同じ夢を見た友人 —風の止まぬ教室で—
秋の夜、またあの夢を見た。
黒板の前に立つ彼の背中を、僕はもう何度見ただろう。
夢の中でだけ、僕たちは生き生きと教壇に立っている。
僕は公立高校で国語を教えている。
言葉を通して人を導ける仕事だと信じていた。
けれど、いつしか理想は薄れ、
授業の準備、会議、事務書類の数々。
生徒のための時間が書類に吸い取られていく。
「先生、わたし、間違っているのかな」
あの声が今も胸の奥で響いている。
優しさは誰かを救うはずだった。
でも、報われない優しさの方が、この世界には多いのかもしれない。
その夜、パソコンの明かりの中で、僕は眠りに落ちた。
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コツコツ、コツコツコツ、カチャ──。
音が止まった後、懐かしい声がした。
「ゼラニウムってのは、温度さえあれば年中咲くんだ。」
顔を上げると、教室。
白いチョークを片手に立つ男の背中。
十年前と同じ声。
「遅かったな。職員会議か?」
「いつも通りだよ。」
「俺は花の世話。気づいたら夕方だった。」
机の上には、小さな鉢植え。
真っ赤な花が一輪、揺れている。
「花言葉、知ってるか?」
「聖母、とかだったかな。」
「それは“マリアのゼラニウム”な、
“真実の友”。それから、“君ありて幸福”。」
彼は笑った。
大学の帰り道で見た夕焼けの中の笑顔と、何も変わらなかった。
「言葉も花も同じだよ。根っこを見なきゃ枯れる。」
光が滲み、彼の輪郭がかすむ。
夢はそこで途切れた。
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目覚めた朝、どんよりとした灰色の空。
職員室では、生徒の名前より「処理」「報告」が先に並ぶ。
誰も誰かを見ていない。
ふと、あの赤い花の色が脳裏をよぎる。
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また夢を見た。
今度は温室。
彼は軍手を外し、額の汗をぬぐっていた。
「また来たな。今度は手伝えよ。」
「……いつ約束したっけ。」
「さあ? でも来たなら、手伝うのが筋だろ。」
彼は笑いながら苗に水をやる。
その笑顔の奥に、うっすらと疲れが見えた。
「優しさってさ、ほんとは強いことなんだ。
誰かの痛みを、自分の中に置いておけるんだから。」
「……でも、報われないよ。
そんなの、結局踏みにじられるだけだ。」
「ああ、そうだな。
でもな、たぶん、そういう人がいないと、この世界は風を失う。
風が止まれば、花も土も呼吸をやめる。
優しい誰かが、見えないところで世界を回してるんだ。」
彼は土に触れ、軽く笑った。
「お前が優しくあった分だけ、誰かが今日を生き延びてる。
誰かがまた笑ってる。
それでいい。
咲く理由なんて、それ以上いらないだろ。」
外で小さな風が起こり、温室の扉がきしんだ。
その風が彼の髪を揺らし、世界のどこかが息をしたように思えた。
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数日後、訃報が届いた。
地方の農業高校で、彼は倒れたという。
机の下で拳を握る。
誰もその名を知らない。
夢の中の笑顔が焼きついて離れなかった。
その夜、もう一度だけ夢を願って眠った。
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教室。
黒板には「ゼラニウム」と書かれている。
背を向けた彼がチョークを動かしていた。
「夢の中でも、君が生きているように感じる。」
「……それってどういう意味?」
「花が散っても、香りは残るだろ。」
彼は笑い、光の中に溶けていった。
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朝。
教室の窓辺に、見覚えのある鉢植えが置かれていた。
真っ赤なゼラニウムが一輪、凛と咲いている。
「先生、それ花言葉なんですか?」と生徒。
「……“真実の友”だよ。」
黒板にチョークを走らせる。
“言葉は、根を残す。”
書いた自分の文字を見て、微笑んだ。
外では、風がカーテンを揺らしていた。