2.
ライラは五人兄弟の長女だ。ルイの下に二人の妹、さらに末の弟がいる。
下の子たちはまだ幼く、特に末の弟なんかまだ四歳だ。父も母も弟たちの世話や領地経営でてんてこまい。裏の畑を耕すのはもっぱらライラとルイの仕事だ。
「あらあら。領主様さまのおうちは、今日も仲良しねえ」
荷車に芋を乗せてガラガラと山道を下っていると、途中で村のおばあちゃんに会った。裏山はマイヤー家の土地だが、せっかくの土地を独り占めしてもしょうがないので、村人たちに開放している。そのため、開けた場所のあちこちに小農園がある。
このおばあちゃんも山に畑を持つ一人で、ライラもルイも小さい頃から顔なじみだ。だからライラは、ルイの引く荷車に乗ったままおばあちゃんに手を振った。
「見て、マーサおばあちゃん! 今年は土が良かったみたいで、こんなに大きな芋がたくさん採れたの!」
「あらあら。これは本当に立派なお芋だねえ」
「あとでお家に持っていくわ。よかったら食べてみて」
「いつもありがとねえ。お礼に、うちの畑の野菜もおすそ分けするわねえ」
にこにこと笑って、マーサおばあちゃんは山を登っていく。その背中を見送ってから、ライラとルイは再び山を下り始める。
「変な感じだよね。一応僕たち、国を救った聖女様の末裔なのに」
面白がるような口ぶりで、ルイは荷車を引きながら肩を竦めた。
「聖女エルザの名前は五歳の子供だって知っているし、彼女の偉業は色んな本に載ってるのにさ。子孫の僕たちが畑で芋掘って領民と分け合って食べてるなんて、都に住んでいるひとたちが知ったらびっくりしちゃうんじゃないかな」
「しょうがないわよ。我が家はそういう血筋だもの」
軽く笑って、ライラは人差し指を立てた。
「お人好しの家系で、すぐに私財を投げうっちゃうし」
「馬鹿正直な性分で、駆け引きは苦手だし」
「困っている人は放っておけないし」
「一攫千金の強運はないし。むしろ損を引きがちだし」
振り返ったルイと顔を見合わせて、ライラはけらけらと笑った。
「そのせいで私たち、すっかり没落貴族だもんねー」
「貴族かどうかも怪しいよ。領主の家って意味じゃ、間違ってはいないけどさ」
同じく笑って、ルイも頷いた。
栄光の影もなければ地味な暮らしだが、悪くないとライラは思う。過去の記録を読み解けば、代々のマイヤー家の当主は愚直で実にお人よしだ。そのために古城や優秀な使用人はとっくに手放しているし、いまや治めている土地も最盛期の半分にも満たない。
けれども村のみんなとの関係は良好だ。マーサおばあちゃんのように、同じ村の仲間として受け入れてもらっている。奉公先をマイヤー家が工面し、別の貴族のもとへと去っていった使用人の子孫たちも、いまだにマイヤー家を気に掛けて時々訪ねてくる。
いまある絆は、先代たちが愚直に誠実に人々と向き合ってきた結果だ。そう考えたら、こんなに素敵なことはないだろう。
(ずっと、こんな日々が続けばいいなあ)
風に髪を揺らしながら、ライラは木々の向こうに広がる青空を見上げた。
平和で、穏やかで、これといった目新しさもない当たり前の日々。だけど、それこそが幸せなのだと、ライラは前世の経験でよく知っている。
今日の風もいい風だ。満足して目を閉じようとしたとき、ぽん!と目の前に、白い毛むくじゃらの毛玉が現れた。
『ライラ、ライラ! えらいこっちゃだよ!』
「きゃ!!」
思わず声を上げてから、ライラは慌てて両手で口を塞ぐ。だが悲鳴が耳に入ったルイが、振り返って不思議そうに首を傾げた。
「どうかした、姉さん?」
「う、ううん。そう、蜂! 目の前に蜂が飛んできて、びっくりしちゃって」
「え、大丈夫? 刺されなかった?」
「平気! すぐに飛んで行っちゃったから」
乾いた笑いで誤魔化すと、ルイは不思議そうに眉根を寄せる。その弟が正面に顔を戻した途端、ライラはいまだ目の前でふわふわと主張するまっしろの毛玉――子犬に羽が生えたような姿をした使い魔に小声で抗議した。
「だめでしょ、ケマリ! 他に誰かがいるときは隠れててっていったじゃない!」
『ごめん、ライラ。僕、びっくりしてあわてちゃってたから』
耳をペションとさせて、ケマリが申し訳なさそうにする。
ケマリは光属性の精霊だ。こう見えて――といっても、マイヤー村でケマリの姿が見えるのはライラだけだが――300年前、ライラがまだエルザだった時に縁を結んだので、そこそこ長く生きている。
ケマリと再会したのは五年前。エルザが生涯を終えたあと、ケマリはしばらくマイヤー家を見守り助けていたが、ここ最近はすっかり眠っていたらしい。けれどもエルザと同じ魂の匂いを嗅ぎ取り、目を覚ましてライラに会いに来てくれたのだ。
精霊の姿を見たり言葉を交わしたりできるのは、強い魔力を持つ者だけだ。おかげで、ライラが再びケマリと契約したことを知る人は、マイヤー村にはいない。
だけど、もしも強い魔力を持つ誰かが村を訪れたなら。ケマリとライラが話す内容を聞いて、ライラが聖女エルザの生まれ変わりだと気づいてしまうかもしれない。
残念ながら、それはライラの望むところではない。聖女の生まれ変わりとして持ち上げられるのはいやだ。平和に大人しく、ただのライラとして田舎生活を送るのが今の彼女の望みだ。
だからライラは、ケマリとの会話を誰かに見たり聞かれたりしないよう気をつけてきた。ケマリにも、ライラが誰かと一緒にいるときには姿を見せないよう、口を酸っぱくして言っていたのだが。
「なのにどうしたの? なにか緊急事態?」
ひそひそライラが囁くと、ケマリはアーモンドのような目をきらんとさせて、ちまちまと短い足を振り回した。
『そうだよ、ライラ、そうなんだ! えらいこっちゃだよ。僕らがいるすぐ近くに、悪魔の匂いがする!』
「え!?」
今度こそライラは大声を上げた。ルイが再び「姉さん?」と振り返るが、もう気にしている場合じゃない。両手を荷車について、ライラはケマリに詰め寄った。
「悪魔の匂い? 瘴気とか魔獣じゃなくて?」
『うん。まちがいないよ。すっごく微かだけど、間違いなく悪魔の匂いがする!』
「大変……!」
ライラは焦って、もと来た道を振り返る。頭をよぎるのは先ほどすれ違ったマーサおばさんや、ほかにも隣の畑を耕していた村の人たちの姿だ。
瘴気というのは、かつて大陸を暴れ回った悪魔の力の残滓だ。そして魔獣というのは、瘴気から生まれ出る狂暴な獣のようなもの。つまり、どちらも悪魔の魔力から生じるものである。しかも悪魔には、好んで人間を襲うという習性がある。
(イフリートを封印してから、悪魔は大陸から姿を消したはずなのに!)
疑問はつきないが、とにかく今は考えている場合じゃない。ケマリを肩に乗せて、ライラはぴょんと荷車を飛び降りた。
「ごめん、ルイ! 私、急用が出来ちゃった!」
「急用!? 裏山で? さっきまで芋を掘ってたのに??」
「お母さんにも言っておいて! あまり遅くならないうちに家に帰るからって!」
目を丸くするルイに手を合わせて、ライラは勢いよく地面を蹴って駆けだそうとする。――けれどもそのとき、すぐ近くの茂みがガサリと揺れた。
『きたよ、ライラ! 悪魔の匂い!』
「下がって、姉さん!」
ケマリが叫ぶのと、荷車を置いて駆け寄ったルイが、庇うようにライラの前に出るのが同時だった。せっかく綺麗に荷車に積んだ芋が、反動でころりと地面に転がる。
ぴんと張りつめた空気に、二人(と一匹)がごくりと息を呑む。一拍置いて、茂みが割れて一人の背高の男が、よろめきながら木々の合間から道に出てきた。