シュレディンガーが猫
「此処は……!?」
見慣れない壁に囲まれた部屋の中で、私は目を覚ました。明かりのついていない空間は、見渡す限り真っ暗な闇に染まっていて、私の目は何も捉えることはなかった。
「…………?」
確か私は、さっきまで研究室にいたはずなのだが……。
私は頭を振った。ダメだ、何も思い出せない。確かに此処のところ碌に寝ておらず、寝不足気味ではあった。だが、それならば研究室で目が覚めなければおかしな話だ。
考えれば考えるほど、頭の中を疑問符が埋め尽くしていった。やがて闇に目が慣れ、部屋の中の輪郭が露わになっていく。そこでまず私の目に飛び込んできたのは……巨大な青酸ガスの発生装置だった。
「な……!?」
私は絶句した。目の前の壁に貼り付けられているのは、ラジウム……禍々しい放射性物質を表すマークが入った箱と、私の背丈くらいはあろうかという大きなガイガーカウンターだった。
「!」
研究室にも何台かガイガーカウンターが置いてあるが、これほど巨大なものは見たことがない。だが、この配置には何故か見覚えがあった。
「まさか……!」
私は息を飲んだ。
そう。目の前の景色は、私が今やっている、量子力学の思考実験そのものだったのである。
□□□
密閉された箱の中に猫を入れ、無作為にラジウムをアルファ崩壊させ、青酸ガスが発生する装置をつける。
ガスが自然発生すれば、当然中にいる猫は死ぬが、箱の外からではそれが分からない。
何なら装置がうまく作動せずに、生きている可能性だってある。
理論上、誰かが箱を開け猫の生死を”確認”するまで、中には「生きている方の猫」と「死んでいる方の猫」が五〇:五〇の確率で存在することになる。箱を開けなければ猫が生きているか死んでいるか分からないのと同じ。つまり”結果”は、”結果を確認する者”なしでは成り立たない。
この一連の思考実験を、自らの名を冠して「シュレディンガーの猫」として、私は近く学会に発表するつもりであった。
ところが、どうだろう。
肝心の実験段階になって、今私の目の前には巨大な青酸ガス発生装置が並んでいる。
これじゃまるで、私が例の箱の中にでも入れられてるみたいだ。
「そんなバカな……」
事態に頭がついて行かず、私はあんぐりと口を開けた。
「よお」
「!?」
すると、装置の後ろから、突然にゅっ、と影が現れた。影はまるで友達みたいに私に声をかけ、しなやかに体をくねらせて私のそばまで寄ってきた。
「お前は……!?」
私は影をまじまじと見つめた。やってきたのは、猫だったのである。
猫が、何と人間の言葉で私に話しかけてきた。
「元気かい、相棒」
「私は、私は悪い夢でも見ているのか……!?」
私は頭を抱えようとして……はたと手を止めた。
「う……うわあああああ!!」
気がつくと、狭い部屋の中に私の絶叫が木霊していた。私の手……!
私の手が……五本の指を備えていた私の手が……いつの間にか腕は焦げ茶色の毛に覆われ、手のひらにはピンクの柔らかそうな肉球が付いている。指があった部分には、丁寧に整えられた爪が生えており、獣の眼光のようにその先端を鋭く光らせていた。
「ど、どうなってるんだ!?」
「落ち着けよ、相棒」
突然の出来事に目を丸くする私に、人語を操る猫がニヤリと唇を釣り上げた。
「アンタは……!?」
「俺は”シュレディンガーの猫”。とは言っても、死んでる方のな」
「な……!?」
猫の言っている意味が分からなくて、私はさらに混乱した。そういえば、そのこげ茶模様は、今朝箱の中に入れた実験用の猫にそっくりだ。
「お前が自分で言ったんだろう? 箱の中には、生きている猫と死んでいる猫の両方が存在する可能性があるって」
「……!?」
そう言って、猫が私の”何か”に甘噛みしてきた。私は痛みを感じ、後ろを振り返った。”それ”は、本来人間には存在するはずのないもの……ふわふわの毛をまとった一本の尻尾だった。
「うわああああ!」
私のお尻から、尻尾が生えている。その尻尾に、猫が噛み付いていた。
「そんな……!」
私は四本の手足で呆然と立ち尽くした。まさか、私自身が実験用の猫になってしまったとでもいうのだろうか?
「あり得ない……そんな……!?」
「オイオイ、科学者らしくねえなァ。真実から目を逸らすんじゃネェよ」
そう言って猫が尻尾から口を離し、カラカラと笑った。私は何も言い返せなかった。よろよろと体を動かして、壁際に設置されていた、透明なビーカーに映る私の顔をかろうじて覗き見た。ふわふわとした毛むくじゃらに、頬から伸びるたくさんのヒゲ、頭の天辺にちょこんと座る三角の耳……。
「お前は猫になったんだ、シュレディンガー。”生きてる方”の猫にな」
「……!」
隣に自称・死んでいる猫が寄り添ってきて、何ともいえない奇妙な笑みを浮かべた。私は月が満ち欠けるように瞳孔を収縮させ、驚きのあまり喉をゴロゴロ鳴らした。
□□□
「出せ! 私を此処から出してくれ!!」
私の叫びが、狭い箱の中でむなしく響いた。
何とかして箱を開け脱出しようと、私は尻尾を逆立たせ、四隅をうろうろと歩き回った。死んでいる方の猫が寝っ転がって体を伸ばし、退屈そうに欠伸した。
「やめとけ、やめとけ。無駄だって、自分でも分かってんだろう、シュレディンガーさんよ」
「!」
もちろん、そんなことは分かっている。箱の蓋は外側から螺子で固定されており、中にいる猫の力では到底開けることができない。そう施したのは、他ならぬ人間の私自身だった。
「だがこのままでは……」
生きている私は、箱の側面にガリガリと爪を立てた。
「もしガスが発生したら、私は死んでしまう!」
「自分でやっといて今更何言ってんだ」
死んでいる方の猫が目を細めた。
「まさか……自分が猫になるだなんて……!」
「落ち着けって、相棒……」
「お邪魔します」
「!?」
すると、突然壁の向こうからにゅっと影が顔を出した。私は仰天してその場から飛び退いた。自分でもびっくりするくらい跳躍力があった猫は、そのまま箱の天井でしこたま頭を打った。
「グアア!」
「こんばんは……あの、大丈夫ですか?」
「何だ!? 今度は何なんだ!?」
「僕は、僕も、”シュレディンガーの猫”です。生きてもいないし死んでもいない方の猫……」
「!?」
突如やってきた第三の猫に、私は驚きのあまりしばらく何も言えなかった。箱の中はあっという間に三匹の猫でぎゅうぎゅうになった。
「生きてもいないし、死んでもいない猫だと……!?」
狭い箱の中で、私は新たにやってきた半透明の猫をまじまじと見つめた。
「そんな存在は想定してない!」
「でも……」
「オイオイ、実験に想定外は付き物さ。なァ相棒」
死んでる方が、死んでるからといって隣からそんな悠長なことを言ってきた。
「誰かが箱を開けるまで、中にどんな猫が入っているか、誰も認識できないんだ」
「まあ……まあ良い。そんなことより、だ。早く此処から出ないと……オイ! ラジウムに触るな! ガスが発生するぞ!!」
第三の猫がラジウムに寄りかかろうとするのを見て、私は慌てて牙を剥き出しにした。
その時だった。彼の背中から、さらに二つの目が暗闇に光るのを私は見た。
「ちょっと……狭いわね。どいてくれる?」
二つの目がそう言って、狭い箱の中にグイグイと入ってきた。私は叫んだ。
「おい! 今度は何だ!?」
「うるさいわね。私も”シュレディンガーの猫”よ。生きてはいるけど目が死んでいる猫、よ」
「何なんだよ……!?」
四匹目の猫が私の体の上に乗っかり、気怠そうに小首をかしげた。これでもう、箱の中は猫でパンパンになった。身動き一つ取れやしない。獣の匂いが充満した箱の中で、だんだん私は頭が朦朧としてきた。死んでる方が私の下で可笑しそうに笑った。
「いろんな可能性があるんだなァ。なァ相棒?」
「この際猫の可能性なんかどうだっていいッ! 早く……早く脱出しなければッ!! やめろ……やめろ、もう入ってくるなッ! ラジウムがああァ!!」
「だから落ち着けって、相棒……」
壁の向こうから、さらに新たな猫が目を光らせ箱の中にやってくるのが見えた。ぎゅうぎゅうになった箱の中で、ガス発生装置が私の体で押しつぶされようとしていた……。
□□□
「は……!?」
……と、そこで目が覚めた。
気がつくと、私は実験装置を前に、机に突っ伏して居眠りをしていた。実験室は、いつの間にか照明が落とされ真っ暗になっていた。
「…………!」
心臓の鼓動が、まだ早鐘を打っていた。私は急いで自分の両手を確かめた。
「!」
指が、ある。肉球はない。腕が焦げ茶色の毛で覆われてたり、もしていなかった。
「夢だったんだ……!」
人間に戻った私はホッと胸を撫で下ろし……それから慌てて目の前の箱を開けた。
「!!」
「ニャア」
箱を開けると、中から今朝私が実験用に閉じ込めた、焦げ茶色の猫がそのまん丸とした目で私を見上げてきた。ラジウム装置は、作動しなかったようだ。
箱の中の猫は、まだ生きていた。
「お前……」
私は思わず猫を抱きかかえ、弱々しくほほえんだ。
「ミャア」
「すまない……すまなかったな、こんな実験に付き合わせて……」
「先生! 先生、まだ中にいるんですか? もう研究所閉まる時間ですよ!」
すると、部屋の扉をドンドンと叩く音が聞こえてきた。恐らく助手が、私の心配をして様子を見にきてくれたのだろう。私は返事をしようとして振り返って……。
「!?」
「お取り込み中すまない」
部屋の扉の前に立つ、一人の人物の影にようやく気がついた。
「アンタは……!?」
私は思わず猫を抱きかかえたまま後ずさった。影は私にゆっくりと歩み寄り、丁寧に頭を下げた。
「誰だ!? 此処は私の実験室だぞ!?」
「分かっている。私はシュレディンガー。”シュレディンガーの人”さ」
「シュレディンガーの、人……!?」
「とは言っても、死んでる方のな……。そのラジウム、アルファ崩壊すれば人間にも効くらしい」
影が、先ほど猫が入っていた箱を顎で指した。箱の中のラジウムは……よく見ると割れていた。私は混乱する頭で、暗闇に目を凝らした。目の前に現れた人物は……いつも鏡の前で見る私にそっくりな顔をしていた。
「一体……!?」
「落ち着いて聞くんだ、シュレディンガー。君と私は今朝、猫の思考実験の途中で不慮の事故にあった」
「!」
「今この実験室で、君は”生きてる方”なんだ」
「……!?」
「先生? 先生、開けますよ……」
向こうで鍵穴に鍵が差し込まれ、扉がガチャガチャと音を立てた。
「だが、大丈夫だ。”シュレディンガー”は現時点で生きている可能性だってあるし、死んでいる可能性だってある……」
「! 助手君、やめろ!」
次の瞬間、私は思わず叫んでいた。
「出すな、私を此処から出さないでくれ!!」
「先生?」
「誰かがこの部屋の中を”確認”するまで、僕らの生死を確かめることはできない……」
突然現れたもう一人の私が、薄暗い闇の中でそう言って弱々しくほほえんだ。彼の背中越しに、実験室の扉が向こうからゆっくりと開かれて行くのが見えた……。