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水見さんは近づきたい ⑤

「ごちそうさまです」


 居酒屋の前で千冬さんにお礼の言葉とともに頭を下げる。

 千冬さんは会計で全額を払おうとしてくれた。しかし、それはあまりに悪いのでせめて割り勘にしてくれと話すと、数枚のお札をトレイの上に出し、残りを払っておいてと言われた。置かれていたのは金額の八割ほどだった。だから、せめて言葉や態度で感謝を示したかった。


「いいのよ。アキちゃんもハルくんも大学生じゃない。ここは社会人の千冬お姉さんに甘えていいのよ」


 千冬さんは笑顔で胸を張って見せる。その姿はとても頼もしく見えた。


「お姉ちゃん、ごちそうさま。ありがとう。また今度ご飯作りに行くね」


 水見さんは慣れた調子でお礼を言う。きっとこういうことがよくあるのだろう。その証拠に千冬さんは、


「ありがと、アキちゃん。アキちゃんの料理おいしいから楽しみにしてるからね」


 と、水見さんに抱きつきながら笑う。本当に千冬さんは水見さんのことがかわいいんだなと見ているだけでも伝わってくる。


「分かったから、離れてよ、お姉ちゃん。そんなにくっつかれると暑いし、恥ずかしい」

「ええー。もう少しだけいいじゃない」


 水見さんも本気で突き放す気はなく、千冬さんに流されているように見える。水見さんも千冬さんが好きなんだなというのはよく分かる。

 しばらく、そんなじゃれ合いを目の前で見せられて、やっと水見さんから離れた千冬さんは、


「じゃあ、またね。ハルくんも」


 そう手を振り、駅の方に向かって歩き出した。ただそれだけなのに、まるでドラマのワンシーンを見ているような不思議な感覚におちいる。水見さんだけでなく、千冬さんも何をしていても映えてしまうのだろう。その後ろ姿を水見さんと見えなくなるまで見送った。


「それじゃあ、水見さん。俺らも帰ろうか?」

「うん。そうだね」


 居酒屋のある繁華街から帰るにはバスに乗って帰るのが早いので、最寄りのバス停に向かって歩き出す。


「ねえ、小寺くん」


 水見さんに呼ばれ、足を止めると、水見さんはまだ歩き出していなかった。不思議に思い向き直る。すると、水見さんはすぐ前まで歩き寄ってくる。


「えっと、何? 水見さん」

「よかったら、歩いて帰らない? そういう気分なんだ」

「別にいいけど、けっこう歩くことになるけど、大丈夫?」

「知ってる。大丈夫だよ」

「水見さんがそう言うなら」


 水見さんの提案で徒歩で帰ることになり、バス停とは違う方向に歩き出す。バスを使えば十分くらいで帰れるが、徒歩だと三十分はかかる。

 でも、それだけの時間を水見さんと一緒にいられるというのは悪くないように思えた。

 しばらく歩くと、繁華街を抜け、人影がまばらになってくる。辺りの建物は低くなり、吹き抜ける風を感じるようになる。見上げる空は一段と暗くなり、星の数も多くなったように感じる。


「こうやって歩くの気持ちいいよね」


 隣を歩く水見さんが話しかけてくる。


「そうだね。でも、やっぱり夏だ。この時間でも暑い」

「でも、風は少しだけ涼しいよ?」


 隣を歩く水見さんに視線を向けると気持ちよさそうに風に髪をなびかせている。その姿に思わず見とれてしまう。ふいに水見さんがこちらに振り向いて、


「こうして歩くのも久しぶりだね」


 と、笑顔を向ける。なんとなく直視できず、視線を逸らし空を見上げながら、


「そうだっけ? 前は……パン屋に一緒に行ったときだっけ?」


 と、記憶を辿りながら答える。それにしても今日はけっこう酒を飲んだはずなのに、全く酔っぱらっていない。普段なら酔っている量でもどこか緊張していたからか酔えなかった。

 そう考えながら水見さんからの返事がないことに気が付いた。しかし、今までもふいに会話が途切れることはよくあった。だから、いつものように次の話題を探せばいいかなと思った。

 でも、会話の途中で途切れたことはなかった気がする。そう思うと、少し不安になって水見さんに視線を向けると、相変わらずこちらを見つめていた。ただし、笑顔ではなく明らかに不満げな表情を浮かべていた。それを見て、何かまずいことを言ったかなと会話を思い返すも思い当たる節がない。

 そもそも水見さんって、こんなに顔に出る人だったかなと首を傾げたくなる。


「えっと……水見さん? 俺、何か変なこと言ったかな?」

「言ってないよ」

「じゃあ、なんで?」

「なにか思うところはない? こうやって一緒に話しながら歩いて――」


 なんのことか分からず、首の後ろをさすりながら考え込んでしまう。水見さんはそんなこちらの様子をじっと見て、ふうと小さく息を吐いた。


「やっぱり小寺くんは覚えてないんだね」

「えっ!? なんのこと?」


 水見さんはそれには答えず早足で数歩前を歩き始める。その背中に付いていきながら、何かヒントはなかったか考える。しかし、変わったことと言えば、水見さんが今日はよく喋ることくらいだった。それは酒が入っているからなのか、千冬さんと会って気が緩んだのか、それとも別の要因なのかは判断しかねることだった。

 そのことは一旦置いておいて、引っかかることと言えば――。


「ねえ、水見さん。ひと月くらい前、水見さんが俺の部屋で寝てたことがあったよね。もしかして、あの日の前の日の夜に、俺と何かあった?」


 水見さんはピタッと足を止める。どうやら正解のようだ。水見さんの「覚えていないんだね」というワードから連想し、思い当たるのはこれしかなかった。

 しかし、あの日に何があったかが分からない。思い出すことを諦め、何があったかを知ろうとすることも忘れていた酒で記憶が飛んでいる間の出来事だ。あの時に水見さんとの間に何かがないと、水見さんが俺の部屋にいた理由に説明がつかない。


「小寺くんは本当に何も覚えてないの?」

「あの日、飲み過ぎてて、途中から記憶がないんだ」

「やっぱりそうだったんだ」


 水見さんはくるりと振り返る。ちょうど街灯の切れ間で水見さんの輪郭は分かるが夜の闇で顔がはっきりと見えない。


「俺は何か失礼なことしたかな?」


 水見さんは暗闇の中で小さく首を横に振る。水見さんとの間に降りる沈黙が重たい。どんな言葉を掛けたらいいのか分からない。


「ねえ、小寺くん」

「なに?」

「私はね、覚えていないことを責める気はないの。ただ自分勝手に覚えていてくれたら嬉しかったということではあるの」

「そっか。ごめん」

「謝らなくていいよ。覚えていないのなら、あの日以降の小寺くんの行動はあの夜に影響されていなかったということだし、それはそれで嬉しいんだ」


 水見さんは静かにそう話す。今、水見さんがどんな表情をしているのか気になる。


「よかったら、何があったか教えてもらえないかな?」

「どうしよっかな」


 水見さんはまたくるりと体を半回転させ、ゆっくりと歩き始める。その後ろ姿が闇に紛れないようにしっかり見つめながら後を追いかける。

 そして、水見さんは街灯の下で立ち止まるので、同じように足を止める。


「ねえ、小寺くん。小寺くんは私のことどう思う?」

「いきなり、どう……って、言われても」


 突然の質問に驚く。目の前の女性にどう思っているか答えろと聞かれて、すぐにウィットに富んだ返しができるほど、女性に対しての経験を俺は有していない。しかし、この質問に曖昧に返事をするのは絶対にしてはならないと思った。だから、真剣に考えて、答えを絞り出す。


「ずっと綺麗で強い人だと思ってた。それはたぶん大学で見かける水見さんしか知らないころで、何も知らないで勝手にそういう人だと思ってた」


 水見さんは振り返り、息遣いさえも感じるほどの距離から顔を見上げてくる。その自然に上目遣いになった目を、ただ単純に綺麗だと思った。水見さんと関わる前の自分なら、『氷の女王』の目力のある大きなつり目に委縮し、撃沈した勇者たちと同じく視線を逸らし、後ずさりしていただろう。しかし、今はその視線を受けても動じることはない。


「じゃあ、今は?」

「今は――水見さんも普通の女の子なんだなって思うよ」


 そう素直に吐露とろする。しかし、口から発した後に答えになっていないような気がして首を傾げてしまう。しかし、水見さんは驚いたように目を大きく見開いて、


「やっぱり小寺くんは小寺くんだ」


 と、口にすると目を細め、頬を緩ませる。数分前まで水見さんの表情に見え隠れしていた不満や何か引っかかっているという感じが抜け落ちたような顔だった。

 そんな水見さんの顔を見ると、こちらまで口元が緩んでしまうのを自覚する。


「それ、前にも言われたことあるけど、やっぱり褒めてないよね?」

「そんなことないよ。私はいつも小寺くんに感謝しているんだ」


 そして、水見さんはこちらを見上げ視線を合わせたまま、いっそう目を細め、嬉しそうな笑顔を向けてくる。

 水見さんはずるい。この笑顔には逆らえないし、言葉を失ってしまう。


「ねえ、小寺くん。あと、一つだけいい?」

「なに?」

「小寺くんは私の目、怖くないの?」


 今度は何を言い出すのかと身構えていたら、なんてことのない質問で拍子抜けしてしまう。しかし、この質問にも真剣に答えなければと思い、照れる気持ちを隠しながら、水見さんの目を真っ直ぐに覗き込む。街灯の光を受けて淡く光を返し、小宇宙のようにキラキラと輝いているように見えた。


「大きくて、綺麗な目だと思うよ」


 そう目を見ながらはっきりと答える。水見さんはまばたきを繰り返し、ゆっくりと一歩後ずさりをして、視線を落とす。予想外のリアクションに何か変なことを言ってしまったかなと気が気ではない。


「あ、ありがとう」


 水見さんは消え入りそうな声で呟く。そのまま俯いてしまい表情はうかがい知れないが、髪の間から覗く耳は赤くなっていた。そして、また並んでゆっくりと歩き始める。


「水見さん、大丈夫?」

「だ、大丈夫」

「耳、赤いよ」

「少し酔っただけだよ」

「そう?」

「そうだよ」


 水見さんは耳を隠すように手櫛てぐしで髪の毛をとかしている。


「ねえ、水見さん」

「なに?」

「今度から、時々、部屋でも一緒にお酒飲まない?」

「いいよ」

「よかった。それなら俺がお酒やおつまみを用意をするから」

「じゃあ、私はおいしい料理を作るよ」

「それは贅沢な晩酌ばんしゃくになりそうだね」


 笑う声が重なり合う。そんな些細なことに嬉しさを感じてしまう。このまま部屋にたどり着けなくてもいいかなと思うも、一歩進むごとに今のこの楽しい時間は着実に終わりに向かっている。

 それが惜しくて、少しでも長くこの時間を共有していたくて、少しだけ歩くペースを落とした。


 夏の夜空に浮かぶ月の見下ろす道を水見さんと同じ速度で、たしかに歩いていく――。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ニヤけるというよりは心が温まりました。 [一言] めちゃめちゃ大好きです。 無理せず、これからも頑張ってください。 応援しています。
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