4.近江の命運-2
「これはわざわざお越しいただきありがとうございます。こちらから伺おうと思っていたところです。」
若い頃から仙人修行をしていたという噂もある彼は、落ち着いていた。
「いえいえ、少し気になることがありましてな。武内宿禰殿の話を聞かせていただこうかと。」
「それはそれは、畏れ多いことです。で、何の話でしょうか?」
武内宿禰は息長宿禰王の顔をじっと見る。何もかもを見抜いていそうなその目に、息長宿禰王は思わずたじろいだ。
「――武内宿禰殿は仙人修行をされていたという噂であったな。」
「ええ、伊賀に近江に――若い頃は様々な行を積んだものです。」
「その成果の一つかな?私よりもずっと年上のはずがはるかに若々しく見える。」
「ハハハ、そう言うこともあるかもしれませんねぇ。行を究めれば若さを保つことはなんでもございません。ただ、行も完璧ではないのですよ。」
「完璧ではない、とは?」
「例えば、不老不死の技を身に着けることは出来ません。肉体はいつかは朽ち果てます。ゆっくりと、死の時期を遅らせることは出来ますが。」
「死の時期に永遠に遅らせることもできるのではないかね?」
「完璧な行というのものは存在しません。昼夜を問わず常に不老不死の行を完璧にこなすなど――無理ですね。」
「そうか。政治については?」
「仙人修行の結果が政治に役立つのか、ですか?」
「そうだ。」
「修行を積む前と比べると些か人の心が読めるようになり少しは役立っているのかもしれませんね。しかし、それでも完璧ではありませんよ。」
「だが、今の近江の国政を委ねられているのは貴方だ。」
「そうですねぇ、私が正しいと思ったことは告げさせていただきますね。」
「例えば帯中彦については?」
「彼しかいませんね。」
「え?」
「大王の位に上るのは彼しかいませんよ。」
「どうしてだ?」
「それが天界の意思なのですから仕方ないではありませんか。」
「天界の意思?」
「ええ。大和姫様に期待された大和建様の息子である彼しか、いませんよ。」
「大和建の息子なら他にもいるはずだが。」
「その中で一番、大和建様に似ているのが帯中彦様です。」
「そうなのか?会ったことがあるのか?」
「ありませんよ、しかしわかります。」
これはダメだ、と息長宿禰王は思った。話が全く通じない。
最初はただの人間だと思った。だが、話を進めている内に人間ではなく宇宙人か何かと会話しているつもりになる。
「息長宿禰王様。」
武内宿禰が改めて息長宿禰王の目を見る。
「亡き大和姫様がどういう方か、ご存知でしょうか?」
「素晴らしい巫女だったと聞いているが・・・。」
「では、大和姫様の過去世はご存知でしょうか?」
「――知らない。お前は知っているのか?」
他人の過去世を知る人物など息長宿禰王は会ったことがない。ましてや武内宿禰のような政権中枢にいるものがそんなことを口にするとは驚きであった。
「ええ。五十鈴姫様という方です。」
「五十鈴姫って、まさか―――。」
「ええ、あの五十鈴姫様ですよ。大和の国をお創りになられた肇国の祖・磐余彦様の奥様です。」
「そうか・・・・。」
「その五十鈴姫様が『帯中彦しかいない』と言っておられます。」
「うむ・・・・。」
「そこで息長宿禰王様にお願いがあります。」
「なんだ?」
「近く五十狭茅宿禰に帯中彦様をお迎えに行かせようとしています。ですが、帯中彦様は幼い頃からずっと筑紫で育った方です。お妃様の大中姫様も筑紫生まれの筑紫育ち。つまり、大和のことも近江のことも全く知らないのです。」
「そうだな。」
「ところで息長宿禰王様は丹波や近江のことに詳しいですが、奥様の一人の高額媛様は大和の葛城の出身ですよね?そして娘様は近江育ちの――」
「おい、まさか――。」
「ええ、娘様を帯中彦様の新しい妃にされるとどうですか?」
息長宿禰王は武内宿禰の真意を測りかねる。これは罠なのか、それとも息長宿禰王への配慮なのだろうか?
「それは五十鈴姫様の意思なのか?」
息長宿禰王はとっさにそう反応した。
「いいえ。」
意外にも武内宿禰は否定した。
武内宿禰の発言のすべてが神の意思ではない、と彼自身が認めたわけだ。では――と息長宿禰王が口を開こうとする前に、武内宿禰は次の一言を口にした。
「瀬織津姫様の意思です。」