3.近江の命運-1
「神様のような人でした。」
そう語ったのは息長宿禰王だった。
「大王様の永き平和の治世を思う時、なかなかその薨御を受け入れることはできません。大王様の天下には特に言うべきことは何もありませんでしたが、この何も起きなかったということこそが、大王様の御徳を表していたように思います。」
彼は先日亡くなった大王である若帯彦への弔辞を述べていた。
『日本書紀』には若帯彦の治世について次のように述べている。
「百姓安く居みき。天下事無し。」(『日本書紀』「成務天皇紀」)
先代の大帯彦までの大王には様々な伝承が残っているが、若帯彦についてはそれは残っていないのである。兄弟での殺し合いや兄妹同士の禁断の愛は勿論、外征や内乱の記録もない。
若帯彦の治世は本当に平和な時代だったのだ。
特に近江・丹波の一帯を支配していた息長宿禰王にとっては、近江に遷宮してからの平和な治世はとても印象深いものであった。
彼は若帯彦の薨御が今後の大和・近江の動乱の前触れのように感じていた。
「素晴らしい弔辞をありがとうございました。」
弔辞を言い終わった後の息長宿禰王に声をかけたのは若帯彦の正妃である弟財郎女だった。
「大后様、ありがとうございます。謹んでお悔やみ申し上げます。」
弟財郎女の顔からは哀しみの色が消えない。既に一人息子は若くして亡くなり、今夫もなくなった。
他の妃にも子供はいない。大王が子供を残さず無くなるという前代未聞の事態となった。
「するべきことは多いのでしょうが、私は夫の殯が終わるまで夫と一緒に居たく思います。その間の政務はあなた方にお任せしてもよろしいでしょうか?」
臣民の出身であるため大后であるにもかかわらず王族である息長宿禰王には敬語調だ。
「お任せ下さい。」
そう言いながら内心で「困ったことになった」と息長宿禰王は思う。
次の大王をだれが決めるのか、はまだ決まっていない。しかし、これが一般の家庭だと夫が無くなればその後のことは妻が決めるのが当時の倭国の慣習だ。家庭のことは妻が取り仕切る慣例があるからである。
「武内宿禰や五十狭茅宿禰とも良く良く話し合って下さいね。」
大后はそれだけ言うと息長宿禰王に背を向けて夫の亡骸に向かい、堰を切ったように泣き出した。
息長宿禰王が弔辞を言うまでずっと泣いていたが、先ほどまでもずっと我慢していただけのようだ。息長宿禰王はそっと大王の棺から離れた。
「弔辞、ご苦労様でした。さすがは息長宿禰王様ですね。」
そう声をかけてきたのは五十狭茅宿禰だった。
「少し話ができるか?」
そう息長宿禰王が問いかけると五十狭茅宿禰は微笑んだ。
「喜んで。」
「お前は随分と大后様に好かれているそうじゃないか。」
息長宿禰王のその発言に五十狭茅宿禰も彼が言いたいことを察したようだ。
「ああ、その件ですか。あれは私を気に入っているのではなくて、あの人を嫌っているのですよ。」
「あの人?」
息長宿禰王の脳内に疑問符が浮かぶ。
大后は武内宿禰と五十狭茅宿禰とを並べて「二人と話し合ってください」と言った。この内、武内宿禰はわかる。彼はなき大王の竹馬の友として有名だ。
しかし、五十狭茅宿禰は武内宿禰のむしろライバルだ。
(もしかして、大后様は武内宿禰を遠ざけようとしているのか?)
ふとそんな想像が息長宿禰王の脳裏を横切る。大后が嫌っている「あの人」とは、もしや武内宿禰のことなのだろうか?
(いや、そんなはずはない。しかし――)
夫の側近であった武内宿禰を大后が遠ざけるとは容易に考えにくい。若帯彦と弟財郎女のおしどり夫婦振りは有名だ。しかし、臣下には判らない家庭の事情があるのかもしれない。
「あ、念のために言わせていただきますが、私は武内宿禰と事を構える気はありませんよ?」
そう言って五十狭茅宿禰は笑った。
「じゃあ、一体、どうしてお前が起用されたんだ?」
「何にですか?」
「今後の国政は武内宿禰とお前とに任せると来た。お前が武内宿禰のライバルであることはみんな知っている。」
「まぁ、お互いに切磋琢磨している関係ですね。しかし、武内宿禰が我が国に必要な存在であることはこの私ですら思いますよ?」
「しかし、大后様が『嫌っている』のだろ?」
「ああ、大后様が嫌っているのはですね――」
そういうと五十狭茅宿禰は一呼吸おいていった。
「甘美内宿禰、ですよ?」
それを聞いて息長宿禰王は半分納得、半分解せないという顔をする。
甘美内宿禰は武内宿禰の異母弟だ。確かに大后が彼を嫌っているならば武内宿禰に全てを委ねずに五十狭茅宿禰を起用するのはわかる。武内宿禰が身内を贔屓して甘美内宿禰に重要な役職か何かを与えないためだろう。
だが、どうして甘美内宿禰が避けられているのか、がわからないのだ。
「甘美内宿禰は五百木入彦様と仲が良いのです。」
「五百木入彦と仲が良い?それの何が悪いのだ?」
五百木入彦は若帯彦の同母弟だ。彼と仲良くすることに何の問題も無いはずである。
「五百木入彦様の義理の叔母様が良くないのですよ・・・・。」
五十狭茅宿禰は「わかるでしょ?」という顔をしている。
「ああ、なるほど。」
息長宿禰王も納得した。五百木入彦の妻は大和建と親しかった尾張国造の建稲種の娘で、建稲種の妹は大和建の東征の際に結ばれた美夜受姫だ。
「尾張の一族が大きい顔をするのが嫌なわけかな?」
「そう言うことになります。というのも、五百木入彦様は奥様に惚れこみ過ぎて叔母様の言うことを何でも聞く状態です。」
「ああ、それは大后様は好まぬな。」
弟財郎女は自分の身分をわきまえて大人しくしていた。娘の夫を自分の言いなりにする美夜受姫とは性格が合わないのだろう。
「大和建様自身には思うところが無いようですが。」
「ほぉ。」
亡き大和建に思うところがないとは――息長宿禰王も大后の意向がわかってきた。
「では、次の大王は大和建の子供の中から選ぶわけかな?」
「恐らくそう言うことになります。」
「武内宿禰殿の意見は知っているか?」
「ええ、知っています。」
「彼は何と?」
「帯中彦様こそが大王に相応しい、と。」
「え?」
息長宿禰王は再び驚きを隠せない表情になった。