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2つの祈り

作者: 髙橋祐貴斗


未来を拓く。



言葉にすればあまりに単純明快な願いをこめてつけられた名前を、彼女自身はあまり気に入っていなかった。



未来と拓也



難産の末に生まれた男女の双子に、そうやって名前を付けたのは母親だと聞いている。

父親をはじめ、長い歴史を持ち格式を重んじる旧家の一族は、母親の決めたその名前に大層反対したそうだが、

彼女の母親は病弱な身体と可憐な外見からはとても想像できない強情さで反対を押し切ったという。


今考えれば、反対した親族たちには、名の付け方には何か暗黙の了解があったのかもしれない。

例えば、『家の跡継ぎになる長男には父方の誰かから一字取って名をつける』『女の子は花から名前を付ける』といったような。


凝り固まった考え方しかできない父方の親族は、いまもなお軽蔑とある種の苦々しさをもってよくその話を持ち出した。

いや、彼らが憎々しげに彼女の母親の話をするのは、何もこの話だけに限ったことではない。

今も、生前も。



――あの姉弟は、ほかの男との間にできた子だろう。



様々に言葉を変えて、今もなお囁かれる言葉を、正直彼女は聞き飽きていた。

そう言われるのは、血を感じさせない外見が原因なのか、そもそもの結婚をよく思ってなかった親族たちの悪意かは判断がつきがたい。

確かに、彼女らは両方とも母親似だった。色素の薄い肌、柔らかい髪、可憐ともいえる目鼻立ち…おおよそそんなものとは無縁な父親とは似ても似つかなかった。


たとえ、本当に血が繋がっているとしても、彼女は父親に似ていたいとも思わないが。

学歴や病弱な身体や他の様々な理由により、とても親族に歓迎されたとはいえない母親を守るどころか、

葬儀にも現れず、女のところに入り浸ってろくに帰ってこない男が父親ならば、

正直血が繋がっていなかった方が有難いと彼女は思う。


残念なことに、おそらくそうではないが。

最初に不倫疑惑が浮上した時に、彼女たちと父親との関係は調査済みだろう。

もし、本当に血が繋がっていないのなら、母親亡き今彼女らをこの家に置いておくことも、そもそも生まれたに認知する事もないはずだ。

だから随分高い確率で、彼女の父親があの男だと言うことになる。

死者にすら敬意を払えないあの一族の血を引いている。

そう考えただけでも吐き気がするというのに。


しかし、彼女から見れば反吐を吐きたくなるような男でも、彼女の母親は小言一つ言わなかった。


母親は、自分の身代りのように周囲の敵意にさらされ続ける子供たちを、ただ愛した。

母親の持つ繊細さは弟が、意志の強さは彼女が受け継いだ。

そのことを最初から見抜いていたのか、母親は彼女の自立した性格を尊重し、弟の優しさを甘えだとは決して言わなかった。


そうして彼女のことを「姉」と呼び、彼女に「姉」たる自覚を芽生えさせた。

最初は「姉」とは呼ばなかった弟も、母親が病に倒れてからは彼女を「姉」と呼んだ。


弟はその優しさから母親の病室に毎日訪れた。

彼女は責任感から、衣服など弟には持たせられないもの病室まで運んだ。

いつまでも名残を惜しんで病室を離れたがらない弟を連れて帰るのも、彼女の役割になった。


母親が暮らす病室は清潔だったが、白く、無機質で、彼女は嫌悪感を抱いていた。

母親の存在を異物として扱う、潔癖な親族に良く似ている気がした。

そこで穏やかに暮らす母親も腹立たしかった。


どうして、あんな男を選んだのか。

未熟で幼稚な悪意をぶつけてくる親族たちになんとも思わないのか。

どうして、どうして、笑っていられるのか。


父親は、病室はおろか、家にさえ帰ってこない。

母親のいない家は荒れ放題だった。

母親が押し込められた病室で穏やかに過ごしている間、彼女は唇を引き結んで、必死に自分と弟を守ろうとしているのに。



ある時、抑えきれずに噴出した怒りに任せて、彼女が問うと、母親は瞳を伏せると、ベッドから半身を乗り出すようにして彼女を抱いた。

細い腕から伸びていた点滴のチューブが、腕と体の間に挟まって痛かった。


母親は、泣いていたのではないかと思う。

その時病室には彼女と母親しかおらず、彼女は母親の表情は見えなかった。

なんと言われたのか、もう覚えていない。

ただ、耳にした声が湿って、くぐもっていた。

その時、胸にあった怒りが消えて、重苦しい何かが満たしたが、彼女は泣きたいとは思わなかった。


長いような短いような時間が過ぎ、弟が病室に顔を出すと、母親は腕を解いて強く、笑いかけた。

そうして、二人に昔話をしてみせた。

恋人同士だった時の話、新婚当時の生活、彼女たちが生まれたときのこと…それらは、それだけを聞けば、数多の困難を超えて結ばれた一組の男女のロマンスであり、美しい結末を迎えた恋物語だった。


それが自分の両親だというなら、気恥ずかしくも愛の証として誇らしく思っただろう。

…もし、そのあとに続く現実が、こんな形でさえなければ。

その翌日、母親は息を引き取った。


もし私が死んだら、結婚指輪は一緒にして頂戴。


痩せてサイズが合わなくなった結婚指輪を、美しく微笑んで撫でながら。

ただ一つ、その願いを残して。



形だけはたいそう立派な葬儀は、事実散々なものだった。

喪主の名こそ、その夫のものだったが、実際にほぼすべてを取り仕切ったのは彼女だった。


そもそも葬儀は行わず、母親の知人と自分たちとだけで密やかに別れを告げるつもりだった。

しかし、一族の体裁やら沽券に拘る人間達の圧力から、形だけでも葬儀を行うことになり、泣き疲れて呆然とする弟にさまざまな仕事と悪意が圧し掛かった。


一人では手に余る責任を押し付けられて奔走する弟を、押し付けておきながら助ける者は誰もいなかった。

いや、助けるどころかさまざまな言葉や行為で妨害した。

そのことがわかると、すぐに彼女は行動を起こした。母の友人の力を借り、毅然とした態度ですべてをつつがなく取り仕切った彼女に対して、親族から労いの言葉は何一つなかった。


そうして迎えた葬儀では『死人に口なし』と言わんばかりに、あちこちで在りもしない陰口が囁かれた。

中には面と向かって悪意に満ちた言葉を吐く者もいた。

そのほとんどが、早死にした母親への侮蔑と、葬儀にすら表れない父親への憐れみと、彼女たちへの嘲りでできていた。


怒りに戦慄く彼女の手を、弟は何も言わずにずっと握っていた。

悪意に凝り固まった親族はそれを女々しいと嘲笑したけれど、

そうでないことは彼女が知っていればそれで十分だった。



――困ったことがあったら、二人で助け合っていくのよ



たびたびそう口にした母親が、彼女たちが生まれたときに現在の状況を予測していたというのなら、

与えられたこの名前はなんて皮肉なのだろう。


だから、この名前は気に入らない。

最期まであの男を恨まなかった母親など、理解できない。

その、理解できない母親の、最後の望みを叶えようとする自分は、酷く滑稽だと思った。


結婚指輪が、見つからなかったのだ。

病室にも、彼女の持ち物にも、どこにも。

確かに、持っていたはずなのに。

家じゅう探しても見つからなかった。


唯一、父親が鍵をかけている、書斎と寝室を除いて。



あるはずはない。そう思っている。

あの時、病室で確かに母親の指にあったのを見ているからだ。

父親ではないかと病院の看護師は言った。しかし、あの男は葬儀にも表れていないのだ。

そんなはずは無かった。


病院からの連絡で駆け付けた時にあったかどうか、気が動転していて覚えていない。

でも、もし、あの時持って帰った荷物の中に紛れ込んでいたら?

寝室の鍵が閉められたのはあの時持ち帰った荷物を入れて、片付ける間もなく部屋を出た、その後。


まだ、可能性があるとしたらそこしかなかった。鍵はおそらく隣の書斎だろう。

あの男が鍵を持ち歩いていなければ、そこにあるはずだった。


きぃ、ときしむ音を立てて、書斎の扉を押す。

鍵はかかっておらず、僅かに入るのは躊躇われた。

昔から入ってはいけないと言われていたし、また、入る気も毛頭なかった。


しばらく使われていないのだろう、埃っぽい空気が淀んでいる。

窓を開けようかとも思ったが、窓を覆うブラインドにまで埃が溜まっているのを見て止めた。


壁際の本棚には隙間なく整理された本が並び、机には手帳と思われるもの以外何も置いていない。

掛けられた万年カレンダーはずいぶん昔の日付のままであった。


その下には、いくつか鍵がかかっている。

庭倉庫、書斎、屋根裏、物置、裏口…プレートを一つ一つ確認していったが、寝室の鍵と思われるものは無かった。


彼女は、あきらめて机に向かう。

唯一鍵がかかった上段以外の引き出しの中は、どこも整理された書類で一杯だった。

ここ数日に開けられた形跡もない。


一つ、溜息をつくと彼女は立ち上がった。

一瞥した机に、違和感を覚えて、彼女はふと思案する。

机が、綺麗なのだ。

他のところは埃をかぶっているというのに、机の上の手帳はほとんど埃をかぶっていない。


見つめた手帳に僅かなふくらみを感じて、彼女はそれを手に取った。

こんなところに、まさか。

開いた手帳から転がり落ちてきたのは、小さな鍵だった。


プレートも、何もついていない。

おそらく、部屋の鍵としては機能しないだろう。


しばし、それを手の中で弄ぶと、彼女はそれを元に戻そうとして手を止めた。

その代り、唯一開くことの無かった引き出しの鍵穴に、それをはめる。

かちり、と音をたてて、鍵は回った。

引き出しをあける。そして、それを見つけた。


整理された引き出しの中に不釣り合いな、何かを包んだ布。

男性ものの、ハンカチだった。

おそらく、あの男の。


妙な予感が胸をよぎった。この布は、整理された机には、あまりに不似合いだ。

まるで誰かが、大切な何かを人目に付かないように隠しているような。


目眩がした。

それに手を伸ばすにつれて、喉を絞められているような気さえした。

だが、彼女はそれを手にとって、開いた。

そうして、今度こそ、息を詰めて崩れ落ちた。


なぜ、どうして、これが、こんなところに。


母親の指にあったはずの結婚指輪が、あの男の机の引き出しの中に。


いや、論理的に考えれば、ありうる話だった。

仮にもあの男はあの女性の夫だったのだ。

危篤の連絡が入ってもおかしくない。

彼女たちより先に病室に行っていてもおかしくない。

だが、彼女たちが病室にたどり着いたときには、あの男はおらず、母親はもう息を引き取った後だった。

来ていないと考えるのが自然だ。

あの男は最期を看取るような人間ではない。

そのはずだ。


彼女は、それを握りしめたまま、机を閉めて鍵をかけた。

少なくとも、それを元に戻すつもりは無かった。

もし、あの男が母親の最期を看取ったとして、どうして、その結婚指輪を隠し持つ権利がある?

母親の願いすら知らない人間に、葬儀にも表れない人間に、愛したはずの女一人守れなかった男に、どうして。


机を閉めた鍵を、投げ込むようにして手帳に戻した。勢い余ってそれは机から落ち、床に転げて広がった。その音と埃に彼女はやっと冷静さを失っていたことに気がついた。


鍵と手帳を拾い上げる。几帳面で神経質な字は、あの男のものだった。

日付と、文章。

日記のようだった。

その中ほど、書いてある最後の頁に、鍵を挟む。


最初に開けた時、片側だけ字で埋まっていたこの頁を覚えていた。

あの男の日記など、読む気は無かった。

しかし、書かれた言葉を意識とは関係なく目が拾った。


…自分の名前。


何故、と呟いた。

我知らず、文章を目で追った。

開いていたその片側、母親の死を知った日付で始まり、最後にはインクが滲んで読めなくなっているその内容、全てを。


すぐに読んだことを後悔したが、それは決して罪悪感ではなかった。

一文字読むごとに、一文読み進めるごとに、言い知れない感情が湧きあがった。焼け付くような憤りと、重苦しい悲しみ。


いまさら、何故、どうして。


その言葉だけが何度も頭を巡った。

いまさら、こんな言葉を綴っても何も救われない。

その行為が許されるわけがない。なのに、


なのに、何故『許してくれ』という言葉があるのか。



どうして『愛している』と残しながら、その愛する人の傍にいなかったのか。



目の奥がかっとあつくなった。

我を忘れるほどの怒りが、全身を貫いた。


怒りに任せて手帳を床に叩きつける間、彼女の中にも冷静な自分がいたが、彼女はそれを無視した。

手帳を床に打ち付けて、それならいっそ燃やしてしまえばよかったと思った。

急速に冷えていく憤りを失えば、

残るのは胸を満たす重苦しい悲しみだけだった。


憤る彼女を抱きしめた母親を、語られた恋物語を、思い出した。

物語の幸せな結末に続く、あまりに残酷な現実。


困難の末結ばれた恋人達は親族の悪意にさらされ、男は他の女へと逃げていく。

男を信じ続けた女は病に倒れ、やっと戻ってきた男は女の最期を看取ることになり、その結婚指輪を握りしめ涙する。


目の裏に映るそのあまりの鮮明さに、目眩がしそうだった。


どうして。なぜ。


覚束ない足取りで、逃げるように扉に向かった。

ここにはもう、いられなかった。

埃臭い空気に息が詰まる。



逃れ出た扉の先に、彼女の半身が立っていた。

だだならぬ彼女の表情に、弟は怪訝そうな表情をしてその理由を問うた。

彼女は、握りしめていたハンカチとその中身を広げる。

見つけた場所を伝えれば、その事実に彼の顔も強張った。


もう何も考えたくなかった。

両親に何があったかなんて知らない。

もし、あの想像が事実だったとしても、あの言葉が真意だったとしても、何も変わらない。

親族は悪意を示し続け、母親は二度と帰らず、彼女はあの男を許せるはずもない。


何も救われない。それだというのに。




混乱し動揺する彼女を呼ぶ声に、縋るように呟いた半身の名に、


刹那の幸せが続くように願った、恋人達の祈りが聞こえた気がするのは、一体何故なのだろう。




今にも崩れ落ちそうな彼女を、弟は躊躇いがちに抱きしめた。

不器用に背中を撫でられて始めて、彼女は自分の頬を流れる涙を知った。

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