1.
元・聖女と元・魔王の契約婚約。
それを成立させるための決めごとが、いくつか二人の間で成された。
ひとつ。契約の期間中、ライラは公式に婚約者として扱われる。
ふたつ。二人の契約、およびユーシスとライラが悪魔イフリートを追っていることは、一部の側近とケマリ以外には秘密とし、契約婚約であることが周囲に悟られないように互いに最大限の努力を行う。
みっつ。契約の期限は一年とする。
このほかにも細かくいくつかルールが決められたが、大きなところでは主にこのみっつが定められた。
なお、契約期限を一年としたのは、イフリートの分身が活動できる限界がそこだからだ。
「古文書によれば、分身が悪魔本体から魔力供給を受けずに活動できるのは、最大で二年だ」
二人で整理した数々の条件を書き記した紙を見下ろしながら、ユーシスはそう話した。
「分身が逃げ出してから、俺の体に早贄の印が浮かぶまでに一年。分身が消えるまで残り一年だ。分身は、必ずそれまでに俺を狙って接触をしてくるはず。そこを待ち受ける」
「どう思う、ケマリ?」
一応確認すると、ライラが抱っこする腕の中で、ケマリは黒い鼻をスンスンさせた。
『悪くないと思うよ。悪魔の分身の活動限界がそれくらいってのは、僕たち精霊の間にも伝わっているし。ユーシスがエサになってくれるなら、闇雲に探すよりずっといいしね』
「もちろん、ただ待っているつもりはありません」
エサと言われてもまったく気分を害することなく、ユーシスは胸に手を当てて頷いた。
「分身とはいえ、相手はあのイフリートだ。たとえ向こうが身を隠しても、この一年の間に見つけ出し、必ず叩く。俺たちの契約も、そのためのものです」
そうやってルールが交わされた翌朝、ユーシスはライラの両親に、ライラと婚約させてほしいと真摯に申し出た。とても契約婚約とは思えない迫真の演技に、両親は呆気にとられたまま頷いた。
そうしてユーシスは、後日迎えの馬車をよこすと約束をして、北の砦に戻っていった。
「で、あっという間に迎えの日が来ちゃったってわけ」
「なに、急に。誰に言ってるの?」
「ううん。独り言」
訝しげな顔をする母に首を振って、ライラは目の前にまとめた荷物たちに目を向けた。
今日はユーシスが迎えの馬車を送ると言っていた約束の日。これから到着する馬車に乗って、ライラはユーシスの婚約者として北の砦に向かうことになる。
(一年間、マイヤー村ともお別れなのね)
ちょっぴり感慨深く、ライラは見慣れた田舎道を見つめた。この道をまっすぐ行けば、馴染みのひとたちが暮らすマイヤー村がある。村を離れるのは、生まれ変わった後では初めてのこと。だから少しだけ、寂しいような気もする。
(まあ、一年なんてきっと、あっという間だけどね)
腰に手を当てて、ライラは苦笑した。ライラとユーシスの婚約はあくまで契約によるもの。イフリートの分身のことを解決したら、ライラはまたこの村に帰って来る。
それがわかっているからこそ、すべてを秘密にして置いていかなければならない家族には、申し訳なく思う。
「ライラぁ……。寂しくなったらいつでも、帰ってきていいんだからね」
顔をぐじゅぐじゅにして泣いているのは、父のハリーだ。父は昨日からずっとこの調子で、「ライラが遠くに行っちゃうのは寂しいよう。悲しいよう」と嘆いている。
それを、隣から母がぴしゃりと叱りつけた。
「およしなさい。ライラも年頃の娘なのだし、いつかはこういう日が来るのはわかっていたこと。遠く離れるのは寂しいことだけど、第一王子であるユーシス様に見初めていただけるなんて、貴族の娘としてとても名誉なことじゃないの」
「お母さんはそういうけどさあ。お父さんはね、そんなのどうでもいいのよ。ライラは普通にこの辺の誰かと結婚して、普通に近くで孫の顔とか見せてくれたら、それでよかったのよ。なのにさあ、なんだよもう、王子ってさあ……」
「今更ぐだぐだ言わないの。あなただって、ユーシス様から直々にお言葉をいただいたときには、ちゃんと頷いていたでしょう?」
「だってさ、王子様だよ? そんなの、断れないじゃん~」
「あーあ。ほんっと、父さんって気が小さいよね」
いまだグチグチという父を呆れた顔で見て、ルイが肩を竦める。それから、天使のように整った顔をした弟は、気遣うようにライラを見た。
「ごめんね、姉さん。出発の直前まで、なんか騒がしい感じになっちゃって」
「ううん、そんなことない。むしろ、こんな朝早くに見送りありがとうね」
「そんな、当たり前だよ! 姉さんが砦に行っちゃうんだから」
目を背けたルイにはっとする。かと思えば、今度はスカートが引っ張られる感覚があった。見れば、そこには幼い双子の妹、リリアとルチア、そして二人に挟まれるようにして手を繋がれた末の弟のカイトがいる。
目を丸くするライラを、妹たちはつぶらな瞳で見上げて問いかけた。
「ねーさま、もう帰ってこないの?」
「ねーさま、もう会えないの?」
「らぁらねーさま?」
幼いカイトだけ、よくわかってないのだろう。けれども、寂しそうにライラを見上げる双子の姉たちに囲まれて、不安そうな顔をしている。それを見て、ライラの胸はぎゅっと締め付けられた。
(一年後には帰ってくるって、正直に言ってあげられたらよかったのに!)
ユーシスとの契約婚約は、マイヤー家にもメリットがある。
まずは契約期間中。ユーシスは、マイヤー家を婚約者の実家として支援してくれる。薬の調合所の老築化を改善したり、村にいまだ残る去年の大雨の傷跡を直したりと、お金があったらしたかったことが山ほどある。支援をしてもらえるのは純粋にありがたい。
そして、契約後。つまりイフリートの分身を無事に排除できたなら。ユーシスは、分身が逃げ出していたことや二人の関係が契約婚約だったことなどをすべて明らかにしたうえで、改めてライラと実家に褒賞を与えてくれると約束した。
これなら、ライラが「王子に婚約破棄をされた娘」と不名誉なそしりを受ける心配もない。むしろ、王子と協力して悪魔を倒したことを明らかにしてもらえて、名誉である。
こういった事情もあって、ライラはユーシスの申し出を受けたことを後悔していない。してはいないのだが、母が応援してくれたり、父や弟妹たちが本気で寂しがっていたりする姿を見ると、色々と秘密にしていることが申し訳なくなってしまう。
だからせめて、ライラは膝を曲げて、幼い妹たちを思いっきり抱きしめた。
「必ず帰ってくるから、待っていてね。大好きよ、可愛い妹たち!」
「きゃあ!」
「きゃあ、ねーさま、くるしいわ」
「きゃ、きゃ。ねーさま、たのしい!」
「ふふ。姉さんは、家を出る日も変わらないね」
ぎゅむぎゅむと下の妹たちを抱きしめるライラに、ルイがホッとしたように笑う。かと思えば、ルイは愛らしい顔を不穏に歪めて、こきりと指の骨を鳴らした。
「まあ、安心してよ。あいつが姉さんを悲しませるようなことがあったら、すぐに手紙を送ってよ。僕が必ず、あいつをめったんめったんの、ぎったんぎったんにしてやるから」
「忘れてるかもしれないけど、私のお相手、王子様よ? めったんめったんのぎったんぎったんにするのは、たぶんだけど不敬罪なのよ……?」
「王子様がどうとか関係ないよ。そして迎えの馬車はいつ到着するのかな。僕の姉さんを寒空の下で待たせるなんて、あの男、さっそく一発殴ってやってもいいんじゃないかな」
「殴らないで!? ていうか、今日、ユーシス様は来ないから! 来るのは遣いの方だけだから!」
本当に馬車が到着したら誰か殴りかねないオーラを醸し出すルイを、ライラは慌てて宥める。なんとなく家の中で待っているのが落ち着かなくて、家族勢ぞろいで家の前に整列してしまったけれども、言われてみれば外で待っている必要は欠片もない。
まだ時間もかかりそうだし、一度家の中に入ろうか。そうライラが家族に提案しようとした矢先、末の弟のカイトが田舎道の向こうを指さした。
「あ! おんまさん、きたー!」
そちらに目を凝らして、ライラにも見えた。まだ遠いが、たしかにライラの迎えと思しき一行がいる。武骨だが立派な一台の馬車。それを引く数頭の馬。周囲を囲むように並走する、護衛とみられる馬に跨った兵士たち。
兵士、たち?
(あれ? あの先頭にいるのって……)
よーく目を凝らそうと、ライラは目を細めた。あの先頭を行く白馬に跨る姿、なんだかとても、見覚えがある気がする。いっそのこと見間違えであってほしい。それくらいの既視感を覚える、あの姿は――。
「殿下よ! ユーシス殿下が、直々にライラを迎えに来てくださったわ!」
隣で声を弾ませる母に、ライラは確信する。緩やかに編んだ銀髪を肩に垂らす、穏やかな微笑みを浮かべる美青年。やっぱりあれは、北の砦でライラの到着を待っているはずの偽婚約者、第一王子のユーシスだ。
なぜ? どうしてユーシスが? 喜んだり、困惑したりするマイヤー家の前に、あっという間に一行が到着する。馬を止め、颯爽と地面に降りたユーシスは、まっすぐにライラへと向かってきた。
(やっぱりユーシス様って、ものすごいイケメンだわ……)
ひさしぶり、といっても僅か10日ぶりに見る姿に、ライラは改めて圧倒される。すらりと均整の取れた体つきに、柔らかな笑みを浮かべる整った細面。名乗り上げなくても、彼が高貴の出であることを、そこに立っているだけで証明してしまう。
そんなふうにライラが呆けている間に、ユーシスはライラの前に立つ。どうしたのだろう。そうライラが首を傾げたとき、不意にユーシスがライラを抱きしめた。
(え……。ええ!?)
「ライラさん。君に、早く会いたかった!」
甘やかに耳元で響くユーシスの声に、ライラは腕の中に閉じ込められたまま硬直した。