ジョッショの友達ナナ4-3
ジョッショの友達ナナ4-3
私の病状が悪化したのは、東京から徳島に帰って一か月ほど経過した頃である。
内心覚悟はしていたが、病状は坂道を石が転げ落ちるように悪化していった。
「決して狼狽した姿を他人の前で見せない。」その思いは、病状が悪化する前から何度となく自分に言い聞かせてきた決意だった。理由などない。そうしたかったのである。死ぬ時ぐらい自分に正直に生きればいいではないか、と言われそうだが、どんなに病状が悪化しても、自分の存在が完全にこの世からなくなるという事実を、正直に受け入れることは難しいものである。だから、不思議なことではあるが、病気の最中の自分の身の処し方を見ている近しい人たちの目線を、意識せざる得ないのかもしれない。要するに、どこかで往生しきれない自分がこの世に執着しているのである。
「正治にあなたのこと連絡したけど・・。それでよかったでしょ?」
妻の幸恵が私の気持ちを探るように、私の顔をうかがいながらそう言った。
「ありがとう。」
私は素直に礼を言う。
考えてみれば、彼女がいなかったなら、自分がやってきたわがままな行動など成立するはずもなかった。東京に一時住むことになったときも、彼女の助けがなかったら何もできなかっただろう。
「いやに素直ね。」
私の笑顔を見ながら、妻がほっとしたような表情でそう言った。彼女は、正治に連絡したことを、私が不服を言うかもしれないと思っていたのである。
「こうなった以上は、自分の気持ちに正直にならなくちゃな・・。」
私は敢えて「死」という言葉を使わなかった。東京へ行って彼らに会った事で、最後の別れもできたと思っていたが、病室に担ぎ込まれて、毎日窓から見える木立ちの変化を眺めていると、これから長い時間を生き続けて、私が目にすることも経験することもできない新しい未来を受け入れていく青年たちに、もう一度会いたくなってくるのである。
ドアが開く音がしたので、私は頭を上げて音の方向に目をやった。
「おじさん、寝ていた?」
笑顔で私の方へ近づいてきたのはバサムであった。
「実習終わったの?」
私は、毎日のようにやってくるアリーからバサムの様子を聞いていた。
バサムが、答えるように頭を縦に振る。
「昨日、ジョッショからメールでおじさんの病状聞いてきたから、正直に答えたよ。」
バサムがそう言うと、うつ向いてしまった。
「どう答えたの?」
「一度会いに帰ってきたほうがいいって・・。」
「そうか。ありがとな。」
私は内心、バサムの言葉に感謝していた。
「これで、もう一度ジョッショに会えるかもしれない。」そう思ったのである。今の私は、他人への気遣いより自分の願望に正直だったのかもしれない。
「ジョッショのやつ、恋人ができたって言ってたけど。おじさん見たんでしょ、ジョッショの彼女・・。」
バサムは明るい話題に変えようとしたのかもしれない。
「愛生ちゃんっていてね。ジョッショにはもったいないぐらい可愛くて、賢い娘だったよ。」
私はそう言うと、にやりと笑ってバサムの顔を見た。
「そうか。何だか東京へ行ってみたくなったな。正治さんや奈美さんにも会いたいし・・。」
バサムはそう言うと、ベットの向こうに広がる、窓越しの緑の木々をぼんやり眺めている。
「私も会いたい・・。」
私は呟くようにそう言った。驚いたようにバサムが私の顔を見る。
「きっと帰ってきますよ。みんなおじさんのこと心配してんだから・・。」
「だったらいいんだけどね。」
バサムは、私の意外なほどの正直な気持ちの告白に、少しびっくりしていたようだった。
「バサムはシリアの死んだじいちゃんのことは知らないよな。」
私は恐る恐るバサムにずっと聞いてみたかったことを尋ねた。
「知らない。僕が幼かった頃のことだから・・。父さんは、僕を爆風から救ってくれたナナ姉ちゃんのことは話してくれたことがある。僕がこの世にいられるのは、姉ちゃんが命を懸けて僕を救ってくれたからだって・・。」
「そうか・・。(私は涙ぐんでいた)ファッティって言うんだ、バサムのじいちゃんの名前・・。君とナナちゃんのことを心から愛していた。」
「おじさん、じいちゃんのこと知ってんの?」
バサムが、私の心の秘密を覗き込むように、そう聞いてくる。私は深く頷いた。
「私はフランスで住んでいたころ二人の親友がいてね。一人はユーゴスラビア人で、長くドイツやフランスで数学の勉強していたんだ。もう一人が、同じようにフランスで勉強していたファティだった。二人は私と同じ大学に通っていたんだ。」
私は、バサムが聞いていることを忘れたかのように、ぽつぽつと話し始めた。
「その話、初めて聞いた。」
バサムは驚いたように私の顔を見る。
「アリーには内緒の話だ。いいね。」
私は真剣な顔をして、バサムの表情を確かめる。
「だからおじさんは、父さんを援助してきたんだ・・。最初、どうしておじさんが、僕たち家族にそんなに親切なのか、理解できなかった。今では、親戚のような人になったけどね。」
バサムはそう言うと、明るい笑顔を見せている。
私はベットのスポットライトが照らす花瓶の花を見ながら、
「この寝室で夜寝てるとシーンと静まり返るんだ・・。何だか怖くなる時がある。」
とぽつりと言った。
私はナースステイションから一番離れた個室病室に入院していた。
「確かに患者さんにとって、夜の病院は他では味わえない孤独感があるだろうね。」
バサムは私に同情するように言った。
「でも最近、暗闇で目を閉じてじっと耳を澄ませると、誰かの寝息が聞こえてくるんだ。」
私はあくまで真剣だった。
「いやだな、おじさん怪談話でも始めるの?」
私のとなりの病室は空室で名札がなかった。そのことを知っているバサムは、からかうようにそう言って笑い始めた。
「最初は気のせいだと思っていたんだけど。毎晩、私が目を閉じてじっと耳を澄ませると、聞こえてくる・・。不思議なことに、自分がその寝息に恐怖を感じてないことが分かったんだ。そこで、頭の中で寝息の主を尋ねてみた。私が一番会いたい人に話しかけるようにね・・。」
「それが私の祖父のファティなの?」
私は質問に答えるように頷いた。
「もう一人は、親友だったミルコだったり・・。」
私がそう付け加えると、
「それって、薬のせいで引き起こされる幻聴じゃないかな?」
とバサムが答えた。
「今の私には幻覚だろうが現実だろうが、同じことなんだよ。ただ、想像の中で二人に会えたことだけで十分なんだ。」
私は泣きそうな顔でそう言った。
バサムも私の顔を見て、真剣な表情に変わっていく。
「おじさんの頭の中で、僕のじいちゃん・・、何て言ってた?」
バサムも真剣に聞いてきた。
「家族を救ってくれてありがとうって・・。後は、ミルコと私と過ごしたフランスでの思い出話さ。確かに、私の中で二人は生きていた・・。この世では空想と呼ばれる異次元の世界でね。(病室の天井を見ながら)肉体を通して得られる、現実世界とは違った魂の宿る世界ってあるのかもしれないね。」
私は決して永遠の魂など信じる男ではなかったが、肉体の衰えは私の生きる執着心にまで影響を与え始めていたのかもしれない。
私の話に聞き入っていたバサムが、はっとしたように病室に掛けられた時計を見る。
「こんな時間か。明日も実習あるから、僕は帰るね。」
そう言って、バサムが笑顔を見せた。
「ごめん、大事な時間を無駄に過ごさせたね。」
私は自分が切り出した話に少し後悔した。
「うううん。むしろ逆だよ。今まで疑問に思っていた謎が少しわかったような気がする。僕は、じいちゃんを通して、おじさんとこの世で出会うえにし(縁)があったんだね。」
バサムは、その時、私と出会ったパリの難民収容所での出来事を思い出していた。
「えにし(縁)か・・。いい言葉だ。」
私は、バサムが言った言葉に、ファティとの出会いを重ね合わせていた。
「おじさん、改めてありがとうね・・。」
最初、何に対してお礼を言ったのか、私には分からなかったが、バサムの私に訴えるような顔を見て、今までの彼のためにしてきたすべてへの感謝であったことをやっと理解した。
私は軽く手を挙げて、出ていこうとするバサムの後姿を見送った。
(愛生の危機)
愛生が神の国の信者によって、団体の本部へ連れて行かれるという事件が起きた。
「あなたの母親がどうしても会いたいそうなんです。」
そう言って、神の国の信者は愛生の母の写ったスマホを彼女に見せた。
その写真を見た愛生は抵抗する気力もなく、二人の信者に挟まれるように地下鉄の駅に向かった。
彼女が地下鉄の階段を降りようとしたとき、たまたま彼女に会いにホームから外に向かっていたジョッショと出くわした。
「愛生!何処へ行くんだ!」
彼女を見つけたジョッショが、彼女の自由を阻むように歩いている信者を睨みながらそう言った。
「母さんに会ってくる。心配しないで・・。」
愛生は弱弱しい声でジョッショに答えると、不安そうな笑顔を見せた。
「僕も一緒に行く!」
ジョッショはそう言うと、信者たちの反応を見た。
「愛生さんのお母さんは、二人っきりで会いたいそうです。」
若い女の信者が、丁寧な言い回しでジョッショの同行を拒絶した。
「勝手なことを言うな。お前たちのやってることは誘拐じゃないか!」
ジョッショは彼らとの乱闘も覚悟して、きっぱりとした口調でそう言った。
「変なことを言わないでください。我々はあくまで愛生さんの希望を手助けしているだけです。」
もう一人の青年が、あくまで冷静にジョッショの挑発に乗らないように、薄笑いを浮かべながら応対した。
「一つ、教祖からあなた方へ、お言伝がございます。愛生さんの友達の奈美様が本部に来られるなら、大いに歓迎するとのこと・・。奈美様がお望みなら、教祖自ら愛生さんとお母様の問題解決に対応されるそうです。なぜなら、奈美様は我が神の国の選ばれし信者になる資格のある聖者なのです。」
その信者は真剣な顔でそう言うと、それ以上ジョッショに取り合うことなく愛生らとともに駅のホームに向かって歩いて行った。
ジョッショは金縛りにあったように身動きせず、彼らが遠ざかるのを後ろからじっと見守りながら、自分の無力感に自分自身で腹をたてるばかりであった。
その後、ジョッショは何かに急き立てられるように、奈美のいる阿佐ヶ谷のマンションに向かった。夕暮れの夕日がマンションに通じる坂道を照らし出し、ジョッショはその光の道に導かれるように、奈美に助けを求めて一目散に彼女のもとへ駆けて行く。
「奈美さん、どうすればいい。僕にはどうしようもできなかった。」
ジョッショの目に涙があふれている。
「心配いらないよ。私が愛生ちゃんを連れ戻しに行くからね。」
奈美は少しも慌てた様子もなく、ジョッショに笑顔を見せて、慰めるようにそう言った。
「でも、奈美さん一人で行かせられないよ。一緒に・・。」
ジョッショがそう言いかけた時、奈美が右手を突き出してジョッショの言葉を静止した。
「大丈夫、ジョッショはマー君に知らせて。大学の研究室にいると思うから。」
ジョッショは、奈美の力に頼るしかなかった。そして、目の涙を手で拭うと
「魔法・・、使うのかい?」
かき消えてしまうような声で、奈美の方を見ながらそう呟いた。
「魔女だからね・・わたし。」
奈美が笑いながらそう答える。
「お願いします。愛生を助けて!」
ジョッショはそう言うと、奈美の前で手を合わせた。
「バカね、わたし、神様じゃないから・・。それより、マー君に連絡お願いね。」
奈美はそう言うと、テーブルの上に置いてあったキャップをかぶるり、ジョッショを伴って外に出た。
二人は、街灯でぼんやり照らし出された公園を、駅に向かって通り抜けている。
「ジョッショ、愛生ちゃんが帰ってきたら、今まで以上に大切にしなさいよ。」
奈美は、薄暗がりの木立に囲まれた歩道でジョッショにそう呟くと、時間に急き立てられるように、彼を振り切り駅に向かって駆けだした。
(神の国と奈美の戦い)
道場の真ん中に椅子が置かれ、奈美が座っている。Tシャツ、ジーパンのまま部屋を飛び出した奈美は、キャップも取らず前方に座る教祖に関心もなさそうに、時折周囲に目をやった。道場の両壁には四人の信者が正座をして座っている。
「あなたが来られることは、教祖の予言ですでに確定した未来であり、ここにいる教団幹部にとって既成の事実であります。」
教祖の横に座っている神の使いである名城が、部屋中に響き渡るように、普段より甲高い声を張り上げた。
横の壁に座る幹部たちは、ひたすら目を閉じ、両手は親指と人差し指で円を描き、膝の左右に付けている。その有様は教祖を取り巻く従者の仏像のようである。
「ここに集う者は、我が神の国の教義を司る最高幹部であります。我らの中に奈美様が加われば、教祖を支える最強の集団に生まれ変わるでしょう。(両手を合わせて天井を仰ぐ)あなたの主への献身は、教祖の神への祈りにつながり、見返りに永遠の魂があなたに授けられるという喜びとなって報いられることになるはずです!」
名城が、とうとうと奈美に語りかける。
奈美はキャップで表情を隠し、うつ向いたまま身じろぎもせず名城の言葉を聞いている。
その姿に、名城は奈美が自分の説得に聞き入っていると思い込み、思わず笑みを漏らした。
続いて、教祖が名城の言葉を引き継ぐように、
「奈美!お前は神の国の聖者として、この世に生を受けた選ばれし人間だ。お前が我ら聖者の仲間に加わるのは運命の必然なのだ!」
そう言うと、彼は真っ赤な顔になり、
「えいっ!」
大声でそう叫ぶと、胡坐をかいた姿勢のまま体を跳躍させ、一瞬、空中に自分の肉体を浮遊させたのである。
彼の叫びを合図に、目をかっと見開いて、教祖の奇跡を目の当たりにした四人の信者が、
「おおお!」
と叫びながら号泣し始め、教祖の方に向かってひれ伏した。
「奈美よ!わしのしもべとなって、神の国で尽すのじゃ!」
教祖はあらん限りの大声を出して、奈美に命令した。そして、
「えいっ!」
もう一度そう叫ぶと、再び着地した自分の体を空中に向かって跳躍したのである。
奈美が初めて顔を上げて、教祖の跳躍をじっと眺めながら薄笑いを浮かべた。
そして、周りの信者を見るためにぐるっと辺りを見渡した後、名城に視線を向けた。
名城は奈美の怪しい美しさに一瞬ドキッとした。その動揺は、彼女の視線を避けることでやっと逃れられたようである。
「彼女の妖艶な美しさは、神の国の象徴になるに違いない・・。」名城はそう確信した。
次の瞬間、奈美は視線を教祖に向けて凝視した。その鋭いまなざしに耐えかねたように、彼は一瞬たじろいだ。
「あなたの言ったことには一つ間違いがあります。」
奈美はそう言うと、再び薄笑いを浮かべた。
「聞こうではないか!」
教祖は怯んだ自分を隠すように、彼女を威圧するような大声を出して胸を張った。
「私はあなたの「しもべ」ではありません。(再び教祖をきっとにらみ)あなたが私のしもべなのです。人には生まれながらの格というものがあるのです。あなたは私の上に立てるような格ではない。もしあなたが誤解しているとしたなら、それはあなたの高慢からくる間違った考えです。正さねばなりません!」
奈美はそう言うと、両手を開いて、体内のエネルギーで電場を作り、両脇に座って教祖にひれ伏している信者に電磁波を送った。すると、彼らは体の支えを失ったように、その場に伏せて気を失ってしまった。
その状況を見ていた教祖と名城は、口を開けたままただじっと眺めている。
次の瞬間、奈美は手を教祖にかざし眼を閉じた。すると、教祖の体が宙に舞い始めたのである。それは、教祖が跳躍した高さよりはるかに高く、天井に届きそうであった。その様子をただじっと眺めている名城の顎が、今にも外れそうなぐらいあんぐりと開いている。
「おおお!おおおお!」
教祖の絶叫が止まらない。すると、奈美がにやりと笑い。
「今の状況が、人の格というものを象徴しているのです・・。つまり、あなたは私のしもべ以上にはなれない人間なのです!」
横には気絶した四人の信者。前では、痴呆のように宙を舞う教祖を見ている名城。そして、泣き叫ぶ教祖・・。
しばらくして、教祖が道場の天井近くを周回し始めた。その時初めて、奈美の口から言葉が発せられた。
「愛生ちゃんを連れてきなさい!」
その声は、落ち着きはらい、淡々と発せられた。
「名城!愛生を連れてこい!」
断末魔の声が教祖の口から拡散する。
その声を聴いた名城が、やっと我に帰り一目散に部屋を出ていった。
数時間後、愛生と奈美は手をつないで阿佐ヶ谷の駅のホームにいた。
「母さんのことは、しばらく忘れなさい。」
前を向いたまま、奈美が愛生に声をかける。
愛生がその声に頷いた。
「ジョッショからメールがあって、みんながマンションで待ってるみたい。行きましょ。」
奈美はそう言うと、愛生の方を向き笑顔を見せた。
早朝の駅のホームは、ぼやけたもやがたちこめている。
「奈美さん・・。夜中に食べたラーメンおいしかったね。」
愛生はそう言うと、初めて奈美に笑顔を見せた。
彼女には、始発の電車を待つ間に食べたラーメンの味が忘れられないものになったのだ。
(奈美の再挑戦)
敏子(結城の母)は奈美から相談の依頼を受けると、すぐに祐樹が住居にしている新宿のタワーマンションに彼女を招いた。
広間には革張りのソファーの応接セットが中央に置かれ、東側のベランダは広いガラス張りで、朝にはカーテンを開くとまぶしい太陽の光が差し込んできた。その反対側にはカウンターバー設置されて、敏子の招いた客は、大抵この場所でワインやオードブルを楽しみながら会話をするのが普通であった。今日招かれた奈美への応対も例外ではなかった。
広間はあまり利用しない祐樹は、寝室やバストイレのある併設した小さな小部屋を占有して、このマンションで暮らしていた。
「奈美ちゃんの頼みなら何でも聞くわよ。」
敏子は奈美の来る前にマンションに到着して、息子の祐樹と雑談をしていた。時間に追われるように仕事をこなす彼女にとって、異常なほどの奈美への気の使い様である。
祐樹は二人のためにカウンターの中に入り、グラスにワインを注ぎ、冷蔵庫からアーティーチョークを取り出しながらオードブルを準備している。
「サリュ(雑誌)に再就職しようかと思って・・。でもその前に雨宮さんの承諾をとらないといけないので・・。」
奈美がモデルをやめる時、サリュの編集長江川と交渉してくれたのが敏子であった。
「そう。(嬉しそうな笑顔をを浮かべ)でも、私に遠慮しなくてもいいのに・・。でも、そこが奈美ちゃんのいいとこか。」
敏子は上機嫌である。そんな母親の表情をうかがいながら、祐樹がにやりと笑った。
「でも、なんでモデルに復帰する気になったの?」
敏子はそのことが少し気になった。
「愛生ちゃんの事件がきっかけでしょう。」
今まで黙っていた結城がいきなり口を開いた。彼の言葉に奈美が小さく頷いた。
「愛生ちゃんの事件って・・?」
敏子は、奈美が愛生を神の国の道場から救い出した事件を知らない。
「ママには関係のないこと。どうせ話しても、仕事のことしか関心のないママには面白くないと思うわ・・。」
祐樹が母の疑問への返答を冷たく遠ざけた。敏子は祐樹の言葉に反発することなく、黙って息子の顔を見た。
「わたし・・、もう逃げるのやめたんです。」
奈美は敏子に復帰の理由を話すことなく、ただ自分の心境を要約したようにそう呟いた。敏子にとって、その言葉で十分だった。
「奈美ちゃんの気持ちが決まったならそれでいいの。後は私がちゃんとやるから・・。来月には仕事に復帰できると思うわ。」
奈美は敏子の言葉に驚く。そして、戸惑いながら、
「でも、編集長の承諾が・・。」
と、敏子の強引な断言に疑問をさしはさんだ。
「奈美ちゃん、ママに余り感謝しないほうがいいわよ。彼女は親切心だけで動くような人じゃないから・・。ねえ、ママ。」
祐樹はそう言うと、母親の方を向いて、再びにやりと笑った。
「私は奈美ちゃんのモデルとしての可能性を評価してるから、一生懸命応援してるの。変なこと言わないで!」
意外にも、敏子は息子のからかいに真顔で対応した。
「でしょ・・。(奈美の方を見て、またにやりと笑い)ママにとって、奈美ちゃんは、途方もない可能性なの。」
奈美は二人の会話についていけない。
「それって・・?」
奈美がたまらず、そう聞いた。
「サリュは、奈美ちゃんがモデルでいるから何とか発行部数を保てたの。その奈美ちゃんがいなくなったらどうなる?うまくいくはずない・・。そこでママの出番がやってきたの。ママは奈美ちゃんの復帰を見込んで、サリュの経営権を買い取ったのよ。ねえ、ママ。」
祐樹はそう言うと、敏子のグラスにワインを注いだ。敏子は、これ以上言い訳ををするのは得策でないと悟ると、余計なことを言った息子を睨みつけた。
しばらく気まずい雰囲気がその場に流れ、沈黙が続いた後、
「私にとって、サリュの経営権なんて関係ないから・・。雨宮さんがオーナーなら、むしろ私にとって仕事がやりやすいかも・・。」
そう言うと、奈美は、横に座る敏子の方を向いて笑顔を見せた。
「これで決まり!奈美ちゃんの再就職に乾杯!」
敏子はその場の気まずい空気を一挙にかき消すように、普段出さないような大きな声でそう叫んだ。
「それと、ママの投資の成功を祝って乾杯!」
祐樹がまた敏子に嫌味を言った。
「いい加減にしなさい!」
さすがに、我慢の限界を超えた敏子が息子を叱りつける。
しかし、敏子の感情をあらわにした言葉が、奈美には彼女の普段見せない素直な気持ちに思えて、返って新鮮だった。
「雨宮さんには感謝しています。」
奈美の素直な吐露が、その場の空気を一変する。
「奈美ちゃんがそう言うなら、これ以上ママに逆らっても仕方ないようね。」
祐樹はそう言うと、頭をかいて照れ笑いをする。祐樹の母への反抗は、奈美への気遣いだったのかもしれない。
(椎名みどり脱退)
愛生となつみ、それに奈美の土曜午後のカフェでのおしゃべりは、それぞれの環境の変化にもかかわらず続けられている。
「やっぱ元気ないね・・。そらそうか、愛生の母さんは未だに教団から抜けないんだもんね。それにしても、娘を捨ててまで宗教にのめりこむなんて、私には信じられないけどね。」
なつみは、いつも注文するコーヒをやめて、パンケーキとオレンジジュースをテーブルの上に並べている。
「母さんが教団と関わっているのは最近のことじゃないし、父さんが死んだのはそれが原因のようなものだし。今さら彼女の事を考えても仕方がないんだけど・・。」
いつものコーヒを注文した愛生がそう言うと、右手でカップを口元に運んだ。
「それにしても、奈美がモデルに復帰するとは思っていなかった。あんなにきっぱりとやめるって決意していたのにね。」
なつみは、愛生の話題から奈美のことに話を変えた。三人の話はいつも真剣に結論を求めない。こんな会話だからこそ、わざわざ原宿に集まって雑談をかわすのが、心地いいのかもしれない。
外の雑踏を眺めていた奈美が、なつみの方を向く。
「変かな?わたし・・。」
少し驚いた顔をして、奈美がなつみの言葉に応じる。
「そんなことないと思う。やっぱ奈美さんはモデルがあってる。もったいないよ、そんなに綺麗なのに、自分の強みを利用しなくっちゃ。」
愛生がすかさず奈美を援護する。
「私もそんなこと言ってもらいたいな。」
すかさず、なつみが冗談とも本気ともつかない言葉を発する。
次の瞬間、三人の間に沈黙が続き、突然爆笑へと変わった。
「なつみさんは、明晰な頭脳があるじゃないですか。」
愛生が言い訳をするように、なつみの長所を指摘する。
「わたしも女だから、どっちかと言えば奈美ちゃんの長所が羨ましいな。」
なつみがしつこく絡んできた。
「徳島のおじさん、病状が悪化したみたい。」
二人のやりとりに距離を置いていた奈美が、真剣な顔をしてそう言った。
「奈美ちゃんどうする?私は、うちのゼミの先生が大阪で研究発表するのを手伝った後、徳島まで足を延ばして、マー君と祐樹と一緒に見舞いに行こうと思うの。」
なつみが初めて真顔になってそう言った。
「わたしも、おじさんに一度会いたいので、一週間以内にはジョッショと一緒に見舞いに行こうかと思ってんです。いろいろ相談したいし・・。」
愛生が、奈美が答えるのを躊躇している間に先に答えた。
「そうか、みんな決まってんだ。私は再復帰したばかりだから・・。」
奈美が言いにくそうにやっと答える。
「そうだよ。あまり急がなくてもいいよ。おじさんには奈美の事情話しとくから。」
困っている奈美を気遣って、なつみがそう言った。
その時、顔を上にあげて遠くを見た愛生の顔が曇っていく。
愛生の異変に気付いたなつみが、
「どうしたの?」
と、愛生に尋ねた。
「たしか、神の国の・・。」
愛生の反応に気づいた奈美も、こちらに近づいてきた若い女性に声をかけた。
「椎名みどりです。」
奈美の言葉に応じるように、そう名乗ると軽く奈美に頭を下げた。
奈美は、以前みどりがこのカフェでもう一人の青年と一緒にいて、愛生に声をかけたのを覚えていた。
「何の用なの?愛生はもうあなたの宗教団体とは関係ないからね。」
なつみは、みどりを睨みつけながら、愛生に代わってきっぱりと宣言した。
「わたし・・、あの宗教から脱退したんです。私みたいに、奈美さんが道場に来てから脱退した信者が十数人いて・・。」
みどりはさっきから奈美の前で恐縮しているように、おとなしい態度でたたずんでいる。
「それなら私に何の用があるんです?」
愛生がはっきりした口調でみどりを詰問する。
「愛生ちゃんじゃなく、奈美さんに・・。」
みどりは、あくまで低姿勢な態度でそう言った。
「わたしに?」
奈美が驚いたように、そう答える。
「神の国を脱退した連中が、奈美さんに従いたいって・・。」
みどりの声はだんだん小さくなり、聞き取りにくくなる。
「わたし、教祖でも何でもないし。そんなこと言われても・・。」
奈美はみどりの突然の主張に困惑している。
「困っていることがあったら、何でも言ってください。私たち、奈美さんの言うことなら何でも従います。あなたは、教祖を下僕にするだけの格を備えた人間なんですから・・。」
みどりはそう言うと、思い切って顔を上げ、奈美の顔をじっと見た。
「あのさ、奈美はそう言うの迷惑なの・・。現代版桃太郎じゃあるまいし。」
なつみが、みどりを馬鹿にしたように忠告した。
「うまいことを言う。」なつみの言葉を聞いていた愛生は心の中でそう思い、思わず苦笑した。
「ありがとう。困ったときはお願いね。」
意外にも奈美はみどりの言葉を素直に受け入れたのである。
その言葉を聞いたなつみは、奈美の心境の変化に驚くばかりだった。
「これ電話番号とメールのアドレスです。」
みどりは名刺サイズの白い紙を奈美に手渡すと、彼女に嬉しそうに一礼して、それ以上何も言わずに立ち去った。
「変わったね、奈美・・。」
なつみは不思議そうな顔をして、奈美の明るい表情をじっと観察していた。
(ジョッショと愛生)
私が寝ている病室の扉が開き、ジョッショが顔を突き出した。
「元気にしてる?」
扉の方を見ている私に向かって、ジョッショが満面笑顔でそう言った。
「馬鹿!病人のお見舞いに来て何言ってんの。」
姿は見えないが、扉の向こうで愛生がジョッショをたしなめた。
「わざわざ東京からきてくれたのか。」
私はジョッショの顔を嬉しそうに見ている。
「おじさん、しっかりしているので安心した。」
ジョッショの後ろから姿を現した愛生が、笑顔を見せながら私に声をかける。
「元気じゃないが、二人の顔を見て何だか気分が晴れてきたよ。」
言葉だけじゃなく、私は今日気分がよかったので、二人を一階のラウンジに誘った。
ジョッショがラウンジにあるコーヒショップから三つのカップ持ってきて、丸いテーブルに並べる。ジョッショの元気な笑顔は、知らず知らずに私の気分を愉快にしてくれる。
「正治から聞いたよ、愛生ちゃんが教団へ母さんに会いに行ったこと・・。色々大変だったね。」
私は正治から愛生の事件について聞いて以来、何度か彼女の親子関係の複雑な心境を思いやっていた。
「例によって、魔法使い奈美さんがね・・。」
ジョッショが私の方を向いてにやりと笑った。
「お前は変わらないな・・。(ため息をついて)軽い!」
ジョッショのきわどい会話は、時には笑えない。私は、不思議そうな顔をして、ジョッショの言葉を確認するかのような表情をしている愛生を見て、何も考えずに喋ってしまうジョッショの軽率さに少し腹が立った。奈美の超能力を知っているのは、私に妻とジョッショ、それに正治だけだったからである。この秘密は、奈美のためにも絶対守らなければならないという暗黙の了解のようなものがあった。
「愛生ちゃん、ジョッショの言うことをまともに取らないほうがいいよ。そうでないと、一緒にいると頭が変になるから。」
私は、冗談交じりにジョッショの言葉をうやむやにしながら、孫の顔を睨みつけた。
「すいません。」
ジョッショが私に頭を下げて、反省している態度をとる。
「母さんのことでおじさんの意見聞きたくて・・。」
私とジョッショのやりとりを聞いていた愛生は、何もなかったように私に話しかけてきた。
内心、愛生がジョッショの言葉に関心を持たなかったことにほっとしながらも、愛生が私に求めた意見の内容が、正直、わたしには重かった。それでも、私は言葉を選びながら、彼女の質問に答えようとする。
「愛生ちゃんにとって、母親は目に見えない絆で結ばれているのは分かるけど・・。」
ここまで言って、私は自分の考えを整理するために言葉を止めた。
ラウンジの向こうの方で読書をしている患者がいたが、他の席はすべて空いていた。
今日は外来の患者は午前中で終わり、病院の業務は小休止の状態だったのだ。そのおかげで、我々は辺りを気にすることなく喋ることができた。
すると、いきなりジョッショが、
「絆っていっても、人が意識しなければ、あってないようなものかもしれないよ。僕は薄情なのかな?でも、僕には縁の方がこの世では大事な気がする。」
と、ぽつりと言った。
私は思わずジョッショの顔を見て、
「お前は真剣な話もできるんだ・・。」
と思わず口走ってしまった。
横を見ると、愛生も私に同調するかのように頷いた。
私はその時、バサムも「縁」という言葉を使ったのを思い出していた。
「人は生きてる限り、縁とか絆を引きずりながら、いろんなことを経験していくんだろうな・・。生きる時間が残り少なった私にとって、今まで出会ったいろんな人との縁は、運命の偶然のようで、必然だったような気もする・・。」
私はそう呟きながら、山根やミルコ、ファティのことを思い出していた。
私の言葉を再考するように、静かなラウンジの中で、三人はじっと黙ってしまった。
ジョッショは愛生との出会いを考え、愛生は父親と母親が普通に暮らしていた過去の幼いころのことを思い出していた。
しばらく沈黙の後、愛生が吹っ切れたように口を開いた。
「わたし、母さんのことは忘れることにする。記憶の中にある過去にこだわっていたら、今生きてることが無駄になるような気がするから・・。今はジョッショがいてくれるし、奈美さんやなつみさんが私のこと心配してくれてる・・。今の私が出会った大切な縁を大事にしなくちゃあね。」
愛生はきっぱりとそう言いながらも、目には涙が一杯溜まっていた。
「縁があったら、また母さんとの絆を深めればいいよ。」
私は愛生を慰めるつもりでそう言った。
「縁があったらね・・。」
愛生のその言葉は、母との絆をいったん断ち切った決意のように聞こえた。
「僕との縁は断ち切るなよな。」
ジョッショが不安そうな顔をして、凛とした表情をした愛生の顔を覗き込んだ。
「もちろんよ。」
愛生がジョッショの顔をまっすぐに見てそう誓った。
「お前たちは見舞いに来たのか、のろけに来たのか分からないな。」
私は二人を見ながら、思わず苦笑しながらか二人をからかった。
ただ、心の中では二人がわざわざ来てくれたことが、心の底から嬉しかった。
(奈美と名城の信者たち)
奈美は、自分に近づいてくる「神の国」を脱退した信者たちを受け入れた。そして時折、友人のように、彼らと一緒に出歩くこともあったのである。言い方は悪いが、彼女の追っかけのファンを遠ざける護衛のように、利用したのかもしれない。ねらい通り、SNS上では奈美の同伴者が、宗教信仰者であることを不気味がり、彼女へのつきまといは激減した。
「みどりさんは”格”と言う言葉を使ったけど、誰から聞いたの?」
阿佐ヶ谷の駅へ向かう途中にある公園内で、奈美の横を歩いているみどりに聞いた。
「名城さんですよ。」
そう答えたのは、いつもみどりと一緒にいた今野結人であった。彼もまた、神の国を脱退し、奈美と一緒に行動することがしばしばあった。一瞬、奈美の歩みが止まり、今野の顔を確かめる。
「名城って・・、あの教団NO2の?」
奈美の視線を避けるように、今野が顔を横に向ける。大抵の男は、奈美にまともに見つめられると、自分の動揺を胡麻化すように視線をそらしてしまうのである。
「奈美さんを新しい教祖にしたいんじゃないかな・・。」
みどりはそう言うと、奈美の表情をうかがった。
「それって、今の教祖を裏切るってこと?」
奈美が、みどりの言葉を確かめるようにそう聞いた。その言葉に、二人は思わず顔を見合わせ、何かを決意したかのように同時に頷いた。
「もちろん神の国の大半の信者は教祖の教義を信じています。ただ、我々のような一部の青年信者は、名城さんの宗教に対する思想に、心酔している者もいるんです。」
今野とみどりは、この時を待っていた。奈美を説得して、名城を中心とする新たな宗教団体を自分たちで結成したいと目論んでいたのである。とりわけ、名城は奈美の不思議な能力を、目の前で見た教祖以外の唯一の目撃者だっただけに、奈美が教祖になれば必ず多くの信者が集まって、自分の思いを描く新たな「神の国」を創造できると信じていた。
「あなた方が私に近づいたのは、そんなところだろうなと思ってた・・。いったん宗教を信じた人間は簡単に信じた信仰を捨てられないっていうもんね。」
みどりは、奈美の言葉を聞いて、彼女への説得が失敗に終わったことを薄々感じた。
「奈美さん・・。私たちの教祖にはなってくれないですか?」
今野もみどりと同じように感じていたが、最後の望みをかけてそう言った。
「悪いけど、今の話全部録音させてもらったから。もし、神の国の信者が再び愛生ちゃんに関わったら、この録音、私の知り合いの雑誌社に渡すからね。教祖がこの会話を知ったらどう思うか・・。名城さんにそう伝えておいて。」
奈美はそう言うと、二人の顔を睨みつけた。
今野が奈美の言葉に気色ばみ、今にも襲いかかろうと彼女の方に一歩近づいた。
するとその時、
「やめたほうがいい!もし奈美に何かあったら、君は破滅だよ。」
正治が今野の背中に向かってこう叫んだ。
真っ青な顔をした今野が、はっとして後ろを振り返り、正治の顔を睨みつける。
それに合わせるかのように、奈美の今野に突き出した彼女の手が、元に戻った。
「もういいよ、今野さん!行こう。」
みどりのその場を引き裂くような悲痛な声が、誰もいない園内に響き渡った。
遠ざかるみどりと今野の背後から、
「名城さんにもう一言伝えておいて。もし、私たちにもう一度近づいたら、今度こそあなたを奈落の底に突き落とすからって・・。」
奈美の妖気を感じる不気味な声に、二人は怖くて振り返ることもできず、小走りで逃げるよう走り去って行った。
(唯心論)
正治、なつみ、祐樹が、私の見舞いに来てくれた。私は病院(総合病院を転院した私立の病院)をこっそりと抜け出して、近くの料理屋へ三人を連れて行った。
「見舞いに来たのに、反って私たちが歓待されるなんて・・、変な気持ち。」
祐樹が私の取った行動に驚いているようだった。
料理がどんどんと運ばれ来て、アルコールも注文された。ただ、わたしだけは、さすがに酒だけは遠慮した。
「これを飲めば、間違いなく心臓の鼓動は打たなくなるが、自殺をする勇気はないので遠慮しとく。」
私は、冗談とも本気とも判別つかない言葉を発した。何とも複雑な空気が流れる。
「先日、ジョッショと愛生ちゃんが来てくれたよ。」
私は仕方なく、正治にそう切り出した。
「ジョッショから聞いた。じいちゃん元気そうだって言ってたよ。」
正治がその場の重い空気を吹き払おうと、ジョッショの楽観的な感想を伝えた。
「愛生ちゃんと教団との関りはどうなった?」
私はそのことが気になっていたので、正治の言葉には反応せずに、いきなり話題を変えた。
「多分、縁が切れたと思うよ。奈美の計略がうまくいったから・・。」
正治は意味深な言葉をいうと、私に向かってにやりと笑って、奈美が超能力を使ったことを暗示した。祐樹となつみは正治の唐突な言葉に、不思議そうな顔をしている。
「そおうか・・。それはよかった。」
私の返答によってこの話題に結論が出たようで、これ以上発展しなかった。
「おじさん、病気になって何か心境変わった?」
祐樹が、私の気持ちをふんわり包み込むような親しみを込めた口調で尋ねてきた。
「私は若いころからいつも死について考えてきたけど、結論がでたことはない。当たり前だけどね。その死が近づいているんだ・・。それなのに、恐怖心だけが先走って、ただ呆然と時間を過ごしている。(三人の顔を見て、にやりと笑い)まあ、そんな心境かな。」私の冗談とも真剣ともつかない言葉に、笑顔で反応する者はいなかった。遠くの方で、夏には早すぎる風鈴の音色が寂しく風に吹かれて鳴っている。
「自分がいなくなるっていうのは、肉体を通して伝わる聴覚も視覚も触覚もなくなるってことだよね。」
沈黙を破ったのは、なつみであった。
「それって、当たり前だよね。」
祐樹がなつみの話を聞いて、なつみをからかう。
「自分という媒体なしに、この世界って存在するのかな・・。だって、私の想像力がなかったら、世界なんて認識すらできないんだもの。自然の法則も神の存在もすべて私という存在が作り出した産物にすぎないんじゃないかな。」
こんな時のなつみはいつも真剣な顔をして、一生懸命何かを探し求めているようなエネルギーを感じる。みんなの関心が、次第に彼女の言葉に集中し始める。
「なつみちゃんは、唯心論者のようなことを言うね。」
「死」という言葉の重みに押しつぶされそうだった私の気持ちが、違った思考の方向に向き始める。
「唯心論って何ですか?」
なつみが私に唯心論の意味を尋ねてくる。
「私が若いころ、哲学に興味があった時に知った思想だけど、存在の本質の根拠を人の内面(精神)にあると主張する考え方じゃないかな?元々哲学者が言い出した言葉だと思うんだけど・・。若いころの私には、余り興味がない思想だったことを覚えてる。当時の風潮もそうだった。あの頃は、マルクス主義のような唯物論が盛んだったからね。私ははその頃、サルトルの現象論に夢中だったしね。」
正直、わたしには「唯心論」を説明できる知識はなかった。
「物理の考えも哲学によく似てる。ニュートンの考えた時間と空間は不変に存在するという考え方は、唯物論的だよね。でも、アインシュタインが登場すると、すべてがくつがえされた。重力が時空に影響を及ぼすとしたら、我々の存在している時空の世界は、ある一つの次元での常識にすぎないことになる。つまり、我々の信じてる外的世界は絶対ではなくなってしまう・・。そうなると、存在の本質は人の内的活動、つまり精神の産物にしたほうが都合がいいよね。」
正治が思いついたようにそう言った。
「量子論も同じようにそのことを認めてるんじゃないかな。だって、物理的法則は確率でしか決定できないんだもの。実態は時間と位置を確定できない・・。」
最後に祐樹が議論に加わってくる。
「そうなの、だから存在の最終決定は、想像力を働かせる人間の内的活動に頼るしかないのかも・・。」
興奮したなつみが確信を持ったかのように断言する。
「つまり、精神である人間の死は、すべての消滅ってわけだ。(にこにこ笑いながら)存在の絶対的真理さえきれいさっぱり解消か・・。それはそれで爽快かもしれないな。だって、悩むことなんて何にもなくなって、すべて消滅するんだから・・。後に残るのは無限という人に理解できない怪物がすべてを支配するだけ・・。そう考えると、いろいろ考えるのもめんどくさくなる。」
私は彼らの会話に刺激されて、高揚していた。
「何だか、おじさんを混乱させてしまったみたい。」
祐樹がすまなさそうな顔をして、苦笑いする。
「いや、その逆だよ。みんなの会話で自分の不安が一時的にでも吹っ飛んだ気がする。
みんなに感謝しなくっちゃ。」
私は彼らの健全な思考力が生み出すエネルギーに、元気をもらったような気がした。
深夜まで続いた宴会が終わって、こっそり病室に戻った時には辺りが明るくなり始めていた。これを境に、私の病状は次第に悪化した。しかし、私は三人と過ごした時間に少しも後悔していなかった。
(ファティ、ミルコ)
ベットを照らす照明が、病室の暗闇を深いものにする。
私はさっきからじっとその光の照らし出す空間を見つめている。
今日は一日中呼吸が苦しかったが、少し前から発作が治まった。二三日前から起き上がることも困難になってきたが、何故か思考力だけはあまり衰えていない。
しばらく光の当たる場所を見つめていると、私の意識は吸い込まれるようにその空間に飲み込まれていった。
眩しい光がロワール川にかかる橋を渡る三人の青年に降り注ぐ、川向こうの柔道場を後にして、柔道着をわきに抱えた私とミルコ、それにファティが、川から吹き上げる涼し風を体に受けながら跳ねるように歩いてる。
「どうだったナタリーとの乱取り?お前、顔が引きつっていたぞ。」
たまたま隣で練習していたナタリーが、最後に行われる柔道の乱取りに、わたしを指名したのである。私は彼女との練習の間、最後まで彼女の顔を見ることができず、高鳴る動機を悟られまいと必死で相手の動きに合わせていた。
乱取り終了の合図の太鼓が鳴って、互いの動きが止まる。
「ありがとう。」
私はナタリーのささやきに気づき、やっと顔を上げて彼女の笑顔を見た。
ミルコに聞かれて、
「女神っているんだな・・。」
私はその時の記憶をたどりながらそう呟くと、大きなため息をついた。
そんな私の言葉を聞いていたミルコとファティが大きな声を出して爆笑した。
私の右手にそびえるアンジェの城が、長い時間を経過した遺跡の風格を備えてそびえている。あの時、私の時間は止まっているかのようだった。
ふと見ると、城の石垣の一角の窪みが、光を避けるように真っ黒い闇を形作っている。
私は不思議に思い、じっと目を凝らしてその暗闇をのぞいて見る。すると、再び私の記憶の中にある場面は、違う時空へ私を誘った。
夜のカフェの外に置かれたテーブルに、ミルコとファティと私が座ってワインを飲んでいる。我々の一角だけが、薄ぼんやりとした街灯の光に照らされ、暗闇の中に浮かんでいるようだった。
「戦争はこりごりだ。」
ミルコがそう言って、大きなため息をつく。
「戦争さえなければ、かわいい孫たちに囲まれて幸せな日々がおくれていたのに・・。」
ファティが悔しそうにそう呟いた。
「結局、戦争で死ななかったのは洋英(私)だけだったな。」
そう言って、ミルコは私の方を向いて笑顔を見せた。
「そうだ、洋英にはお礼を言わなくっちゃな。(うっすら涙を浮かべ)私の家族を救ってくれてありがとう・・。」
ファティが私の手を取って、固く握りしめた。
「最後にやっと二人に会えた。私の人生の旅は長い長い堂々巡りをして、やっと二人と共有した永遠の記憶にたどり着いたような気がする。人生って何だったんだろうね・・。」
私はそう言うと、二人の顔を確かめようと顔を上げた。しかし、私の前にいたはずの二人の姿は消え去って、ベットに灯った小さな光の空間が、ぼんやりと暗闇を浮かび上がらせているだけだった。
「夢現か・・。」
ぽつりとささやいた私の目には、一杯涙がたまっていた。
「私の生きたこの軌跡は、記憶と共に永遠の無の中にそっと消え失せるのかもしれないな・・。」私はそんなことを思いながら、再び眠りについた。
(ナナとの別れ)
「お前がいなくなると、俺の完全消滅も近くなるな・・。」
そう言って、山根が寂しそうに笑った。
「奈美ちゃんやバサム、それにアリーだっているじゃないか。」
私は山根を慰めるようにそう言った。
ふと瞼を開けると、私を覗き込んでいる女性の顔が見える。
「ナタリー・・。」
私はその女性を若き日のナタリーと勘違いしていた。
「おじさん、私だよ。」
私の間違いを優しく正したのは、奈美だった。
「来てくれたのか・・。」
私は間違えたことに少し照れながらも、自然と笑顔がこぼれた。
辺りは暗くなって、ベットを照らす明かりが、私を未知の世界に誘っている様だ。
「ごめんね、遅くなって・・。」
奈美はそう言うと、私の額を優しくなでた。
「どうやら、この世での私の時間は余り残ってないようだ。(にやりと笑い)記憶に残る大切な仲間がみんな会いに来てくれた・・。」
私がぽつりとそう言うと、奈美は私の呟きを否定もせずにこくり頷いた。
「奈美ちゃんは、知ってるのかい・・。私が死んだら、魂はこの宇宙をさまようのかな・・。
それとも、宇宙の外へと完全消滅するのかな?」
私の心は幼児が母に「お星さまは、どうして届かないところにあるのかな?」って聞いてるように、素直な気持ちで奈美に不思議の謎を聞いている様だった。
「すべては、おじさんの空想の中に本当の答えがあるかもしれないよ・・。」
奈美が優しく答えてくれた。私は彼女の言葉の意味を理解できないまま、「うん」と頷いた。
「ファティがね・・。(にこりと笑い)ナナに会いたがっていたよ。」
私はそう言うと、彼女の優しい顔を探すかのように、目を見開いて上を見た。彼女の目に涙がいっぱいたまって、流れ出している。
「ナナはね、おじさんのことを忘れないから・・。おじさんは私の心の中で生き続けるからね・・。」
その言葉を聞いて、私は全身の緊張をすべて解き放つ決心をした。すると、彼女が私の手を取って、自分の頬に押し当てた。冷たいナナの涙が、私の最後の感覚を刺激する。
「ナナちゃん、最後に頼みがあるんだけど・・。」
私は最後の力を振り絞ってそう言った。
「なに?」
ナナが、私の耳元で小さな声でささやいた。
「エンニオモリコーネのガブリエルのオーボエ聞けないかな・・?」
それが私の最後の言葉になった。
奈美が自分のスマホを私の耳元に置く。
部屋中にオーボエの音色が優しく響き渡った。
奈美は、息を引き取った私の顔を見て、
「おじさん・・、最後まで神様を信じなかったね・・。おじさんにとってサルトルは青春そのもだったんだもんね。」
私の頬をそっとなでながら、奈美は目に一杯涙をためてそう呟いた。
「ジョッショの友達ナナ4」・・おわり
ジョッショの友達ナナ1~4は、「ジョッショの友達ナナ」シリーズ に掲載中!