プロローグ2 〜マユンの巫女〜
――走ってから一時間はたっただろうか。
雨はさらに強まり激しく地面を打ち付けている。途中で防具を脱ぎ捨てたテイジュンは息を切らしながら、神社に向かって走っていた。
テイジュンが抱きかかえているのは少女ではなく、片手で包み込めるぐらいの小さな赤子だった。テイジュンの上着にくるまれた赤子は、雨に濡れないよう抱きかかえられながら腕の中で眠っている。
テイジュンは走りながら少女のことを考えていた。
(あの子は大丈夫だろうか。それに――まさかあのお方が少女の父親とは、何が起きているのだろうか――――)
いや、考えても仕方がない。今はあのお方に託されたこの子を届けなければと、テイジュンは山の中を急ぎ足で駆け登っていった。
山の5合目付近で、ようやく神社の入口にある蔦だらけの大きな鳥居を見つけると、雨の冷たさで体が震え体力を奪われていたテイジュンは、息を整えようと鳥居の前で立ち止まった。
「はぁ……はぁ……はぁ。やっと……着いた……」
大きな鳥居の側には、大きな口、鋭い牙と眼、全身を覆う巻かれた毛並みの獅子を模した石の獣像が二体、鳥居の両端の大きな石台の上に置かれている。右側の獣像は今にも噛みつきそうなほど口を大きく開けて睨み、左側の獣像は口は閉じているが、今にも切り裂きそうな爪をむき出しにして鎮座していた。
テイジュンが鳥居に近づくと、真正面を向いていた獣像の顔がゆっくりとテイジュンがいる方へ向き、睨んだと思うと動き出した。
ズン!
「何者だ!かみ殺されたくなければ早々に立ち去れ!」
テイジュンの二倍はあるであろう大きな石像が、鳥居の前をふさぐ様に勢いよく飛び降りてきた。
ズン!
「ここは我らが守護する地。この鳥居をくぐるのなら命はないと思いなさい」
二体はオスメスのつがいで、神社の番人である。今にも飛びかからんとする程、体をうねりながら歩き回るオスと、静かに近づいて匂いを嗅いでいるメスが、テイジュンの周りを円を描くように囲み出した。
テイジュンは全く動けない状態で恐る恐る口を開く。
「ひ……久しいな、アモン」
「この匂い……あなたですか、珍しいですね何の用で来たのですか」
「ふん!くだらん用であればすぐに噛み殺してくれる」
そう言ってオスは髪を逆立てて青白い殺気を発すると、辺り一帯が強い雨風が吹き荒れた。
「お、おい!待ってくれ。ウガンジュの森が消えた件でユタ様にっ!ユタ様に話があって来たんだ!」
「!」
荒れ狂う風がやみ、逆立った髪はまた渦巻き模様に戻った。
「先ほどウガンジュの森から強い《セジ》の波動を感じました。どうやらあなたは何か知っているようですね。ここを通る事を許します」
「ふん!まあいいだろう」
「か、感謝する」
二体が石台の上へ戻り獣像の姿に戻っていくと、テイジュンはほっとしながら鳥居をくぐった。
すると先ほどまでの豪雨だった空が嘘のように、雨が止んで雲一つのない朝日の光が差し込んでいた。正面には神社へ上がる石畳の階段が長く続き、両隣には緑の苔だらけの登楼が沢山並んでいる。林に囲まれた階段は、葉っぱや草、蔦や苔に光が反射して、まるで緑色しか存在しないのではないかと思うほど、神社の神聖な空気に包まれていた。
「相変わらず別世界のようだな、ここは」
テイジュンは独り言を呟きながら階段を一段一段登っていった。はるかに長く続く階段は先が見えないほどだったが、途中で休みながらもひたすら登り続け、ようやく神社がある頂上に着いた。
頂上入り口からは、地面は白い石灰岩が敷き詰められ、見る角度によって時折光り輝いている。奥には本殿が見えるが、更に階段が続いてその先に五重塔の様に高く、5mぐらいはある大きなしめ縄が飾られた白い神社が神々しく建っていた。
テイジュンはその本殿の途中にある母屋から離れた別棟に向かって歩くと、戸を2回叩いた。誰かが出てくるのをしばらく待ってみても、何の反応もない。試しに引き戸に手を掛けると鍵はかかっておらず、すんなりと戸が開いた。
玄関に入るやいなや、先ほどまで寝ていた赤子が突然泣き出したためテイジュンは慌てふためいた。
「おんぎゃー!おんぎゃー!」
「おいおい、どうした急に。」
「誰だいこんな朝っぱらから赤子を泣かして!」
その声に顔を上げると、一人の老女が立っていた。煙管を咥え白装束に首から数珠を下げている。早朝ということもあり、少し不機嫌そうな顔をして腕を組んでいた。
「ユタ様。ご無沙汰しております。お目にかかることが出来て光栄でござい……」
「堅苦しいのは嫌いだよ」
「あ……はい。実はちょっとお願いがありまして……」
テイジュンが話をしようとした時、どこからともなく音がした。
『アンギャアアアアア・・・』
何かが聞こえた。一瞬抱いていた赤子かとも思ったが、聞こえたのは赤子の鳴き声のような、だが声ではない音。というのも、赤子の声が三つ四つエコーが重なったように聞こえるからだ。ゆえに、声ではなく音に近かった。
「そこの赤子の鳴き声じゃないね」
そう言うとユタは咥えていた煙管の煙を力一杯吸い込み、声のする方向へ煙を吹きかけた。
「ふぅーーーー」
煙が立ち込めた辺りには、紫色の肌に、おむつ姿の赤子の《霊獣》が姿を現した。その赤子の《霊獣》に向かって、ユタは覇気を飛ばすように大きな声で一喝する。
「あっち行きな!!」
「ユタ様、今のは何でしょうか」
「なあに、そこら辺に住み着いている《霊獣アカングァー》さ。セジが弱い霊獣だからアモンたちの結界をくぐり抜けてきたんだろう。あんたが抱いている赤ん坊に引き寄せられちまったんだろうねえ。そんな事よりもあんた、何だねその子は」
「実はこの子は……」
「女に産ませたのなら育てな」
「違います!」
冗談だ、と返しながらユタと呼ばれる老女が抱きかかえると、ぐずついていた赤子は不思議と泣き止んでいった。
「よしよし、寒かったねえ。オジサン怖かったねぇ。オバーがいるからもう安心よ」
「さすがユタ様」
「女っ気のないお前がまさか赤子を連れてくるとはね。どこの子だい?」
「それが、私にもどこの子供か分からなくて……」
ユタはまた冗談を言おうかとしたが、深刻そうなテイジュンの表情を見てさすがにやめた。
「―――事情があるのかい」
「はい、実は……」
テイジュンは全てを話した。洞窟で起こったこと、ウガンジュの森自体が消滅したこと、少女を父親へ渡したこと、そして赤子を託されたこと。
「なるほどね。――とすると、この赤子は一体どこから来たんだい。」
「私にも分かりません。しかしあのお方が必ず隠せと・・・」
「―――それで、この子を私に匿ってほしいと」
「はい。ここは身寄りのない子供が多いですし」
「木の葉を隠すなら森の中、ね」
「……それに、ユタ様がいます」
「ほとんど衰退しきった私を頼るとはね、アンタそれでも兵士長かい」
ユタはテイジュンの懐に入っている赤色の帽子を指さした。兵士の世界では、帽子の色で階級を表しているからだ。
「部下達は、ウガンジュの森と共に行方不明です。私に、長を名乗る資格はありません」
「堅物だねぇ」
そこから、二人はしばらく沈黙していた。
いつの間にか、赤子はユタに抱きかかえられたまま眠りについている。
「仕方ないねえ、こんなに可愛い寝顔を見せられたら断れないよ」
「――ユタ様」
「ただし条件があるよ。こんな面倒ごとを頼むアンタには、ケジメをつけてもらう」
「何でしょうか」
「アタシの経験則だけど、身寄りのない子供は自分の生まれを知りたがる。この子の場合は、それを知るために危険な道へ進むかもしれない。その時にはアンタにはこの子を守ってもらう」
ユタが提案した条件は二つだった。
一つは、この赤子が成長したらこの一件をテイジュン自身が伝えること。もう一つは、この赤子にとって何か危険なことに巻き込まれた場合は、必ず味方になることだった。
テイジュンは赤子を強い眼差しで見つめたあと、首を縦に静かに振った。
この赤子はいずれ何か重大な―――数奇な運命が待ち構えている――――そんな予感がする。これも何かの巡り合わせだ。俺の天命なのかもしれない。その来たるべき時がきた時は命をかけて守ろう。テイジュンは心にそう誓った。