いつかいた妹
一人暮らしのおんぼろなアパートの扉を開けると、浴衣を着た妹が正座をして待っていた。
浴衣は桃色と黄色が混ざり合い、大小の金魚があしらわれた子どもらしいものだった。それが幼い妹にこれ以上もないくらい似合っていた。
「おかえり、おにぃ」
妹は僕のことを「おにぃ」と言う。ずっとずっと、そうだった。
「琴子、ただいま」
僕は靴を履いたままその場にしゃがみ、彼女を優しく抱きしめた。琴子もまた、僕の背中に優しく手を回し、ぽんぽんと幼子をあやすように掌を背中に打ち付けた。
「いつまでも甘えんぼさんだね、おにぃは」
耳元でする彼女の声は、真夏の風鈴を思い起こさせた。
琴子の首筋からは、甘いミルクの香りがした。
その匂いを永遠に刻み付けるために、僕は大きく息を吸う。そして、彼女を抱く腕の力をわずかばかり強めた。
「痛いよ、おにぃ」
それでも僕は腕の力を弱めなかった。琴子の背中を優しく叩く掌も止まることはなかった。
どのくらいそうしていただろう。いつの間にか部屋の中は真っ暗になっていたけれど、僕らはまだ玄関先で抱き合っていた。
トントントン――。一定で刻まれるそのリズムが僕の中に染みわたっていく。
「おにぃ――そろそろ帰らなくちゃ」
その言葉をいつか聞かなければいけないと分かっていた。分かっていたけれど、心の中に闇の染みをつくりあげていく。
「――また、来てくれるかい?」
「ううん、来ないよ。もう、来れない」
琴子の手が止まる。僕も腕を離す。
琴子が立ち上がる。僕を見つめる。僕も見つめる。
「おにぃ――おにぃのせいじゃないから。いつまでも自分を責めないで」
「わかってるよ。でも僕は僕が許せないんだ」
「許してあげて。おにぃは、おにぃを許さなきゃいけない。あたしはおにぃが大好きだよ」
琴子は消えた。跡形もなく、何一つ残すことなく。
僕は涙を流すことができなかった。