8.
「同胞……? イフリートが?」
戸惑いそのままに、ライラは呟いてしまった。
創世の女神ユグラテは、精霊たちよりも一次元上の存在。天界の住人だ。大悪魔イフリートが元・天界の住人などということは、神話にも載っていない。
しかし女神ユグラテは、ライラを咎めることなく静かに続けた。
“イフリートは、元は我らと同じ、天界の存在でした。しかし、ひとがこの世に生まれ、その悪意や憎しみを吸収し続けた結果、ついには悪魔として地に堕ちてしまったのです”
――太古の昔、ユグラテはこの地を創った。
木々が創られ、海が生まれ、空に大気が満ちた。あらゆる動物が、地を走った。同時にユグラテは、共にこの地を守る神たちをも生み出した。その中に、イフリートもいた。
やがてユグラテは、自らとイフリートを似姿に、人を生み出した。イフリートは人を大層に気に入り、たびたび地上に降りては、人に混じって暮らした。ユグラテも、それを喜んだ。
だが、やがて人は争いを始めた。イフリートは嘆き、悲しみ、地上から悪意や憎しみを無くそうとした。すなわち、その身を犠牲に地上の悪意を吸い、神たる体の内で浄化をしようとした。
だが、いくら地上の悪意を吸収しても、膨らみつづける戦火の中で、それらは永久に尽きなかった。一方で、とめどない悪意を吸収し続けたイフリートは、ユグラテすらも気づかぬ間に、徐々に神核を黒く染めあげ、絶望していった。
ついに神核が漆黒で歪んだとき、イフリートは悪意を凝縮した憐れな獣となり果て、愛していたはずの人間たちに毒を振りまく悪魔となった。
“いまのイフリートは、人の悪意、憎しみ、負の感情そのものです。かつて大陸にいたほかの悪魔は、イフリートから生まれたものにすぎません。すべては彼の、変わり果てた神核こそが、悪魔の根源なのです”
「そん、な……」
膝をつきたくなる衝動に、ライラは苛まれた。
それが本当なら、イフリートは堕ちたとはいえ、女神ユグラテと同等の存在だ。それを完全に消し去ることなど、ケマリにも、ましては人であるライラたちにできるはずがない。
けれどもユグラテは、確信を込めて続けた。
“大丈夫。あなた方の祈りなら、本来のイフリートの自我に届く。悪意と憎しみに囚われた憐れな彼を、あなた方だけが、解放することができるのです”
なぜ、女神はそこまで自分たちを信じるのだろう。戸惑うライラたちに、女神が手を伸ばした。
“おいで、光の子たち。あなた方の願いが、私のもとに届くよう。私たちの間に、パスをつなぎましょう”
女神の手から光が溢れ、ライラとユーシスを包み込んだ。特に何かが変わったようには思えなかったが、光が消えたのを見ると、女神は満足そうに頷いた。
“これで、私たちは繋がりました。あなた方の願いは、私のもとに届きます。願いを叶えるための力を、あなた方に送りましょう”
ですが、忘れないでと、女神は人差し指を立てた。
“私ができるのは、お手伝いだけです。願いは、あくまであなた方から生まれるもの。あなた方が何を願い、何を望むのかが、イフリートを捕らえる悪を滅ぼせるかにかかっています”
「お願いです。私たちにヒントをくださいませんか?」
“わたしからは、なにも。ですが、ひとつだけ”
声が遠ざかっていく中、焦るライラに、女神は不思議な言葉を残した。
“すべては愛です、光の子。愛だけが、闇夜を照らす希望なのです――――”
気が付くと、ライラたちは元の荒れた丘にいた。慌てて隣を見れば、ユーシスも不思議そうに瞬きをしている。どうやら二人とも、戻ってこれたみたいだ。
ライラたちと女神のやり取りは、ケマリとアルフォンスには聞こえなかったらしい。アルフォンスが少しだけ焦れた様子で、ライラたちを見た。
「女神様とは話せたのですか? 皆は……南の砦の者たちを、本当に蘇らせることができるのですか?」
「お話しすることはできた。だけど、具体的な答えまでは……」
答えにくそうに顔をしかめて、ユーシスが首を振る。ある程度覚悟を決めていたらしいアルフォンスは、それでも辛そうに顔をゆがめた。
そんな二人の横で、ライラは聖杖を通じて、これまで感じたことがない種類の魔力が自分の中に流れているのを感じていた。
(女神さまは、私たちと女神さまにパスを繋いだと言っていた。それに、最後の言葉……。すべては愛、私とユーシス様の願い次第だと、そう告げていた!)
ぐっと聖杖を握りしめ、ライラはユーシスを振り返った。
「やってみましょう、ユーシス様。願いを込めるのは私たちだけ。女神さまは、その願いに力を貸すと、約束してくれました」
「しかし……」
『ボクもライラに大賛成! 当たって砕けろって、昔から言うじゃない? 何事もチャレンジ、チャレンジ。結果はそのあとさ!』
ユーシスは迷うようにライラとケマリを見た。だけど最終的に、美しい薄水色の瞳に固い決意を乗せて、力強く頷いた。
「やろう、ライラさん。彼らを救える可能性が、わずかでもあるのなら」
「はい!」
聖杖に手を重ね、ライラとユーシスは互いを見つめる。互いの瞳に迷いはない。二人ならばなんだって出来る。なぜか、そんな予感がある。
「お願いします。南の砦の人たちを、蘇らせてください……!」
願いを唇に乗せた途端、たしかな手ごたえがあった。心がむき出しにされ、ここではないどこか――天界へとダイレクトに繋がったかのような無防備感。かと思いきや、繋がった光の先から、膨大な魔力が洪水のように押し寄せてきた。
「これは……!」
「ライラさん!」
一瞬気が遠くなりかけたライラを、逞しい腕が支える。見れば、己もまた魔力の傍流を浴びながら、まっすぐにライラを見つめるユーシスの美しい顔があった。
「俺が君を支える! 君が受け止めきれない分は、俺がコントロールする! だから!」
ああ、そうだと、ライラは改めて頷いた。
二人ならば、出来ない事なんかない。
ぶわりと魔力風の爆発があり、ライラの髪が金色に輝いた。同じく金色に輝く目で周囲を見据えて、ライラは強く聖杖を掲げる。
「よろしく、お願いします……!」
はじけるように、光の爆発が起きた。
――余韻を楽しむかのように、キラキラとした魔力の残滓が、あたりに降り注ぐ。あまりの眩しさに目を閉じていたアルフォンスは、ふと、肩に触れる誰かの手を感じた。
「――殿下」
「目を開けてください、アルフォンス殿下」
「その、声は……」
耳を打つ聞き覚えのある声に、アルフォンスは自身の声が震えるのを感じた。
期待してはいけない。裏切られた時に、絶望してしまうから。
喜んではいけない。皆の無事を確かめるまで、自分には生きる価値すらもないのだから。
そう、どこか予防線を張りながら目を開けたアルフォンスは、自分を囲む見知った仲間たちの姿を、たしかにその瞳に映した。
「あ、ああ…………」
声にならない感嘆が、口から情けなく漏れる。まるで子供のように言葉を無くすアルフォンスに、蘇った仲間たちはおかしそうに笑った。
「あーあ。やっぱり、殿下固まっちゃった」
「賭けてたんですよ、俺たち。奇跡が起きて、俺たちが殿下のもとに戻ることができたら、殿下はキャパオーバー起こしちゃうんじゃないかって」
「普段はツンツンしてるくせに、意外と情が厚いんですよねえ。そこが俺たちにとっちゃ、どうにも憎めないっていうか」
にやにやと笑うのは紛れもなく、苦楽を共にし、戦ってきた仲間たちだ。震える手を伸ばして、アルフォンスはなんとか声を絞り出した。
「お前たち……本当に、蘇ったのか?」
「あは。まだ疑ってら」
「当たり前じゃ。このような奇跡、我が王国史始まって以来だろうて」
「だったら、はっきり教えてあげなくちゃね」
ニカっと輝く笑みを見せた南の砦の兵たちは、事前に決めていたであろう台詞を、声を合わせて元気よく叫んだ。
「悪魔なんかに操られてんじゃねえ、タコ!! それはそれとして、我ら帰還しました!!!!」
ヒクリと、アルフォンスの喉が引き攣った。視界がぼやけ、熱い涙が頬を焼く。ボロボロと無防備に涙をこぼしながら、けれどもアルフォンスは、仲間たちと抱き合うより先にライラを――その横に寄り添うユーシスを見た。
地面に座り込んだアルフォンスは、額が地面についてしまうほどに深く、長年憎んでいたはずの兄に頭を下げたのだった。




