水見さんは海に誘いたい ⑨
夜も更けていき、酔いつぶれたヨシさんに肩を貸しながら、千鳥足の千冬さんの手を引き、二人を寝室に連れて行った。そのまま自分の部屋に行き、ベッドに突っ伏して、暗闇の中で回る意識と酔いに目を開けるのも億劫になってくる。そのまま気が付いたらいつの間にか眠りこけていた。
はっと気が付くと、部屋の中も窓の外も真っ暗で隣のベッドからは人の気配が感じられなかった。手探りでベッド脇のサイドテーブルにある照明をつける。やはり隣のベッドは誰もおらず、シーツのちょっとした乱れが人のいた気配を残していた。
水見さんがどこに行ったのか気になり、仮にお手洗いなら気付かないふりをした方がいいのかなと思った。照明を消し、しばらくぼんやりと目を閉じて、窓から入ってくる風と波の音に身をゆだねるも、いつまで経っても水見さんが戻ってくる気配がなかった。もしかして、気を遣ってソファーで眠っているのではと思い、薄手のパーカーを羽織り部屋を出た。
ソファーには誰もおらず、間接照明のみの暗い部屋の中を見渡す。そのときふいに強い風が吹き込んでくる。テラスに続く窓が開いていて吹き込んできたのだ。目を凝らすと、月明かりの中、ぼんやりとテラスの砂浜に降りる階段に人影があるのに気づいた。
テラスにゆっくりと近づいていくと、鼻歌が聴こえてくる。水見さんのお気に入りなのか何度か聴いた優しい旋律のその曲は、やはりなんの曲だったか思い出せない。
そのときミシっと小さく床が鳴った。
「誰?」
水見さんは鼻歌を止め、ばっと振り向いてくる。大きな目が見開き、こちらをじっと見つめてくる。
「……小寺くん?」
「うん。そうだよ」
「どうしたの?」
「目が覚めて、水見さんがいないから探しに来たんだよ」
「そう?」
水見さんは視線を海の方に戻す。
「隣――座ってもいいかな?」
「いいよ」
水見さんの隣にそっと腰かける。月明かりの中、暗さに目が慣れてきて隣の水見さんに目をやると半袖にラフな短パン姿で、手にはおそらく酒であろう缶を持っていた。吹き抜け肌に触れる風は、海の涼しさを運んでくる。
「水見さん、寒くない?」
「我慢でないことはないけど、少し」
羽織っていたパーカーを脱いで水見さんに渡す。
「よかったら着なよ」
「ありがとう」
水見さんはさっきまで自分が着ていたパーカーにもそもそと袖を通す。
「あったかい。小寺くんのぬくもりが残ってる」
「そりゃあ、脱ぎたてほやほやだからね」
「そうだね」
水見さんは少し丈の長い袖部分を持て余し、手の平にかかるそれを見ながら小さく肩を揺らす。
「ねえ、ここで何をしてたの?」
「なんだか眠れなくて、波の音を聞きながら考え事してた」
「考え事?」
「うん」
「なにを?」
水見さんはすぐには答えず、こちらを見つめてくる。目が合うと口角を薄く上げ、目を細める。そして、風に吹かれてなびく髪を押さえながら、
「秘密」
と、口にする。その水見さんの顔は月明かりのなかでも輝いて見え、夜空に瞬く無数の星々より煌めいて見えた。
呼吸をするのも忘れるくらい見とれてしまい、今だけは水見さんと二人だけの世界にいるような気さえしてくる。
「それにしても不思議なもんだよね」
「なにが?」
「いやね、少し前までこうやって水見さんと話すようになるだなんて想像もしなかったなって」
「そうだね。引っ越ししてなかったら、いまだにまともに話もしてないかもしれないね」
水見さんもしみじみと口にする。本当にここに来るまで色々なことがあったなと思った。水見さんと話すようになって時間が経つのがやけに早くなったように思える。
「本当に思い切って、引っ越ししてよかった」
「そっか。俺も水見さんが隣に引っ越してきてくれてよかったよ」
「本当にそう思ってる?」
水見さんは肩を揺らしながら口にする。
「思ってるよ」
「例えば、何がよかったの?」
「おいしいご飯を作ってくれるから、食に関してのクオリティは格段に上がったよね」
「よかったのは私の料理だけ?」
「まさか。それもこれも水見さんと一緒にいられるのが楽しいからこそだし」
「私といて楽しいの?」
「楽しいよ」
水見さんは波音に消え入りそうなほど小さな声で「それは私もだよ」と呟く。
そして、二人して黙り込む。きっとお互いに次の言葉を探しながら、見つからなくても隣に相手がいるからいいかなと思ってしまう。以心伝心したり、言葉を使わず意思の疎通をできるほど、まだ人類も科学も進んでいない。それは水見さんと俺の関係も同じで、お互いにまだ知らないことだらけだ。好きな食べ物や好きな色すら知らない。
ふと、今の状況だけを見れば、最高にロマンチックなシチュエーションに思えた。月と星の綺麗な夜空の下、旅先のロッジのテラスに腰かけ波の音を背景にふたりきり。そして、障害になりそうな千冬さんたちは大量に酒を飲んで部屋で爆睡中で。
「ねえ、水見さん」
「なに?」
口の中が渇いていく気がする。さすがにいきなり告白する勇気はないので、ジャブを打つことにする。
「水見さんってさ……好きな人っているの?」
自分の中ではジャブどころか大ぶりのフックを放ったくらい勇気を振り絞った。水見さんは突然のことで固まっているのか返事が返ってこない。水見さんの顔を覗き見る勇気は残ってない。
「急にどうしたの?」
「ちょっと気になったんだ」
「そっか――いるよ、好きな人」
返ってきた答えにノックアウト寸前だった。だけど、聞き始めたのはこちらなのだから最後まで続けなければならない。
「そうなんだ。水見さんが好きになる人って、どんな人なの?」
「どんな人?」
水見さんはしばらく考えてからゆっくり口にする。
「優しい人だよ。私みたいなきっと一緒にいてつまらない人間相手でも、私のペースに合わせて一緒に笑ったりしてくれて、私自身をありのままで受け入れてくれる懐も心も広い人。そして、一緒にいるとあたたかい気持ちになれる……そんな人」
水見さんは嬉しそうな声音で話す。相手のことを本当に思っているんだと伝わってくる。そこまで水見さんに想ってもらえる相手が心底羨ましい。
「小寺くんは好きな人いるの?」
水見さんが尋ね返してくる。それは予想外でどう答えるかと考えるより先に、
「うん。いる」
と、すっと言葉が出ていた。そして、一度発した言葉は消せないので、水見さんに届いた後にしまったと思ってしまう。慌てて、隣の水見さんに視線をやると、どこか斜め下の方を見つめていて、夜の暗さの中では表情をうかがい知ることもできない。
「それで小寺くんの好きな人はどんな人なの?」
「どんな人って……?」
思わず考え込んでしまう。自分の好きな相手は今、隣にいる相手なのだから。
「不器用で優しい人かな。きっと相手のことを考えすぎていて、そのくせ言葉とか足らないから誤解を与えやすくて苦労してきたんだろうな。あとは、雪のように静かで綺麗で、少し脆くて。一緒にいて会話のない静けさすら居心地がいいって思える……そんな人」
好きな人のことを話すとき自分でも驚くほど声が弾んだ。ゆっくり丁寧に話したはずなのにこみ上げるものを抑えきれなかった。
水見さんに対する想いが自然と滲み出してきたのかもしれない。
「そんな水見さんだからゆっくりと惹かれて、好きになれた。同じ歩幅でどこまでも一緒に歩いていきたいと思えたんだ」
だからきっと、心の声も口からつい漏れてしまったのかもしれない――。