7.
「ライラさん。俺と、婚約してください」
「コンヤク?」
「ええ。婚約です」
にこにこと手を差し伸べるユーシスに、ライラはたっぷり困惑した。
(コンヤクって、何? まさか、あの、婚約? いや、でも、まさか。いくらなんでも、前世で自分を殺した相手に婚約を申し込むなんて……)
ライラは自分で自分にツッコミを入れて、ひとりで乾いた笑いを漏らす。
だけど、改めてユーシスを見る。
にこにこと微笑んではいるが、真摯な眼差し。差し出したまま、引っ込めようとはしない手のひら。じっと答えを待つ姿。
ライラは理解した。コンヤクとは、婚約だ。
だからライラは、思いっきり叫んだ。
「いや、なんで!?」
「あはは。やっぱり、驚かせてしまうよね」
「驚くって次元じゃないですから!! 前世で自分を殺した相手に求婚するとか、どういう神経してるんですか!? まさか昼間の瘴気の毒で、頭のどっかがおかしくなりました!?」
「うーん。テンパると、考えるより先に口から言葉が飛び出しちゃう感じ。懐かしいなあ。結構ひどいこと言われている気もするけど」
目を白黒させるライラを、なぜかユーシスは微笑ましいものを見るような目を向ける。というか、懐かしいってなんだ。まさか、前世では十歳近く年下だったのに、クロードはエリザをそんなふうに見ていたのだろうか。
(頭がおかしくなってないなら、どうしてユーシス様は婚約なんて?)
困惑するライラに、ユーシスは軽く肩を竦めた。
「それを説明するには、見てもらうのが一番早いかな」
ユーシスはおもむろに麻のシャツの裾をまくった。涼しげな見た目に寄らず、思いのほか逞しい体がシャツの下から覗き、ライラは頬を染めて飛び上がった。とっさに顔を背けるが、脱ぎ捨てられたシャツがぱさりと落ちる音が耳に入る。
(見るって何!? 裸!? もしかして、そういう展開!?)
ばくばくと心臓が胸から飛び出しそうになって、ライラはぎゅっと目を瞑った。命を取られないだけマシかもしれないが、こっちはこっちで、かなり居たたまれない。なにせライラには、前世も今世もそういう経験が皆無だ。
だけど慌てるライラをよそに、ユーシスの声のトーンは至って平常だった。
「理由はこれだよ。この痣に、見覚えはない?」
「……痣?」
気になる単語に、ライラは薄目を開ける。そういえば、色々あって忘れていたが、ユーシスの怪我を治療したときにとんでもないものを目にしていたではないか。
うっすらとぼやけた視線の先に、上半身だけ裸になったユーシスが映る。その美しく鍛え上げられた筋肉……ではなく。左の脇腹から胸部にかけて禍々しく刻まれた漆黒の痣に、ライラの目は釘付けになった。
「そうだ! 悪魔の早贄の印!」
先ほどまで照れていたのも忘れて、ライラは痣をもっとよく見ようとユーシスに飛びつく。ユーシスが少しだけ動揺して瞳を揺らしたが、ライラは気づかなかった。
(……この痣、大悪魔によるものに間違いない)
改めて間近で観察して、ライラは確信した。浮かび上がる早贄の印の濃さや大きさは、その印を結んだ悪魔の力に比例する。ユーシスに刻まれたそれは、大きさ自体は並みだ。だけどくっきりとした痣の濃さから、元は相当の力を持っていたことがうかがえる。
なにより、燃え盛る炎を模したような、禍々しくも力強いその模様は。
「ケマリ、この痣って!」
『うん。この印はイフリートのもの。イフリートが、ユーシスに早贄の印を刻んだんだ』
ユーシスによれば、早贄の印が体に浮かび上がったのは二か月前の夜中らしい。肌が焼けるように痛んで目を覚ませば、この痣が目に飛び込んできたのだそうだ。
「前世とは、早贄の印が刻まれた場所も、その大きさも異なります。だけどこの模様を忘れるわけがない。だから俺は、イフリートがこの印をつけたのだとすぐに理解した」
「でも、イフリートは翡翠の洞窟に封じられているはずじゃ……」
言いかけて、ライラは息を呑んだ。
「イフリートを封印したとき。私たちはイフリートから多くの力を奪って、聖杖の下に封じ込めた。だけど封印されて尚、イフリートは強力だった。封印の下、彼は魔力の残滓である瘴気を通じて力を蓄え、徐々に封印を侵食しうることがわかった……」
「ええ。魔術師たちが総出で調査した結果、イフリートが封印を解くほど力を蓄えるには、500年以上の月日が必要だと判明した。逆に言えば、イフリートはそれほどにまで弱体化している。だから時の王は逆手にとって、ひとつの決めごとをしたんだ」
それは100年に一度、イフリートの封印を解くというもの。
儀式の間は何百人もの魔術師が翡翠の洞窟に集い、幾重にも結界を張り巡らせる。そうしてイフリートを厳重に閉じ込めたうえで、聖騎士と王宮魔術師の総攻撃をもってしてイフリートの力を削る。そして再び、聖杖でイフリートを封印する。
「今から一年ほど前。聖女エルザがイフリートを封印してから300年の節目を迎えたその日に、封印の儀は行われた」
「知っています。その日は、私たちの村でもお祭りをしましたから」
一年前を思い出して、ライラは頷く。300年前の偉業をたたえ、100年に一度邪気を祓う。二つの意味を込めて、封印の儀が執り行われる三日間、レミリア王国の各地では盛大に祭りが開かれる。ライラたちの村も多分に漏れなかった。
「封印の儀はつつがなく執り行われた。呼び起こされたイフリートの本体は、まだ悪魔と呼べるほどの実体はなかった。そこからさらに聖騎士と聖魔術師が入念に力をそぎ落とし、再び聖杖に貫かれて眠りについた。――そう、思っていたのだけど」
「ユーシス様は、イフリートの封印が失敗したと考えているんですね」
ライラが後を続けると、ユーシスは膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
「ああ。ただ、イフリートを聖剣が貫くところは多くの者が見ているし、聖杖の下に悪魔の力が封じられていることは何度も確かめた。だから俺は、本体ではなくイフリートの一部――分身と呼ぶべきモノが、儀式の間に逃亡したのではと考えているよ」
『まさか! いくらイフリートでも、そんなことをするのは不可能だ』
驚いて声を上げたのはケマリだ。ライラとユーシスの間を飛び回って、白いむくむくの体をジタバタさせて抗議する。
『分身ってのは、魂を切り分けて作るんだ。それにはとてつもない苦痛と魂の消耗が伴うって言われている。最盛期のイフリートなら出来たかもしれない。けど、いまの弱体化しきった体でそんなことをしたら、本体ごと消滅しかねないはずだ!』
「だけど成功すれば、外に逃げられる」
ライラが呟くと、ケマリは『うっ』と三角耳をペションとさせた。
認めたくない。ありえないと信じたいのは、ライラも同じだ。だけど直感が告げている。魔王を名乗るイフリートと対峙したとき、彼の悪魔からとてつもない執念を感じた。どんな手段を使おうが、最後に必ず勝ってやる。あれはそういう悪魔だった。
モジモジするケマリを見上げて、ライラはきっぱりと告げた。
「やるよ、イフリートなら。消滅する危険があろうと、そこにどんな苦痛があろうと。わずかでも道を拓く可能性があるなら、あれはやる。なにより、ユーシス様の胸にイフリートの印が現れているのが、その証拠じゃない?」
『嫌な信頼だなあ。けど、うん。ライラの言う通りだ。あいつの一部でも逃がしたなんて、とてもじゃないけど信じたくないけどね』
諦めたように溜息を吐いてから、ケマリは短い前足をちまっと広げた。
『イフリートの分身が逃げたっていう、最悪の事態は理解したさ。それと、君とライラが婚約するってのはどうつながるの?』
「あ、そうだった」
そもそもの話の筋を思い出し、ライラは瞬きした。イフリートの脱走という大事件のせいで忘れていたが、もとはといえばユーシスが突然「婚約者になってほしい」などという出すから、そのわけを聞いていたんだった。
答える前に、ユーシスはベッドの上に放置していた麻のシャツを取り上げ、着込んだ。もとの姿に戻ってから、彼は改めて口を開く。
「婚約といっても、俺がライラさんに求めるのは契約婚約だ。ライラさんには、俺の婚約者の振りをしながら、イフリートの分身を追うのを手伝ってもらいたいんだ」