
躊躇なく澄香の濡れた服を脱がせた。
彼女の身体は、思っていた以上に痩せ細っていた。
肋骨の浮いた腹部。
それだけではない。下着の隙間からいくつかの古びた傷が見えると澤井の目が止まる。静かに、ただ、眉を寄せる。
(….…詮索するつもりはないが、止める奴はいなかったのか…)
点滴スタンドを引き寄せる。
輸液をセットし、駆血帯を巻き、静脈を探す。
だが血管が細く、脱水でさらに浮きにくくなっている。
「くそ……」
思わず声が漏れる。
それでも澤井は、無言で冷静に処置を続けた。
ようやく血管をとらえると、点滴が規則的に落ち始める。
「……なにやってんだ、お前」
澤井は、思わずそう口にした。
誰に向けた言葉かわからない。
澄香か、過去の自分か、それとも救えなかった患者か。
澄香はまだ目を開けない。
だけど、眉がほんのわずかに動いた気がした。
まるで、誰かの声を遠くで聞いたように。
澤井は電気毛布の温度を少し上げると、顔に張りついた濡れた髪を払いのけ、タオルで彼女の額をそっと拭いた。
白い頬はまだ血の気が薄いが、額に手を当てると
わずかに熱が戻ったことが分かる。慣れた手つきで
澤井は聴診器を取り出した。
肺の音、心音、腸蠕動の反応も確認し、呼吸循環が回復傾向にあることを確認する。
微かな生気の兆しに、無言でうなずく。
「……落ち着いたか…」
「助けられるなら、助ける」
その一言は、誰にも聞かせるつもりのない、
自分への誓いのようだった。
澤井はデスクに座り直し、カルテを広げる。万年筆を手に、独り言を言いながら淡々と書き始める。
「患者:不明。年齢:推定30前後
搬入時:意識レベル低下。体温34℃。低栄養。
既往歴、家族歴不明。腹部に瘢痕痕あり──」
ペンが止まる。
「名前も、素性も、分からない。これ以上書けねえ。ただ、死にかけていた…」
再びペンを動かし、
「処置: 保温、輸液。経過観察。」
癖がなく、几帳面な字。
だが、一行一行書くたびペン先がわずかに止まる。
まるで言葉を選んでいるように。
(俺は医師だ。助けるのが仕事だ。それ以上でも、以下でもない……はずだ…)
夜も更け、診療所の外は雪の静寂に包まれていた。
澄香はまぶたの裏に微かな光を感じた。
長く、深い眠りの底から浮かび上がってくるような
感覚。
その時、瞼がかすかに震え、ゆっくりと開く。
(……ここは…)
ぼやけた視線の先に、澤井の姿が映った。
椅子に腰掛け、こちらを見下ろす鋭い眼差し。
彼の腕は組まれたままだったが、その目は確かに
「安心している」色を帯びていた。
「……起きたか」
そのぶっきらぼうな声に、澄香は唇を震わせ、やっとの思いで声を絞り出した。
「……どうして……助けたんですか」
感謝ではない。
その問いに、澤井はしばらく答えなかった。
ただ、椅子から立ち上がり、窓際の方へ歩いていく。
背を向けたまま、低い声が落ちてきた。
「……仕事だからだ。目の前で死なれたら、寝覚めが悪い」
それだけを言い、また椅子に戻る。
彼の顔には何の感情も浮かんでいないようで、けれどその瞳には、確かに揺れがあった。
澄香は毛布を胸に引き寄せ、息を詰める。
その手が震えているのを、澤井は見ないふりをした。
「低体温、低栄養に脱水。あのまま放っておいたら
死んでたぞ。飯も水もまともに摂ってなかったよう
だな」
怒鳴らない。優しくもない。ただ事実を並べるように淡々と話す。
感情を押し殺しているようで、どこか言葉の端に
苛立ちが混ざる。
それが余計に、澄香の胸を締めつけた。
澤井は点滴の滴下を確認すると、ぶっきらぼうに
「……大人しく寝てろ」
そう言って部屋を後にした。
扉が閉まった瞬間、部屋は静けさに包まれた。
澄香は枕に沈んでいた視線を、ゆっくり点滴管へ
移す。
(ここにいても迷惑になるだけ……)
澄香は点滴の針を抜き、テープを外した。
点滴を抜いた腕からは血が滲む。
震える腕で、それを押さえつけながら立ちあがろうとした。
「……うっ…」
足に力が入らず、倒れ込むようにその場に膝を
ついた。
衝撃で点滴スタンドが倒れ、大きな音を立てる。
──その時
「おい!何してる!」
低く鋭い声が響く。
物音に気づいた澤井が勢いよく扉を開き、駆け寄る。
崩れ落ちそうな澄香を両腕で支え起こした。
「……放っておいてください!私のことなんか……」
弱々しく吐き捨てるように言う。
澤井は一瞬目を伏せたが、
「──放っておけるわけないだろ!」
そう言いながら澄香の肩を押さえ真っ直ぐに目を見る。
その声は怒鳴り声に近かったが、震えていた。
「事情は俺から詮索するつもりもない。たが、医者として目の前で命を捨てようとしてる奴を放っておけるわけがない。」
まるで自分自身に言い聞かせるような声音だった。
助けたいのか、止めたいのか、救われたいのか。
その全部が滲んでいた。
「治療させてくれ。身体も、心も。事情はお前が話したい時に話せばいい。それでも死にたいなら、その時は何も言わない」
吹雪の中、ただ一つの温もりだけが彼の声に宿っていた。
「──だから頼む、今は、生きてくれ」
肩を掴まれる感触で、体温が伝わる。
澄香はその言葉に、目を伏せる。
(どうして、こんな必死に…見ず知らずの私に…)
自分の胸の奥が、僅かに温かくなるのを感じていた。
(……この言葉が、この声が、心の中に残って、
消えない……)
澄香は何も言い返せず、そのまま崩れ落ちるように
澤井の胸に額を預けた。
(お願い……もう少しだけ、この腕に縋らせて……)
そして澤井は何も言わず、彼女の気の済むまで
支え続けた。




