水見さんは海に誘いたい ③
目が覚めると、窓から見える景色は建物が少なくなり、海の青が目に入るようになっていた。
シートに埋め過ぎていた体を起こすと、はらりと布がずり下がる感覚がした。その布を手に取ってみると薄手のパーカーで、眠っている間に掛けられていたのだろう。
「起きた?」
水見さんが隣から声を掛けてきて、何も言わずこちらに手を差し出してくる。理由が分からず、寝起きで頭も回らないので、その手を握ろうと手を伸ばした。
「パーカー」
「ああ、これ水見さんのだったんだ? ありがとう」
手を慌てて引っ込めて、掛けられていたパーカーを水見さんに返した。水見さんは受け取ったパーカーをそのまま膝に掛ける。
「エアコンで冷えたら、風邪引いちゃうかもしれないから」
水見さんは膝に手を置き、視線を窓の外に移した。もう少し話したい気もしたけれど、仕方がない。
「すいません。かなり寝ちゃいましたか?」
前の二人に座席の間から軽く身を乗り出すようにして、声を掛けた。
「ハルくん、起きたんだね。よく寝てたから起こさなかったよ。起こす気もなかったけどね」
千冬さんは笑いながら話す。
「そうだね。ぐっすりだったもんなあ。寝てたのはだいたい二時間くらいじゃないかな?」
ヨシさんも運転しながら答えてくれる。ちらりと時計に目をやると、十時半前くらいを表示していて、ヨシさんの言葉が間違っていないと実感する。
「まあ、目的地はもうすぐだし、タイミングがよかったんじゃないかな」
「そうですか? それにしてもすいません。何もしていない俺が寝てしまって……」
「気にすることはないよ。アキちゃんが言ってたけど、キミは昨日もバイトだったんだろう? それに比べて俺は今週ずっと休みだったからね」
長時間運転して、一番大変だろうヨシさんがそう言って笑ってくれるので、救われる気がした。
席に座り直すと水見さんが隣からペットボトルのお茶を渡してくれる。
「ありがとう」
「うん」
「お茶なんていつの間に?」
「小寺くんは寝てたけれど、途中コンビニで買い出しと休憩をしたんだよ」
「起こしてくれたらよかったのに」
「気持ちよさそうに寝てたから、起こせなかった」
水見さんはふっと楽しそうに笑う。その笑顔に心が跳ね上がりそうになるが、ちょっと待てよと思いとどまる。さっきの発言やパーカーなど、もろもろ加味して考えてみると、水見さんにしっかりと寝顔を見られたことになる。見られるのは初めてじゃないとはいえ、どこか恥ずかしくなってくる。寝るんじゃなかったと少しだけ後悔してしまう。
お茶に口を付けながら、もしかしたら、隣の水見さんもうとうとしていたかもしれないと思った。そうだとすれば、水見さんの無防備な寝顔を見るチャンスを逃したことにもなる。
「ハルくん。ブラックガムいる?」
千冬さんが全てを察しているかのようなタイミングでニヤニヤとガムの入ったボトルを前から差し出してくる。まだ食べていないにもかかわらず苦い表情を浮かべながらガムを受け取った。
しばらくすると、目的地のキャンプ場に到着し、一棟のロッジの前に車を止める。車を降りると、ヨシさんが「管理棟で鍵貰ってくる」と足早に歩いて行った。
千冬さんは「ちょっと二人ともついてきて」と、水見さんと俺を先導し、ロッジを回り込むように裏手に行くと、すぐ近くに砂浜と海が広がっていた。
「ここは会員制のキャンプ場でね、どのロッジにもプライベートビーチが付いているのよ。あまり広くはないけどね」
「いや、それでもすごくないっすか? こんなところがあるなんて知りませんでした」
「そうね。私も初めてだし、来る前にネットとかで調べて驚いたのよ。だから、キミたちも驚かせたくて、アキちゃんにも詳しくは教えなかったのよね」
水見さんはというと、太陽の光を反射し煌めく海に目を奪われたのか、立ち尽くしていた。そして、波の音に消え入りそうなほど小さな声で、「すごい。綺麗」と感嘆の言葉をこぼす。隣にいてその声を聞きもらさなかった俺は「本当に綺麗だね」と、相槌を打った。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「アキちゃんのそんな顔見られただけでも、来た甲斐はあったわ」
千冬さんは照れ隠しをするように大げさに笑顔を作って見せる。そのまま並んで海を眺めていると、いつの間にか戻ってきたヨシさんがロッジのテラスに繋がる窓を開け、「荷物運ぶの手伝ってくれ」と声を掛けてきた。
それから手分けをして車からロッジの中に荷物を移動させる。クーラーボックスの中には肉と野菜と保冷剤代わりに大量のかちわり氷が入っていた。水見さんは持ってきた食べ物や途中で買ったお茶のペットボトルを備え付けの冷蔵庫に入れ始めたので手伝うことにした。あらかた移し終えたところで氷はどうするのかと千冬さんに尋ねたら、
「あんまり溶けてないのは二袋くらい冷凍庫に入れて。あとはクーラーボックスの中にぶちまけて氷水作っちゃって」
と、返ってきたので言われた通りにする。そして、クーラーボックスに水を入れている最中にヨシさんが箱買いした酒を運んできて、隣からビールやチューハイの缶を雑に入れた。
「残りは入るだけ冷蔵庫に入れておいてくれる?」
「わかりました」
指示された通りに動き、入りきらなかった酒の箱を邪魔にならないように壁際に寄せる。それにしても、五〇〇ミリリットル缶二十四本入りをビール二箱、チューハイ一箱を一泊しかしないのに持ち込んだというのはどういう計算なのかと、乾いた笑いが思わず出てしまう。
荷物の整理もひと段落し、キッチンから出てくると、ソファーでくつろぐ千冬さんに手招きされた。いつの間にか全員がこの一角に集まっていて、水見さんは千冬さんの隣に座らされ、ヨシさんは近くの壁に寄りかかっている。
千冬さんはコホンと咳払いをして、
「それで部屋割りはどうする?」
と、わざとらしいほどに真剣な口調で話す。何を言い出すのかと構えていた分、反応が遅れてしまった。くくくっ、と小さな笑い声が聞こえるのでそちらに視線をやるとヨシさんが必至に笑いをこらえているようだった。あの様子だときっとこの先の展開も知っているのだろう。
水見さんは千冬さんの隣で自分には関係ないと言わんばかりに事の顛末を見守っているようだった。なので、必然的に聞き返す役割は自分になる。
「どうするって、どういうことですか?」
「ここベッドルームが二部屋しかないのよ。それもツインの」
「単純に男性と女性ってわけには――」
そう言いかけて、ふと気づく。男女で部屋を分けるつもりなら千冬さんはそもそもこんな話を切り出さない。切り出す前に決まっていることとして話すだろう。千冬さんの口の端がにやけているのも何かあることを示している。ため息をついて、少しでも抗うためにダメもとで提案だけはすることにした。
「一部屋は千冬さんとヨシさんが、もう一部屋は水見さんが使えばいいんじゃないですか?」
「それじゃあ、ハルくんはどこで寝るのかしら?」
「そこのソファーでいいですよ」
きっと最善はこれだ。だけれど、予想通り千冬さんに「ダメよ」と案は却下される。
「じゃあ、男女で分けますか?」
「それだと、私がヨシくんと別々の部屋になっちゃうじゃない。せっかくの旅行なんだし気を遣いなさいよ」
千冬さんははっきりと断る。ヨシさんもさっきからこらえきれず笑ってしまっているので、きっと打ち合わせ済みなのだろう。水見さんだけが状況を把握しきれず、きょとんとしている。
「どうします? 水見さん」
「どうするって……?」
「千冬さんは俺と水見さんを同じ部屋にしたいんですよ」
水見さんは一瞬固まり、「ちょっとお姉ちゃん!?」と驚きの声をあげる。千冬さんは「いいよね? アキちゃん」と笑顔でごり押そうとしてくる。
結局、まともな反論ができないうえに代替案もないので、部屋割が決まってしまう。そして、部屋に移動する最中に、千冬さんに耳元で「なんでもするのよね」と軽めに脅されて水見さんと同じ部屋に押し込まれた。
部屋の扉が閉まり、ベッドが二つと簡素なテーブルが一つあるだけの部屋に水見さんと二人っきりになる。ベッドに荷物を置きながら、自然とため息がこぼれた。それはハメられたことに対する呆れもあったが、こういう状況になっても、すぐ近くに千冬さんがいることを気にして――いや、それ以前にここまでお膳立てされても行動を起こす勇気のないチキンで童貞な自分のふがいなさを嘆いて出たものかもしれなかった。
水見さんは表情を変えないが、あまり落ち着かない様子で、窓を開けながら、
「なんかお姉ちゃんがごめんなさい」
と、申し訳なさそうな声で話しかけてくる。
「水見さんが気にすることないよ。あれはきっと最初から決めてたんだと思うよ」
「そうなの?」
「たぶんね」
会話が途切れる。何を言っても変な方向に飛び火しそうで黙り込んでしまう。
いつもは壁を挟んで隣の部屋にいる水見さんと、同じ部屋の隣のベッドで一晩を過ごすことになるなんて思いもしなかった。
水見さんもきっとこの状況に動揺しているはずで、それでも俺と同じように間違いは起こらず、何も起こらないと思っているはずだ。付き合いは短くともそうお互いに信じられるほどには、信頼関係を築けているはずだ。
それなのに、どうしようもなく落ち着かないのはどうしてだろうか?
水見さんも積極性があるタイプではないが、絶対に何もないと言い切れないのはそうではない一面も見たことがあるからだ。そして、俺自身も歳相応に欲もあれば、何があっても我慢しきれるほど達観しているわけでも、強靭なメンタルを持ってるわけでもない。
静かな部屋に小さな波の音が打ち寄せて、不安と少しの期待を残して消えていった――。