~5日目・決意の儀式~
~~~翌日・5日目~~~
「はあっ……はあっ……」
大学の構内に、俺の荒い息遣いが響き渡る。
額には大粒の汗が浮かび上がり、必死に内側から湧き上がる衝動を抑えていた。
「まだだ……もう少し踏ん張れ……」
自分で自分に言い聞かせる。
そうでもしていなければ、自我を保つことが出来そうもないのだ。
昨日の昼から移動を開始して1日。
ゾンビの襲撃で足止めを食らった結果、辿り着くのが予想以上に遅れたが、その事実よりも生じた弊害の方が大きかった。
「ここまで来たんだ……耐え切ってみせる……」
俺を襲う弊害―――それは言うまでもなくゾンビ化そのものだった。
最早、兆候や異変と言うよりも、変質が始まっていると言っても差支えがない状態だった。常から意識が朦朧として、抑え難い飢餓感に苛まれ続けている。もし、少しでも気を抜こうものなら、今度こそ明菜を襲ってしまうのは間違いない。
(残してきたのは正解だったか……)
明菜は今、大学の敷地内にある駐車場で待機している。
自分の体調に危険を感じた俺が、何とか説得して残ってもらったのだ。そして、その読みは当たっていたと言わざるを得ない状況だ。
(しかし、本当に此処で研究が行われているのか……?)
人気の感じられない構内は、ゾンビ化ウィルスの研究をしているとは思えないほどに閑散としていた。耳を澄ましても物音すら聞こえて来ず、まるで廃墟のような雰囲気すら漂っている。
「頼むぜ、マジで……」
そんな呟きを漏らしながら、俺は一縷の望みを抱いて目の前に現れたドアを開けた。
「…………誰もいないのか」
室内はガランとしていた。
様々な研究器具などがあるところから目指していた一室であることは伺えたが、残念ながら此処にも人気は感じられなかった。
「勘弁してくれよ……」
誰に言うともなく呟くと、俺は手近の椅子に腰掛けた。
正直、気力も体力も限界に近かった。
「ん? これは……」
何気なく視線を向けた先にあった一冊のノート。
表紙には何も書かれていなかったが、どこか無視できない存在感を放っているのが気になって、俺は自然と手を伸ばしていた。
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20**年 **月 **日
今日で此処に研究所を構えてから2ヶ月の時が流れた。しかし、残念ながら研究の成果が出ているとは言い難い状況だ。
何より実験体となる感染者の数が圧倒的に足りていない。
ほとんどの人間が感染の拡大を恐れて即座に始末してしまうからだ。
かと言って、ゾンビを研究に使うことは出来ない。
人間からゾンビへと変質する過程を食い止める必要があるため、すでに変質が終わっているゾンビでは実験体にはなり得ないからだ。
そこで、研究所の警備をしている自衛隊員に頼み、意図的に この研究所の情報を流してもらった。これで、感染者は自然と此処を目指すようになるだろう。
20**年 **月 **日
本日午後3時ごろ、3人組の若者が大学を訪れた。
彼等も私が流した情報に釣られて来たようだ。
事実、彼等の中の一人は感染していた。
話を聞いたところによると感染したのは3日前だそうだ。
実際に感染経路である傷口を見せてもらうと、特徴的な紫斑が現れていた。
ゾンビ化ウィルスが表皮の一部を壊死させる過程で起こる症状だ。
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……
その文章を読んで、俺は自分の腕を確認する。
悔しい事だが、そこには本当に紫斑が浮き上がっていた。
内心、舌打ちをしたい気分に駆られたが、ここで感情的になっても意味はない。
俺は一つだけ深呼吸をして気分を落ち着けると、レポートの先を読んだ。
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20**年 **月 **日。
例のグループが来てから一日が経った。
早速……とでも言おうか、ちょっとした騒動が起こった。
感染した男が仲間の女に襲い掛かったのだ。
上げられた悲鳴で我に帰ったようだが、ゾンビ化のウィルスが彼の自我を侵食し始めているのは間違いなかった。
これまでの研究でも、ウィルスが本格的な活動を開始するのは4日目からだと分かっている。その頃から感染者にゾンビ化の兆候が現れ始めるのだ。
正確に言えば、4日目からウィルスが脳に到達するのである。
この頃に殺された感染者の死体を解剖してみたが、実際にウィルスによる変質が認められていたのだ。
これは、どこから感染しようと変わらない結果だった。
頭部付近を噛まれた感染者であっても、4日目までは意識する事なく自我を保つことが出来ている。
これは推測でしかないが、恐らくウィルスは3日を掛けて体内で増殖を繰り返すのだろう。そして、全身を侵食できるだけの規模まで分裂を繰り返した後、本格的な行動を開始するのだ。
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……
つまり、俺の体内では既にウィルスが地盤を固めてしまったという事か。
いずれはゾンビ化するという覚悟は決めていたが、このような書面で見せつけられるとキツイものがある。
だが、このレポートの情報は正直に言えば有難い部分もあった。
どれぐらいまで正気を保てるのか、自分の意思による行動が可能なのかが分かれば、対策も立てられるからだ。
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20**年 **月 **日。
本日、感染者の男に私が開発した治療薬を打った。
しかし、これは完全にウィルスを死滅させるものではないため完治させるには至らない。ただの対処療法に過ぎないのだ。
今までの研究により、ゾンビ化ウィルスはインフルエンザのウィルスと同様の性質を持つことが分かっている。そこに目を付けて、既存の治療薬を改良して作り上げたものなのだ。
これまでの試験では4日目の自我喪失を少しばかり軽減するに留まっている。
だが、今回は改良を重ねた自信作だ。5日目の感染者にも効果が期待できるだろう。
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……
「インフルエンザと一緒ね……」
あれも面倒なものだが、ゾンビになるよりはマシだ。
しかし、既存の病と同種だと判明しているのなら、記載されている薬の効果も期待できるかもしれない。
俺は僅かに自分の心へと光明が差してきているのを感じながら、レポートの続きへと目を通した。
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……
投薬から1時間。感染者に自我の喪失は見られない。
副作用も微熱程度に収まっており、体調面でも問題は無いと言っても良いだろう。
今までの薬では5日目からの変異を本格的に抑えることは出来なかった。
このまま、今日という日を乗り切ってくれれば新記録となる。
それは同時にウィルスの活動を抑制できることの証ともなる。
そうなれば、薬を投与し続ける必要はあるが、感染してもゾンビ化に怯えることはなくなるのだ。
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…………
……
ゾンビ化の進行を食い止める薬―――それは俺が何よりも望む物だ。
しかし、それが完成したのかどうかは分からない。
何故なら、ここでレポートは終わっているからだ。
「アンタが頼りなんだ……頼むぜ、乃木さん……」
ノートの裏表紙に書かれていた『乃木 照史』の名前。
会ったこともない、呼んだこともない名前だが、今は彼だけが希望の光だった。
「クッ……そろそろ行かないとな……」
座っているだけでも蓄積していく疲労に表情を曇らせながらも、俺は気合を入れて立ち上がる。
だが、その時―――
『―――――――――ッ!!』
研究室の奥へと続くドア―――その中からコップを割るような音が聞こえてきた。不審に思った俺は後ろ腰から銃を抜き取りつつ、ゆっくりとドアに近付いていく。
ノブに手を掛けて、一度だけ深呼吸をする。
そして、十分に気持ちが落ち着いたところで一気に引き開けた。
「あああああぁぁぁぁッ……!!」
刹那、一体のゾンビがドアの隙間から飛び出してくる。
俺は焦りながらも反射的に押し退けると、前蹴りで距離を取ってから銃を構えた。
『―――――――――ッ!!』
響き渡る銃声と腕を突き抜ける衝撃。
それらを感じた次の瞬間には、ゾンビが脳髄を撒き散らしながら後ろ向きに倒れた。
「……………………………………」
再び、室内を支配する沈黙。
それは本来、勝利を証明してくれるものであったが、今の俺に喜びはなかった。
「…………何やってんだよ?」
焦燥と苛立ち、そして僅かばかりの悲哀の響きが含まれた呟きを零す。だが、倒れたゾンビがそれに応えることはなかった。
「アンタが頼みの綱だってのに、何でゾンビになってんだよ!?」
今度はハッキリと感情を爆発させて言葉をブツける。
何故なら、目の前のゾンビの胸元に『乃木』と書かれたネームプレートが付けられていたからだ。
「クソッ……何のために此処まで……」
目の前に迫った限界―――それを解消するために訪れたと言うのに、これでは逆に無駄な時間を浪費しただけだ。
「もう、ここで終わりなのか……?」
思わず口を吐いて出る弱音。
だが、その瞬間、ゾンビとなった乃木の着ていた白衣から何かが転がり落ちた。
それは、どこにでもあるような薬瓶。
中には数個の錠剤が入っていた。
「もしかして…………」
藁にもすがる思いで、俺は乃木の白衣のポケットを漁る。
すると、薬瓶の他にノートの切れ端が入っていた。
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………………
…………
……
20**年 **月 **日
とうとう私も感染してしまった。
現状で最も効力があると思われる薬を精製したが、これでゾンビ化を食い止められるとは思わない。
私がゾンビになることは変えられない運命だろう。
だから、せめて最期の人体実験は私の身体を使って行うことにする。
20**年 **月 **日
感染から2日目。変質は無い。
20**年 **月 **日
感染から3日目。変質は無い。
20**年 **月 **日
感染から4日目。変質は無い。
20**年 **月 **日
感染から5日目。変質は無い。
以前の壁である5日目を超えられたことが喜ばしい。
20**年 **月 **日
感染から6日目。体調の異変はあるが、自我の喪失は抑えられている。ここに来ての新記録達成に我ながら苦笑を禁じ得ない。
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………………
…………
……
そこで書き込みは終わっていた。
恐らく、7日目で効力が切れたのだろう。
だが、今の俺にとっては十分な情報だった。
「ありがたく頂いとくよ……」
そう呟くと、俺は錠剤を口の中に含んで飲み込んだ。
そのまま床に寝転がると、真っ白で清潔な天井を見詰める。
(これで、タイムリミットが1日だけ伸びたな……)
たかが1日、されど1日。
万全の状態で動ける24時間があれば、問題なく明菜を西の街へと送り届けられる。
「そこが俺の終着点だ……」
自分に言い聞かせる覚悟の言葉。
明菜が傍に居ない今だからこそ出来る、決意を固めるための儀式。
もう、これで恐れることもない。
惑うこともない。
後は、為すべき事を為すだけだ―――