6.
――最大回復は人間の魔術師が使える最上級の回復魔術だ。その取得には多大な鍛錬と底なしの魔力が必要と言えども、人が使いうる範疇のもの。だからライラも、目の前で倒れたユーシスに迷いなくそれを施すことが出来た。
だが、これからライラがしようとしていることは、人の身の枠を越えている。人間よりもよほど魔力に適した存在――精霊の力を借りた者だけが、扱える枠組みの魔術。それを使ってしまえば、ライラはもう「治癒魔術が得意な一般人」ではいられなくなる。
それでも。
(ユーシス様を助けたときに誓ったはず。もう誰も奪わせないって!)
「ケマリ!!」
凛と叫び、空に手を伸ばす。契約の証しの模様がライラの額に浮かび上がり、ポン!と何もない空間が弾けて、本来の姿である子犬フォルムのケマリが出現する。
青空の下でくるりと回って、ケマリはばちこん!とウィンクをした。
『オッケー、契約者様! 僕は何をすればいい?』
「お願い。力を貸して!」
『お安い御用!』
光の精霊!? 大精霊ケマリ様!? なぜここに!? そんなざわつきが、あちこちから上がる。それには構わず、ライラは両手を握り合わせて固く目を瞑り、詠唱を始めた。
「“私は汝の御使い。汝が愛、汝が慈悲のもと、私は救いを求める”」
ライラとケマリの体が淡い光で繋がる。正確にいえば、ケマリからライラに向けて光の魔力が注がれているのだ。穢れなき魔力が、ライラの平々凡々な栗色の髪を眩い黄金色に、明るい空色の瞳を同じく神々しいまでに美しい金色に染め上げる。
顔かたちは前世のそれとは違う。――しかし、全身に光の加護を受けた眩い姿は、伝承に残る聖女エルザに瓜二つ。それを晒すことさえいとわず、ライラは力強く叫ぶ。
「精霊の恵みを我らが頭上に!」
――それは、もはや爆発だったと、のちに居合わせた人たちは語った。
あまりに力強く、あまりに神々しい光が広場を呑みこむ。その光は傷ついた人々を癒し、消耗した魔術師たちを回復させ、優しく包み込む。その中心に座り込む少女は、瞬きすらも許さないようにして、全身を瘴気の毒に呑まれた一人の騎士に魔力を注ぎ込む。
(お願い。効いて……!)
ライラが手を翳す下に、ウィルフレドは先ほどと変わらずに意識なく倒れている。その体の中では、瘴気の毒とライラが注ぐ回復術式が、激しい攻防を繰り広げている。毒による変色は、広がりもしなければ、狭まりもしない。精霊の術をもってしても、完全な拮抗状態だ。
だけど。そんな永遠な一瞬のあと、動きがあった。ウィルフレドの体表を覆っていた黒い穢れが、みるみるうちに薄まっていく。ライラは、ウィルフレドを蝕む瘴気の毒に勝った。深く深く、心の臓まで呑みこもうとしていたそれを、間一髪で祓ったのだ。
「…………っ」
「ウィルフレド!」
ウィルフレドの胸が膨らみ、呼吸が戻る。気づいたユーシスが、身を乗り出す。瞼がぴくりと動いて、弱々しい眼差しがそこから覗いた。
「ユーシス様……? 私は……一体……」
「ああ、よかった! いや。まだ喋るな。とにかく、助かってよかった!」
「信じられない……」
「ああ。まるで……いや、間違いなく奇跡だ」
ダグラスが茫然と座り込み、それに頷いたグウェンが畏敬を込めてライラとケマリを見上げる。それにつられて、ウィルフレドがおぼつかないながらもライラに視線を結んだ。
「あなたが……? 私を、助けてくれたのか……?」
「まあね」
微笑みながら、ライラは急速に眠気を覚えていた。それもそのはず。精霊に力を借りる魔術は、効果が大きい反面で反動も大きい。しかもケマリの力を借りるのは転生してからは初めてのことだ。魔王討伐隊として鍛錬していた前世ならまだしも、いまのライラにはちょっとばかり身に堪える。
だけど、これっぽっちも後悔はしていない。
「無事でよか……った……」
「ライラさん!」
ホッとしたのもあるのだろう。瞼が重くなり、そのままライラは倒れる。驚いたユーシスが慌てて抱きとめると、その腕の中でライラはすやすやと眠っている。
――普段よりあどけない、安心しきった寝顔を見下ろしながら、ユーシスはぎゅっと胸が掴まれるような心地がした。
(君はまた、そうやって無茶をして……)
絶対に助ける! そう叫んで、光の加護を纏って突っ込んできた前世の姿が、ありありと瞼の裏に浮かぶ。姿かたちは変わっても、その気高さは消えやしない。やはり彼女は、聖女と呼ぶにふさわしいひとだ。
前世、ライラが真に聖女であったことを知るのはユーシスだけ。しかし、似たようなことを心に思い浮かべたのは、ユーシスだけではなかった。
「傷がふさがっている……」
「腕が動く……。さっきまで、繋がってすらいなかったのに……?」
「火傷が、火傷のあとすらなくなっている……」
戸惑いと喜びがあちこちに広がっていく。ライラが放った魔術で、応急処置だけを施されて横たわっていた人々の負傷が、完全に治癒されたのだ。奇跡を目の当りにした人々は、はじめ戸惑っていた。だがやがて、誰が言い出すでもなく声を上げ始めた。
「ライラ様は聖女だ」
「聖女エルザの再来だ」
「……聖女ライラ万歳!」
「ライラ様万歳!!」
万歳、万歳!と、意識のある者たちは皆、声を合わせてライラを称える。
そんなこと知る由もなく、ライラはすやすやとユーシスの腕の中で眠っていた。




