1.
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夢を見ている。その自覚が、ユーシスにはあった。
耳を突きさすのは誰かの悲鳴。何かが焼ける匂い。誰かの涙。憎悪。恐怖。様々な情報が深い靄の向こうで蠢きひしめき合い、同時にそれを愉しんでいるどす黒いナニカに、強い吐き気を覚える。いっそのこと消えてしまいたい。……何も、わからなくなりたい。そんな願いが、何度も胸を占める。
ああ。いやだ。いやだ、いやだ、いやだ。耳を塞ぎ、うずくまる。だけど、それは何の救いにもならない。なぜなら、今の自分に体などと呼べるものはなく、外から雪崩れ込む情報を遮断するすべはない。目を逸らすことも出来ず、といって自分から体を奪ったモノを止めるすべもなく、ただただ誰かの悲鳴に胸を焼かれ続ける。それが、いまの自分。
ごめんなさい。誰かの悲鳴に、絞り出すように答える。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。あなたを苦しめて。あなたの大事なひとを傷つけて。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
“それは違います!!”
身を縮めたそのとき、誰かの声が聞こえた。狼狽えながらそちらをみれば、沼の底のような重苦しい暗闇の奥で、小さな光が揺らめいているのがみえる。
その光の向こうで、誰かが手を伸ばして思い切り叫んだ。
“あなたは謝らなくていい。あなたが苦しまなくていい。あなたが言うべきなのは、『助けて』の一言だけです――――!!”
はっと、ユーシスは広いベッドの上で目を開いた。
呼吸が荒く、胸の鼓動が早い。頬も濡れている感触がある。まさか自分は、泣いていたのだろうか。呆れると同時に、思わず安堵して片手で顔の半分を覆ってしまう。夢でよかった。もう二度と、あんな思いは……。
ベッドを抜け出したユーシスは、窓辺に置いておいた水差しからゴブレットに水をそそぐ。喉を滑り落ちる冷たい感覚に、この体は間違いなく自分のものだという実感がわいて安心する。軽く汗を拭ってから、ユーシスは窓辺にもたれて外を眺めた。
今のは前世の夢だった。夢という言葉で片づけるのも戸惑われる。妙に生々しい、イフリートに体を奪われていた最中の記憶。たぶんあれは、身体を奪われてすぐの頃だった。
「悪夢、か」
言いえて妙だと、ユーシスは苦笑した。あれはまさしく、悪夢と似た感覚だった。己の体を奪ったイフリートが、嵐のように恐怖と混沌をまき散らす。その中心にいながら――人々の悲鳴を聞きながら、自分では何もできない。あれを悪夢と呼ばずしてなんとしよう。
だけど―――だけど。自分を責め、消えてしまいたいと恐怖するクロードに、エルザの声が何度も届いた。「助けて」と泣いていい。「苦しい」と叫んでいい。自分が必ず、その中からあなたを救い出す。
他の兵がクロードを亡き者として扱うなか、エルザだけがイフリートに囚われた『クロード』を諦めず、何度も呼びかけてくれた。……イフリートに苦しむ多くのひとたちと同じように、クロードも救うべき相手だと。そう、足掻き、戦ってくれた。
思えば、エルザは最初から変わっていた。
生まれつき悪魔に呪われた王子として幽閉されていた前世で、クロードに好意的な者などそれまで誰一人としていなかった。
言葉は、せめてもの情けとばかりに放り込まれた本と、部屋の外の衛兵たちが話しているのに耳を澄ませて覚えた。自分と口を聞くものはいなかった。みんな気まずげに目を逸らし、用が終わるとそそくさと逃げていく。そんな相手しか周りにはいなかったから、疑問に思うことすらなかった。悪魔の子。そう呼ばれていたと、のちに知った。
だけどエルザだけは、自分を人間の子供としてごく普通に接してくれた。
“はじめまして、クロード様。私はエルザ。今日から、あなたのお世話係に加わった者です”
にこりと微笑んで告げたエルザははじめ、珍妙な生き物に見えた。これまで自己紹介をしてくる相手なんかいなかったから、嬉しく思うよりとにかくびっくりした。
部屋にいる時間が短いのはエルザも同じ。てきぱきとクロードの体を調べて、早贄の印が広がっていないか確かめる。悪魔の毒が強まる兆しがあれば、浄化の魔術を施して毒を弱める。それらが済むと、さっと部屋を後にする。
その短い間に、エルザは普通にクロードに声を掛けてきた。体の調子はどうですか。この頃、冷えてきましたね。今日は苦しそうですね。一緒に頑張りましょう。少し楽になりましたか、よかった――……。
エルザに言わせれば、世話役としての範疇を出ない、必要最低限の声掛けのつもりだったのだろう。だけどそもそも、クロードに何かを問いかけ、答えを聞き出そうとする者すら初めてなのだ。当然、クロードは戸惑った。
だけど、エルザの到来が待ち遠しくなるのに、時間はかからなかった。
「…………まいったな」
悪夢の余韻が去っていくのに比例して、かつての淡い想いが顔を覗かせる。そのことに苦笑しながら、クロードは夜風になびく髪を抑えた。
初恋。そう呼んで差支えのない感情だったと思う。自信がないのは、親しい相手がエルザ以外にいなかったから。だけど、それがどういう種類のものかはさておき、自分がエルザに好意を抱いていたのは間違いがない。
その証拠に、マイヤー村に「聖女エルザの再来」と噂されるほど魔術薬の調合に長けた娘がいるらしいと聞いたとき、ユーシスの胸は弾んだ。その瞬間は、早贄の印のことを一旦忘れてしまったほどだ。
その娘は、自分と同じように生まれ変わったエルザじゃないだろうか。会いたい。会って、確かめたい。だけど、何も覚えていなかったらどうしよう。そもそも、本当にエルザの生まれ変わりだろうか。ちがったら、どんなにか落胆するだろう……。
だから、ライラがエルザの生まれ変わりだと確信したときは、本当にうれしかった。同時に、自分を戒めもした。
前世のあれは、特殊な環境下で芽生えた勘違いのようなものかもしれない。なにより今の自分はクロードではなく北の砦の主・ユーシスで、彼女も聖女エルザではなくただのライラだ。かつての淡い気持ちを押し付けても、彼女を困らせてしまうだけ。
クロードとエルザとしてではなく、ユーシスとライラとして。フラットな気持ちで、新たに関係を築いてければ。偽装婚約を持ち掛けたのだって、あくまでイフリートの分身をあざむくのに効率が良いと判断したからだ。
――なのに、それなのに。ライラは、あまりにも変わらない。飾らない言葉が嬉しくて。ころころ変わる表情が楽しくて。まっすぐな瞳がまぶしくて。力強い言葉が愛おしくて。
記憶の中に焼き付いたエルザのぬくもりが、ライラの形になって再びユーシスを包み込む。年齢差はすっかり逆転したのに、ライラの一挙手一投足に浮き足立ってしまう。先日の騎士修練場なんか、本当に危なかった。すべてが終わるまでは何も伝えまいと心に決めていたのに、つい想いが溢れてしまいそうになった。
「ライラさん――エルザ。俺は、君のことが……」
夜空に想いを託そうとして、ユーシスは途中で考えなおした。そして、今はまだそのときではないと、唇を引き結ぶことを選んだ。
ライラと結んだ契約は最長で一年。それはイフリートの分身の活動限界を見据えての期限であって、分身を倒せば偽装婚約を続ける理由がなくなる。いまのままでは、ライラはマイヤー村に戻ってしまう
だけど、いまは王国の危機を未然に防ぐという一大局面だ。大体、ウィルフレドが協力者だと決まったわけではないし、仮に正解だった場合もイフリートの分身と戦闘になる可能性もある。
協力者を見つけ出し、イフリートの分身を滅ぼす。その時こそ、自分は。
肌を這う早贄の印に宣戦布告するようにそう誓って、ユーシスは窓辺を離れたのだった。
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