5.
「ありえないでしょ!」
その日の夜。父ハリーとライラから事の顛末を聞いた弟ルイと母ローズのうち、ルイが目を三角にして怒った。天使のように可愛い顔をしたルイが怒ると、幼いのにかなり迫力がある。父はびくりと肩を揺らしてから、もじもじと人差し指を付き合わせた。
「だよねえ。父さんもびっくりしたんだけどね。けどさ。そういえば王族とか貴族って、そんなもんだよね。長らく縁がなかったから、忘れてたけどさ」
「そんな呑気なこと言ってる場合!? とっとと断んなよ! 食事も寝床も用意してやったのに、姉さんまで差し出せだなんて、どれだけ面の皮が厚いんだよ!」
「しぃ、しぃーっ! 聞こえちゃうから、ルイ。殿下に聞こえたら、それだけで不敬罪になっちゃうよ……」
「いいよ、なろうよ。不敬罪ついでに、僕があいつをこの家から叩き出してやるよ!」
「ひいぃ! 一旦落ち着いて!?」
金髪を逆立てて走っていこうとする息子を、ハリーが慌てて羽交い絞めにする。その横で、母ローズは冷静に分析していた。
「どうかしら。ご挨拶したときに顔を合わせただけだけど、お母さんにはあの方、その場限りで女の子を捨てるような人には見えなかったわ」
「そ、そうだよね! お父さんもね、そんな気がしたんだよね」
妻のお墨付きをもらえたことで、ハリーがホッと顔を綻ばせる。
母は昔から人を見る目に定評がある。特に対男性に関しては、「遊び人か? 浮気性か? すなわちクズ男か?」を見抜く目に優れており、年頃の娘から「気になるあの人がどんな人間か見て欲しい」と相談が殺到するほどだ。
元気を取り戻して、父は嬉しそうに力説する。
「ユーシス様は『お話ししたい』って言ってたし、今夜は本当に、お話しするだけじゃないかな。それか、ライラが嫌がったら無理に先には進まないとか。そうだよ。きっとあの方は、そういう誠実なひとだよ!」
「はあ? 寝ぼけてんの? 絶対断れない相手に声を掛けてる時点で、誠実な男のわけないでしょ!」
「だって、そう思わないと、父さんの心がもたない!」
「だから断ってこいって!」
「静かになさい、二人とも。一番不安なのはライラなのに、あなたたちが狼狽えてどうするの!」
ぴしゃりと母ローズに叱られ、父とルイは同時に「ぐう」と黙る。いまだ不服そうなルイをもう一度睨んでから、ローズは様子を窺って黙っていたライラの顔を覗きこんだ。
「あなたももう十六歳だもの。普通の貴族の家なら、縁談があってもおかしくない年ね」
微笑んでから、ローズは真剣な顔をした。
「一夜限りの関係でないのなら、間違いなくこれは、貴族の娘として名誉なこと。だけど頷けば、どういう展開になったとしても、あなたの周りの世界は変わってしまう。――自分で選びなさい。ユーシス様の部屋に行くか、行かないか」
「お母さん……」
まっすぐに問われ、ライラはようやく心が決まった。というより、とうの昔に心は決まっていたけれども、両親を心配させたくなくて尻込みをしていた。その背中を、ぽん!と押してもらえた気がした。
ホッとして、ライラは笑って首を振った。
「断らなくて大丈夫。私、殿下のお部屋に行くわ」
「姉さん!?」
「私も、お父さんとお母さんと同じ印象を、あの人に持ったの。それにクズ男なら、大真面目に正面からお誘いなんかしない。言葉巧みにうまくかどわかして、裏で好き勝手遊ぶんじゃないかしら」
「それは……まあ、そうかもだけど……」
「それに……」
「それに?」
全員から首を傾げられ、ライラは逡巡する。けれどもすぐに、にこりと笑って誤魔化した。
「ううん、なんでもない」
「なに!? お父さん気になる!」
「あいつを殴ればいい? 殴ればいいんだね!」
「大丈夫よ、お父さん。あとルイは、本当に一旦落ち着いこう?」
いまだ動揺が抜けない父と弟に苦笑しながら、ライラはひとり決意を固めた。
あの王子には直接確かめなければならないことがある。そう、ライラは表情を引き締めた。
夜の帳がすっかり下りた頃、ライラはひとり、この家で唯一客間といえる部屋の前にいた。
食堂を即席の大部屋にして詰め込んだほかの兵たちと異なり、ユーシスにだけは一人部屋を用意した。王子に雑魚寝を強いるのは流石に……という配慮が半分、ライラとの『約束』への考慮が半分だ。
食器棚の奥に眠っていた泣けなしの見栄えのいいグラスを引っ張り出し、入念に洗ってから念のため酒の準備を整えた。
それらを手にライラが扉を叩くと、中から誰何する声が返ってきた。ライラが名乗ると、ユーシス本人が扉を開けてくれた。
「来てくれたんだね」
ライラの顔を見ると、ユーシスははにかむように美しい顔に笑みを浮かべた。朝靄に霞む草原にひとつだけ咲く花のようだ。そんな感想を、ライラは抱いた。
当たり前だが室内にいるのはユーシスひとりだった。緩やかに編まれていた銀髪は、いまは解かれている。日中よりもラフな上下に身を包んでいることもあり、外面という鎧を脱ぎ捨てたような無防備な色気を感じさせる。そのせいで、ライラは少しばかりそわそわした。
「どうぞ。そこにかけて」
礼を言って晩酌セットを受け取ってから、ユーシスはライラに椅子を勧めた。その仕草や表情は紳士的で、気遣いに満ちている。傲慢さは欠けらも感じない。
残念ながらマイヤー家の客間に、二人が並んでかけれるソファはなんてものはない。部屋に唯一ある一人用の椅子にライラを座らせてから、ユーシスは銀髪をはらりと揺らし、ライラと向き合うように質素なベッドに腰掛けた。
魔力を流して点火するタイプのランプだけが、部屋の中を照らす。橙色の灯りに頬を染めて、ユーシスは心から嬉しそうに微笑む。
「ライラさん。あなたが来てくれて、俺はとても嬉しい」
その微笑みがあまりにきらきらと眩しくて、一瞬、本当にユーシスに女性として求められているのだと勘違いしてしまいそうになる。だけど、純粋にときめくには、ユーシスの登場には色々と不自然なことが多すぎた。
(部屋にまで乗り込んだんだもの。確かめなきゃ!)
ぐっと拳を握って、ライラは空中に呼びかけた。
「ケマリ! 出てきて!」
『いーよー』
すぐにキラキラと光の屑が舞い、くるりと回転しながらケマリが空中に姿を見せる。ユーシスの涼しげな瞳が、一瞬ちらりとそちらに動いたのをライラは見逃さなかった。
「やっぱり。ユーシス様はケマリが見えるし、声も聞こえてますよね。私が名乗る前から、あなたは私の名前を知っていたもの」
「!」
ユーシスは答えない。一瞬だけ「しまった!」という顔をしたものの、興味深そうにライラが続けるのを待っている。だからライラは、さらに深く切り込んだ。
「それだけじゃありません。ユーシス様はどうして怪我をしたんですか? 今日、裏山に魔獣なんかいなかったのに」
「そんなことまでわかるんだね」
ケマリが現れたときと違って、ユーシスは純粋に驚いた。
(何度確かめても、裏山の結界が破られた形跡はなかったもの)
いまだ目的が読めない王子を前に、ライラはひとり思い出す。
ユーシスたち一行をもてなしたあと、ライラはこっそり裏山に戻った。裏山も含めてこの村には、複数箇所に瘴気除けの呪印を刻んでおり、呪印同士を繋ぐようにして結界を張り巡らせておる。結界内で異常があれば、ライラに伝わるようになっている。
はじめは結界のどこかに綻びが生じたのかと思った。だけど何度確かめても異常はなく、それどころか瘴気の痕跡もどこにもない。魔獣と戦闘になったのなら、その周囲に瘴気の毒が少しは残っていないとおかしいのに。
導き出される答えはひとつだ。今日、裏山に魔獣はいなかった。にもかかわらず、王子は負傷していた。それも、ただの傷ではなく、瘴気の毒を孕んだ傷を。
「あの怪我、自分でつけたんですよね? 魔獣に襲われたように装って、わざと私の前に倒れた。目的はなんですか? ……もし、私の家族を傷つけるつもりなら」
「それは違う!」
慌てたようにユーシスは口を挟む。まるで、彼自身がどこから説明したものか迷っているようだ。だがそのとき、ケマリが素っ頓狂な声を上げた。
『あーーー! 思い出した! あーーー!!』
「なによ、ケマリ。いきなり大きな声だして!」
『わかった! 僕、わかっちゃったよ! この人が誰なのか!』
興奮するケマリに、ライラは戸惑う。誰もなにも、この人は第一王子のユーシス殿下だ。それとも、まさか正体までもを偽っているのだろうか。
そんな疑問が顔に滲んだのだろう。ケマリはもどかしげに空中でジタバタした。
『違うよ、違う。この人もライラと一緒だよ! この人の魂の匂いは……』
「待ってください、ケマリ様。その先は、自分で伝えたい」
ユーシスが立ち上がる。水晶のように美しい瞳で真剣に見つめられ、今更のようにライラはどきりとした。ライラが無意識にこくりと息を呑んだとき、ユーシスが不意に跪いて、ライラの白い手を取る。そして、驚くべきことを告げた。
「ひさしぶり、ライラさん。――いや。エルザさん。俺はクロード。前世、あなたに退治していただいた『魔王』です」