水見さんとそれからの日々
大学の後期の授業が始まり、しばらくが経った。
九月の終わりにもなると、残暑もかなり薄れ、秋らしい涼しく過ごしやすい日が増えだした。
昼休み前の最後の講義を終え、違う講義を受けていた水見さんを迎えに行く。水見さんはラウンジで二人の女子と談笑しているようだった。水見さんは最近、同じ講義を通じて話すようになった今話している女子といることが増えたように思える。
水見さんが俺に気付いて、表情を緩ませる。それにいつものように軽く手を挙げ、気付いていると合図しながら近づいていく。
「ああ、表情が緩んだと思ったら、やっぱり彼氏さんが来たんだね」
「水見さんは彼氏さんに見せる顔が一番かわいいよね」
「そんなことない」
水見さんは少しだけツンとした表情に変わり、「じゃあ、またね」と小さく手を振り、隣にやってきた。ちらりとさっきまで話していた女子の方に目をやると、二人とも楽しそうな表情のまま、こちらに手を振り返していた。
「それでどんな話してたの?」
「服の話とあとは、その……恋人の話?」
「なんで疑問形?」
「なんでもない」
「最近、さっきの子たちとよくいるけど仲良くなったんだね」
「うん。私がただの口下手で感情や表情を出すのが苦手って、分かったらしくて」
「よかったじゃん」
「そうだけど。私のこと、不器用かわいいとか言うんだよ?」
水見さんは不服そうに話してくれる。それを聞いて思わず笑ってしまう。実際に俺もそうだと思っているし、水見さんのことを理解して、同じようにかわいいと言ってくれる賛同者が千冬さん以外に現れたのが嬉しかった。きっと千冬さんも今の話を聞かされたら同じように笑うに違いない。
「なんで笑うの?」
「いや、かわいいなって」
「そうやって、いつもいつも……」
水見さんは隣でぶつぶつ小声で文句を言うも、それさえもかわいくて仕方がない。
夏休みが終わり、後期の講義が始まると水見さんに恋人ができたという噂は学内に一気に広まった。最初は信じない人が多かったが、学内で俺や市成、川村と楽しそうに話す姿や、俺とくっついて歩く姿を見て、否定する人の数は減っていった。
『氷の女王』が夏の間にとけて柔らかい表情を浮かべながら、下民とも話していると話題になり、『氷の女王』は単なる『美少女』という評価に変わった。
しかし、慣れない相手には相変わらずで、半月経ってようやく水見さんを理解して仲良くする相手が現れ始めた。それが先ほどの女子というわけだ。
「それで今日はどうする? 学食?」
「ううん。お弁当作ってきた」
水見さんは鞄を俺にだけ見えるように開いて見せる。中には包みが二つ見えた。
「俺のも作ってくれたんだ」
「もちろん」
「ありがとう。でも、どうすっかな?」
「何が?」
「市成と川村が、先に学食行って、席取って待ってる、って言ってたんだよ」
「じゃあ、学食で食べる?」
水見さんが隣で首を傾げる。
「それでもいいんだけど、どこか空き教室で二人で食べない? あいつらは言えば、いつも仲がよろしいことで、とか皮肉の一つや二つで許してくれるよ」
水見さんはくすくすと笑いだす。
「私も今日は二人がいいな」
そう嬉しそうな笑顔を浮かべながら頷いた。その笑顔に見とれたのは俺だけじゃなかったようで、周囲を歩く男子女子関係なく、水見さんは魅了して視線を集めているかのようだった。
それからお昼を食べ終わり、次の講義のために一緒に歩き始める。残念ながら次も違う講義なので、すぐに別々になる。
「ねえ、今日はバイトある日だっけ?」
ふいに水見さんが尋ねてくる。
「あるよ。次の講義が今日ラストで終わったら真っ直ぐに行く予定」
「帰りは?」
スマホを取り出し、シフトを確認する。
「今日は九時までだし、帰るのは十時前くらいじゃないかな?」
「じゃあ、ご飯作って待ってていい?」
「いいよ。でも、お腹すいたら先に食べていいから」
「わかってる」
水見さんは笑顔で頷いた。
最近ではバイトで帰りが遅い日以外は毎日のように夜ご飯を一緒に食べている。一緒に食べる頻度が増したことで食費は折半というルールが追加された。水見さんは「隣同士なのに一緒に暮らしてるみたいだね」と食費折半のルールを決めたときに嬉しそうに笑っていた。
それから、時間ギリギリまで水見さんと立ち話をして、それぞれ講義を受けるために笑顔で手を振って別れた。
バイトから帰ってくるころには空腹と疲労から一秒でも早く家に帰りたいという気持ちになる。アパートが見えるほど近くに帰ってくるとホッとした気持ちになる。
道路から自分の部屋辺りを見上げると、自分の部屋に明かりがついていて、隣の部屋は暗かった。水見さんとは合鍵を交換していて、最近はお互いの部屋の境界線が薄くなっている気がする。
きっと水見さんは俺の部屋で約束通りご飯を作って待っててくれているのだろう。そう思うと心が温かくなり、足取りが軽くなったように感じた。
アパートのオートロックを抜け、三階まで階段を上がっていく。自分の部屋に近づくとわずかに料理の匂いがした。
自分の部屋の扉の前で、ポケットの中の鍵に触れながら、ドアノブに手をかける。ガチャリと開くのを確認するとそのまま中に入った。
すると、水見さんがすぐに玄関までやってきて、
「おかえりなさい」
と、柔らかな笑顔で出迎えてくれた。その言葉が持つ聞く者を幸せにする力を実感する。
「ただいま」
水見さんにそう笑顔で返す。
「うん、おかえり。それで、ご飯にする? シャワーにする? それとも……お酒?」
水見さんが真面目な顔でそういうので、思わず苦笑いが出る。どこで仕込まれたのやら。しかし、大体の見当はつく。本命は千冬さんで対抗が最近仲良くなった女子、大穴が川村あたりだろう。
「そこは最後は、私っていうところじゃないの?」
そうツッコミをいれながら、後ろ手に鍵を閉め、部屋の中に一緒に入っていく。水見さんは隣を歩きながら恥ずかしそうに顔を伏せている。そして、部屋で荷物を片付けたりしていると、水見さんが、
「私がいいの?」
と、小声で聞き返してくる。それに間髪入れずに、「うん」と頷いて見せる。
「エッチ」
水見さんはそう目を細めて、口元を押さえて笑う。そして、すぐにいつものポーカーフェイスに戻るが最近はその顔もどこか柔らかくなった。
「それでどうする? ご飯すぐ食べる?」
「そうだな。先にシャワー浴びるよ。そのあとお酒飲みながら、ご飯かな」
「わかった。シャワーの間にご飯温め直すね」
「うん。お願い」
部屋着を手にバスルームに向かう。シャワーを浴び、一日の疲れも一緒に洗い流す。すっきりしてバスルームから出てくると、テーブルにはご飯が並べられていた。
水見さんがバスルームから出てきた俺に気付くと、
「ハルくん、晩酌はどうする?」
と、聞いてくる。どうしようかと考えていると、この前ヨシさんから送られてきた焼酎が目に入った。
「そうだな、俺は焼酎ロックにしようかな。アキは?」
「じゃあ、私は水割りにしようかな」
そう笑顔でやり取りをかわす。酒の準備をするのは俺の役目だ。
この前にデートしたときに買ったペアグラスに氷を入れ、焼酎を注ぎ、一つは水割りにする。
それを手にテーブルに戻り、水割りの入ったグラスを手渡しながらいつものように向かい合って座る。
「ありがとう、ハルくん」
「いえいえ。それにしても今日もご飯がおいしそうだね」
「うん。いっぱい食べてね」
「幸せ太りしないかだけが心配だよ」
「そのときは私がダイエットメニュー作るから大丈夫」
そう言うと顔を見合わせて笑い合う。こうやって笑っている時間に幸せを感じる。
以前より少しだけ騒がしくなった日々は、さらに甘いものになった。
焼酎を飲むと氷がからりと心地いい音を立てた――。