水見さんはご飯に誘いたい ②
今日最後の講義を受け終えると、そのまま経済学部棟内にある情報処理教室に行き、パソコンで定期試験の時間割を確認する。それと同時にレポート課題の内容にも目を通し、それぞれ印刷した。
このまま真っ直ぐに帰って、水見さんの部屋に行ってもいいのだが、これだと期待してがっつきすぎていると思われるのではと考えると、足は部屋の方には向かなかった。ふらりとバイト先のアミューズメント施設内の事務室に顔を出し、試験の日程を見せながら試験期間中のシフトの融通を再度お願いし、試験後の夏休みに埋め合わせでシフトを多めに入れることになった。
そして、施設内のバッティングセンターでボールとともに煩悩を打ち払い、程よく体を動かすことで空腹感を高めた。
アパートに帰ってきて、自分の部屋のある階まで上ってくるとほのかにカレーの匂いが漂ってきた。自分の部屋に近づくにつれ、その匂いは強くなっていき、匂いの元が水見さんの部屋からだと気付いた。
「こういうカレーの匂いって、腹減ってるときはやばいよなあ」
そう自分の部屋の玄関の前で呟くと、お腹がぐうと鳴り自分の言葉を肯定する。部屋に入り、荷物を置き、財布とスマホ、鍵だけを手に再度自分の部屋から出て、隣の部屋へ。
水見さんの部屋の前で、一度深呼吸をして、ゆっくりとインターホンを押す。
すると、ガチャリと鍵の開く音がして、ゆっくりと扉が開かれる。おずおずと顔を出す水見さんが、来客者であるこちらの顔を確認するやいなや、警戒を解いて、表情から緊張が抜け落ちていくのが分かった。頬と目から力が抜けていくのが見て取れ、ホッとしたんだろうなと察することができたからだった。
そして、しっかりと開かれた扉の向こうにはエプロン姿の水見さんがいた。
「どうぞ」
水見さんの声に促され、「おじゃまします」と部屋の中に入った。キッチンのコンロには匂いの発生源であろう鍋が見えた。それを横目に水見さんに促されるがまま、以前来た時と同じ場所に座った。
「ねえ、小寺くん」
「えっと、なに?」
「ご飯、カレーにしてみたんだけどよかったかな?」
一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。
「いいもなにも、作ってくれるだけありがたいし、文句も何もないよ。それにカレー好きだし」
「よかった。チキンカレーだけど大丈夫?」
「もちろん。肉が入ってるだけでも嬉しいってもんさ」
水見さんは首を傾げている。そして、真顔のまま「もしかして鶏肉じゃなく牛肉の方がよかった?」と尋ねてくる。その返しがなんだかおもしろくて噴き出してしまう。それを見て、水見さんは不安そうに傾げる首の角度が深くなる。
「そうじゃないんだ、水見さん」
「じゃあ、どういう?」
「いやね、いつだったか忘れたけど、川村がカレー作ってさ。って、川村ってわかる? 同期で同じ学部の川村真也。学校とかで俺とよく一緒にいるちょっと強面の背とかでかいやつなんだけどさ」
水見さんが眉間にわずかに皺を寄せたあと、ハッと皺が解け、思い当たる人物がいたのか、数度頷いて見せる。それを確認して話を続ける。
「それで、その川村がこだわりのカレー作ったから食べに来いと言われて行ってみてればさ、肉が入ってなかったんだ。肉どころか具材も。なんというか、野菜をペーストにして具材の形がなくなるまで煮込んだ完璧なスープカレーだってドヤってきたんだよ」
「それはある意味すごいね」
「そうそう。で、味は本当に美味しかったんだけど、物足りなくてさ、近くのコンビニでフライドチキンやら買って一緒に食べたら、川村にガチギレされたことあってさ」
思い出し笑いで一人笑って、水見さんを置いてけぼりにして何を話してんだと顔をあげると、水見さんも口元を隠して肩を揺らしていた。それを見て、なんだか嬉しくなり一緒に笑う。
「そういうことならちゃんと肉を入れて、具材も煮崩れさせないようにしてよかったよ」
水見さんはクスクス笑いながらそう口にする。そして、「すぐ食べる?」と聞かれたので、頷いて見せる。
水見さんはカレーと付け合わせに野菜のサラダをそれぞれ盛り付けたお皿をテーブルの上に並べる。そして、冷えた麦茶の入ったポットからコップに注いでだしてくれた。水見さんがテーブルの向かいに座り、
「じゃあ、どうぞ」
と、勧めてくるのを待ってから、「いただきます」と手を合わせる。そして、カレーをひとくち口に運ぶ。変に凝っていないので家で食べるような安心感があり、さらには狙ったかのように自分の好みにドンピシャの中辛より少し辛い絶妙な辛さだった。おいしいという言葉だけでは言い表せないものを感じた。
そして、二口目、三口目と口に運ぶ。ふと水見さんが全く手を付けていないことに気付いて顔をあげると、こちらの食べる様をまじまじと見られているようで何かまずいことしたかなと思ってしまう。
「あの、水見さん?」
「おいしい?」
水見さんのその消え入りそうな声を聞いて、ようやく察する。
「うん。めっちゃうまい。こんなにおいしいカレー食べたの初めてかもしれない」
「大げさだよ」
そう言いながらも、水見さんは頬を緩ませ、カレーを食べ始めた。それから会話も少ないまま食べ終えると、水見さんは食後のコーヒーを持ってきてくれた。それを受け取りながら、再度お礼を言う。
「ねえ、小寺くん」
「なに?」
「カレー、余ってるんだけれども、持って帰る?」
「それはとても魅力的な提案だけど、遠慮するよ」
あのおいしいカレーをまだ食べられるのは嬉しいが、そこまでしてもらうのは悪い気がした。
「どうして?」
そう水見さんは伏し目がちに尋ねてくる。
「なんていうかさ、材料費とか料理する手間とか全部水見さん持ちだし、なんだかそこまでしてもらうのは申し訳ないなって」
「そっか。でも、材料費とかは気にしなくてもいいよ。一人分も二人分も作る手間もそんなに変わらないし」
水見さんは「だから気にしないで」と事も無げに口にする。ここまで言われたら、持って帰るという選択肢以外ないように思えた。だから、別のアプローチで解決できないか提案することにした。
「個人的には受けた恩や善意は返したいし、貸し借りみたいなのはできるだけ作りたくないんだよ」
「それで?」
水見さんはまた不安そうにしているのが分かる。肩に力が入っているのが分かるし、口元がきゅっと強張るのが見て取れる。どうして、水見さんはいつもそうにも自信なさげというか、こちらの一挙一動に敏感なのかは分からない。だけど、水見さんを不快にさせる気も、そもそも緊張させる気もないので、ちょっとだけ傷ついてしまう。しかし、まともに話すようになってからまだ数日なので、お互いの距離感に慣れていないだけのかもしれない。それは自分がそうだから言えることだ。
水見さんは言葉の続きが来ないことに、不安を感じたのか視線を落として彷徨わせているようだった。余計なことを考えた頭を一度リセットし、深く息を吸う。
「水見さん、そんな緊張しないで。余ったカレーは明日また一緒に食べよう?」
水見さんはすっと顔をあげる。その表情は一見すると全く変わっていないが、何を言われたのか理解できてないような呆けた顔をしているようだった。
まだ水見さんと関わり合いになって数日なのに、水見さんの分かりにくい表情の変化を察せるようになってきているのがなんだか不思議だった。
もしかすると、水見さんは分かりにくいだけで顔や態度に出やすい方なのかもしれない。
そう思うと、なんだかおもしろくて、かわいくて、小さく噴き出して笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「ごめん。なんだか、水見さんって、分かりやすい人なのかなって」
「そんなこと……」
水見さんは視線を逸らし、髪の毛の先に手を触れながら、聞き取るのも難しいほどの儚げな声で「そんなこと初めて言われた」と口にする。それを耳をすませ、しっかりと聞いた後、
「それじゃあ、明日はどうする? またカレーのまま食べる? それとも、カレーうどん? 奇をてらってパスタにかけてみる?」
と、水見さんに尋ねると、しばらく考えた後に、「パスタ……がいいかな」と答えが返ってくる。
「じゃあ、そのパスタ代は俺が出すから」
「うん。わかった」
少し分かりづらいけども、わずかに口角を上げて嬉しそうな表情の水見さんを見ていると、こちらも自然に笑顔がこみ上げてくる。
水見さんと過ごす時間は、基本的には静かなものだけれど、不思議と居心地のよさを感じ始めていた。
そして、穏やかで静かな夜はゆっくりと更けていく――。