5.
――そう。いまこの瞬間、ケマリとルチア、そしてサーシャは、退魔の剣を探してカルスト山内部の亀裂を奔走していた。
退魔の剣自体は、探索魔術に引っかからない。どんな魔術も魔力も無効化してしまうという、剣の性質のためだ。
だが、魔王のせいでカルスト山は破壊された。その衝撃により、退魔の剣は少なからず隠されていた箇所から落ちるなり、何かとぶつかるなり、したはずだ。その僅かな痕跡を、ルチアの目で探すことなら出来る。
『……なんて! 簡単に言ってくれちゃうけど、大海を泳ぐお魚さんたちの中から、たった一匹のミジンコくんを探すような大チャレンジをしてるわけだけどね!』
びゅんびゅんと山に走る亀裂の中を飛びながら、ケマリが大声でぼやく。それに並走しながら、サーシャも負けじと大声で返した。
「無駄口を叩くかないでくれ、ケマリ様! ルチアの、加えてわらわの気も散る!」
『きゅい、きゅい!』
『ひどいなあ、ルチア。人間と契約した精霊同士、仲良くしよって言ったのにさ。けど、おーけー了解だよ! ぼくも早く剣を見つけて、ライラの所に戻りたいからね!』
微かな手がかりを求めて、ケマリたちはカルスト山の深層へと飛び去って行く。
――その気配を僅かに感じ取りながら、ライラは祈るように目の前の攻防を見守った。
(ケマリたちが、必ず退魔の剣を見つけてくれる。だから、お願い。あと少しだけ、堪えてください……!)
だけど、そんなライラの祈りをあざ笑うように、魔王が、アルフォンス王子の体が、口から新たな血を吐き出した。
ぱたぱたと、鮮血が乾いた岩場に落ちる。剣を手に再び飛び込もうとしていたユーシスが、ぴくりと眉を動かして足を止める。
ユーシスとウィルフレド、二人の聖騎士の視線の先で、魔王は興ざめしたように口を拭った。
『……あー。馴染みはよかったけど、ダメか。案外もたねえもんだな』
ぱっと手を払ってから、魔王はひらりと腰に手を置いた。
『勘違いしてそうだから、言っとくけど、俺様は魔王の力に執着してねえんだわ。そりゃ、全能感はたまらねえし、癖になるけどよ。使えなくなったら、この体も捨てる。で、別の体奪って、周りの連中根こそぎ魂喰って、ちまちま力をつける。それでいいわけ』
効率は悪いけどな、と。なんてことのないように、魔王は笑った。
『つまりだ。てめえらがこの体を痛めつけようが、必要以上に守りに入りはしねえ。人間の体の内側にいる限り、俺自身のダメージは軽くなるからな』
軽くなった分のダメージは、犠牲になった人間の体が負う。300年前ならクロードが、いまならアルフォンス王子が、内と外の両側から痛めつけられていた。
(なんて卑怯なの……!)
手が痛むほど強く、ライラは聖杖を握りしめる。そんなライラの反応は気に入ったのか、魔王は機嫌がよさそうに続けた。
『ああ、そうだ。てめえら人間はいつも、助けたいとか、体を返せとかいうけどさあ。この体を一番傷つけているのは、他でもねえ、前線のてめえらだよ。なあ、エルザ。てめえが、てめえの魔術が、クロードをじわじわと殺したんだよ!』
「違う、それは責任のすり替えだ! もとはといえば、お前がクロード様の体を奪わなければ、あの方が死ぬことはなかった!」
『どう解釈しようと勝手だけどよ。俺は事実を教えてやってんだぜ? それとも、何か? 事実から目を逸らさなきゃ、胸が痛んで剣も握れないってか?』
ウィルフレドをバカにするように、魔王がニヤリと笑う。言葉に詰まったウィルフレドは悔しげに顔を逸らした。幼い王子を救えなかった。前世の彼もまた、それを悔いていた。
重い沈黙の中、魔王は演者のようにユーシスに手を差し伸べた。
『ユーシス。てめえはどうだ。可哀想だよなあ。憐れだよなあ。てめえの弟がこんなざまになったのは、てめえのせいだもんなあ』
「………………」
『まさか、知らねえってことはないよなあ。狂った母親に縋られて、頼みの綱の父と兄には見放され。こいつは溺れながら壊れていった。こいつはてめえを憎んでいるが、ぜんぶ愛情の裏返しだ。俺を見ろ。俺を認めろ。こいつはガキみてえに、そう叫んでいるのさ』
ユーシスは答えない。けれども、沈黙は肯定の証しだ。
(だからサーシャさんは、あんなことを……)
ユーシスとアルフォンス。二人の兄弟のこじれ方は、そう単純ではない。
サーシャの言葉の意味が、いまようやくわかった。
彫刻のように整った顔に何の表情も乗せないユーシスに、魔王は勝ち誇ったように笑う。
『こいつがてめえに向ける怒りが、恨みが、憎しみが、俺という悪魔に付け入る隙を作った。それを生み出したのは、ユーシス、てめえだ。それでも、てめえは俺を斬れるのか。それでも、憐れな弟に剣を向けるのか?』
やってみろ!と言わんばかりに、魔王が両手を広げる。わかりやすい挑発だが、ユーシスもウィルフレドも動かない。ウィルフレドは迷うように、ユーシスをちらりと盗み見る――。
けれどもライラは、問答無用で聖杖を掲げた。
「光の矢!」
ドッと飛び出した光の矢が、無慈悲に魔王に襲いかかる。反射的に防御した魔王だが、ぎょっとしたように目を剥いた。
『てめえ、話聞いてたか!? んなもん撃って、ダメージを負うのはこの体の人間だぜ!?』
「だとしても、この手を緩めはしないわ!」
新たない光の矢をつがえながら、ライラは凛と言い放った。
「クロード様を救えなかったのは私。クロード様を傷つけたのも私。そんなの、300年前からわかっていた! それでも、私は選択を変えなかった。大事な人の名誉に、これ以上、泥を塗るような真似にさせたくなかったから!」
「――同感だ」
金属がぶつかる音がして、ユーシスが魔王の懐に飛び込む。驚愕に目を見開く魔王の――アルフォンス王子の顔をまっすぐに見据えて、ユーシスは静かに告げた。
「俺は責任から逃げない。――憎まれ口ばかりな弟だが、アルフォンスは南の砦の部下たちは大切にしていた。彼らを自ら殺めたと知ったら、弟は苦しみ、自分を責めるだろう。これ以上、弟の体に、罪を重ねさせることはできない」
ユーシスの赤く染まった瞳の奥で、いつかと同じ、青白い炎が燃えた気がした。
「重ねて告げる。俺の弟を、返してもらうぞ!」
ユーシスの剣がせり勝ち、魔王の体が弾かれたように傾いだ。
その時、ライラの頭の中に声がした。
“やったーーーーーー! やったよ、ライラ! 退魔の剣を、ゲットした!!”
「ユーシス様!!」
「ああ!」
多くの言葉はいらなかった。ライラが叫び、ユーシスが答える。それで十分だ。
ユーシスが右手を掲げ、一瞬、その頭上が輝く。姿を現したケマリが、小さなもふもふボディに見合わない、いかつい大剣を放り投げた。
『もってけ、ドロボー!』
「使わせてもらいます!」
剣の束を握り、ユーシスは躊躇なく魔王に突き立てる。とっさに防御壁を張った魔王だが、退魔の剣は容赦なくそれを砕き、尖った切っ先が、深く魔王の肩に刺さった。
その傷から、噴き出すように瘴気が漏れ出した。
『ぐ、ああああああ! 力が、力が吸いだされる! くそ、これが退魔の剣の力……!』
「エルザ、いまだ!」
「わかってる!」
ウィルフレドの言葉に、思い切り地面を蹴って、前に飛び出す。ぴょんと飛んできたケマリを肩に乗せ、ライラは聖杖を高く掲げた。
魔王の中身が完全なイフリートの本体だったら、こんな簡単にはいかなかった。加えて、たとえ分身だとしても、退魔の剣がなければ分身の力を短時間で削げなかった。
勝つための条件をぜんぶ手繰り寄せて、いまこの一撃を放つ。
「“御使いよ、光の導き手よ。闇を裂き、闇を挫き、白き炎で魔を断ちたまえ”」
聖杖が輝く。空から光が降ってくる。全身に聖なる光を宿して、ライラは叫んだ。
「“精霊の恵みからなる浄化”!!」
音までもが、光に変わってしまったような錯覚があった。
光の炎が辺りを包み込み、あたりを満たしていた瘴気すらも焼き尽くしていく。北の砦で扱ったよりもはるかに暴力的な光の魔術が、なにもかもを浄化していく。
ガツン、と聖杖に手ごたえがあって、アルフォンスの中にいた分身の魔術核が砕けるのがわかった。
『あ、ああ……。馬鹿な……、嘘だ……。あと、少しで、俺様は…………っ』
その嘆きを最後に、しゅるりとアルフォンスから何かが抜け出した。
退魔の剣、そして精霊魔術により力を失った分身は、燃えカスのように空へと昇り、途中でじゅっと焼き尽きた。
空が、太陽が、正常な色を取り戻した。




