Doll(卅と一夜の短篇第12回)
むかしむかし、というほど昔ではなく、年号が大正に変わって幾年か経った頃。栄えつつある街の一画に、大きな洋風のお屋敷がありました。口ひげを蓄えた四十過ぎのご主人と、白髪頭を後ろに撫で付けた老執事が一人、若く美しい女中が数名。そして主人のひとり息子がそのお屋敷に住んでおりました。奥方は早くに亡くなっているとの事でした。
お屋敷のご主人はそれは人間ができた方で、身寄りのない女子を引き取っては女中見習いとして召し抱え、衣食住を与えてやりました。幼い女子達も数年もすれば見違えるように美しく成長し、またマナーの行き届いた立派な女中となりました。そして女中の年が十六になる頃には、お屋敷から居なくなりました。屋敷のご主人がどこか嫁ぎ先を見つけてやっているとの事であります。町の人々はたいそう感心しておりました。
そしてそのご主人がもっとも大事にしていたのが亡き妻の忘形見、ひとり息子の「佳」でした。年の頃は数えで十ニ。名が体を表すかのごとく、まだ幼さが残るその面は人形のような美しさを持っておりました。まだ子どもで、まして男の子なのに美しいと評するのはおかしいかもしれません。しかしそう言わせる迫力が佳にはあったのです。物静かで表情が乏しいですが、それがかえって神秘的な雰囲気を醸していました。柔らかな月の光を浴び、窓辺でじっと外を眺める姿は、まるで幻想的な一枚の絵のようです。黒い艶やかな髪は風になびくときらりと光りました。うす桃色の唇からそっと吐息が漏れる様子を見ると、身体の芯がキュッと痺れるようでした。異国の血が入っているのでしょうか、緑がかった大きな瞳で見つめられると、まるで見えない縄で捕らえられたかのように身動きが取れなくなりました。
男も女も、老いも若きも関係なく、心を惑わす。そんな危うげな美しさを持つ少年でした。
月が綺麗なある晩のことです。女中のひとりが乱心し、寝室で休んでいた佳に襲いかかりました。厨房の包丁を持ち出し、佳の喉元に突きつけたのです。女中は大粒の涙を流し、静かに泣いていました。佳はなにか思うところがあったのでしょうか。騒ぎもせず、助けを乞うこともせず、ただ黙ってその女中を見つめました。
——坊っちゃまが……
——しず江姉さん、チヨ姉さん……
——坊っちゃまだけを行かせはしません、私も後を追います……
——申し訳ありません……
そうして彼女は、佳の喉を包丁で切りつけ、自分自身にもその刃を向けました。窓からは、満月の明かりが差し込んでいます。佳の緑の瞳は、血しぶきをあげる女中をずっと眺めていました。
翌朝。起床の時間を告げに、別の女中が佳の部屋訪れました。しかしそこにあるのは大惨劇。むっと漂う鉄の匂いと血濡れのベッド。ベッドに横たわる青白い女中。それを目の当たりにした女中は驚き、大きな悲鳴をあげました。ベッドには佳もいます。佳も血だらけですが目を開け、かすかに身動きをしていました。よく見ると喉のあたりがぱっくりと裂けています。女中はヒュッと息を呑み、そのまま気を失い、床に倒れてしまいました。
騒ぎを聞きつけた執事により、佳は部屋から出されました。清潔なシーツに包まれ、別室のソファに寝かせられます。すぐさま父親が駆けつけ、血塗れの佳を強く抱きしめました。よほど息子が心配だったのでしょう。顔面は蒼白で、冷や汗は身体を滴り、指先はカタカタと震えていました。
「どうやら無理心中を試みたようです」
そう言ったのは父親の後ろに控えていた執事でした。
佳は喉がぱっくり裂けているため、そこからヒューヒューと息が漏れています。しかし大きな傷だというのに大して出血はしていないようでした。痛がってもいません。出血多量で意識が朦朧としている訳でもなさそうです。普段通りの物静かな佳でした。
佳はかすれた声で呟きました。
「……連発銃が、欲しいです」
こんな時に何を言い出すのかと父親は思いました。が、この状況です。恐らく佳にも思うところがあったのでしょう。父親も考えました。
——女中が佳を襲った理由は分からないが、またこの様な事件が起こるかもしれない。今回は無事だった。しかし次も無事だという保証はない。
父親は護身のために買い与えるのもやむなしと考えました。
「ああ、わかった」
連発銃とは、圧縮した空気で弾を撃ち出す空気銃のことです。弾は鉛。この当時は玩具の一種として上流階級の子息などが所持しておりました。玩具といえど威力は大きく、至近距離での発砲は人に致命傷を与えることがあります。大事な息子にそんなものを持たせるのは不安です。しかし、佳が何かをねだるなど初めての事でした。迷ったのはほんの一瞬。父親は銃を買い与える約束をしたのでした。
「さあ身体を綺麗にしよう。佳、歩けるか? 」
にこりと笑いかけ、シーツで包まれた佳を床に下ろしました。佳はコクリと頷き、歩き出しました。
「傷は、痛くはないか?」
佳はまたコクリと頷きました。
「そうかそうか、それならよかった」
佳は父に連れられて、屋敷内の離れへ行きました。本邸と比べるとかなり小さく質素でありますが、綺麗に手入れをしてあります。ただ、周りを木に囲まれて薄暗く、そこだけ影が濃いような雰囲気でした。女中達はこの離れに来ることは禁じられており、ここを訪れるのは佳とその父、そして管理を任されている執事の三人だけでした。
建物の中は殺風景で、調度品の類はありません。作業場やアトリエといった方がしっくりくるかもしれません。一番大きな部屋の真ん中には大きい寝台が置いてあり、その周りには年季の入った作業台。壁に備え付けられた棚には瓶や種類の異なるパレットナイフや刷毛が並んでいます。
佳は硬い寝台に寝かせられました。服は着ておらず、細くなめらかな肢体が寝台に投げられています。普段は無表情に近い佳の表情が、この時ばかりは不安げに瞳が揺れました。その瞳を嬉しそうに覗き込む父がありました。寝台のすぐ側に立っております。またその後ろには執事が控えておりました。二人ともいつもの仕立ての良いスーツは着ておらず、黒い大きな前掛けをしています。まるで魚屋さんのような出で立ちでした。
佳はされるがままでした。まずコキリと腕を外され、脚を外されました。痛みはありません。まるで人形のパーツを解体するかのように、佳の身体をバラバラにしていきます。外されたパーツはそのまま寝台に丁寧に置いていかれました。整然と並べられた様子はまるで標本です。次に胴と首を離されました。頭を両手で持ち上げると、傷をつけないように最新の注意を払い、目頭辺りにぐっと指を入れ、眼球を取り出しました。キラキラと輝くそれはまるで宝石です。ガラスで出来た金魚鉢の中にその両方の眼球をそっと入れました。鉢には透明の液体がなみなみ入っており、佳のふたつの眼球はユラユラとその中を漂っていました。
緑の瞳は、金魚鉢の中から悲しげに父を見つめています。
白磁のようにすべすべとしたパーツを、父はうっとりとした目つきで眺めていました。そして眼を取り外した頭を持ち上げ、くるっと逆さにし、女中から切りつけられた喉の部分を確認しました。横一文字にすっぱり切れ目が入っています。指でなぞり、舌打ちをしました。
「あの忌々しい女中。せっかく今まで育ててやったのに、恩を仇で返しよって。ああ、あんなに派手にぶち撒けて。なんともったいない……」
すぐさま父親は表情を優しいものに変え、柔らかな声音で佳の頭部に話しかけました。
「佳、いま傷を治してやるからな。父に任せておけ」
執事が準備した材料と道具を受け取り、父親は作業を始めました。まっ白い粘土のようなパテを、えぐれた喉の傷に丁寧に塗り込んでいきます。パレットナイフで形を整え、余計なパテを削りとりました。パテと肌の境目を指で丁寧になじませます。埋めた部分の色は白いですが傷は完璧に塞がりました。
次に執事が持ってきたのはバケツに入った赤黒いネットリとした液体です。父親は陳列棚から一升瓶のようなものを持ってきました。中身は透明な液体です。それから瓶の中身を柄杓で一杯分バケツに混ぜました。すると赤黒かった色は鮮やか赤となり、金粉を混ぜたかのように、時おりキラキラと輝きました。
そして仕上げとして、バケツの中の赤い液体をたっぷり含んだ布で、修復した喉の辺りを丹念に拭いていきました。液体は傷口辺りにどんどん染み込んでいきます。まっ白だった粘土部分に色艶が付いて着ました。赤い色ではありません。佳の肌の色と同じ色になったのです。なめらかで白い肌です。痛々しい喉の傷はもう跡形もありません。
「傷は完璧に治ったぞ、佳。よかったな。ついでに身体の方も塗っておこうな。コレは鮮度が大事なんだ……」
そう言うと、バケツに入った赤い液体を柄杓でかき回しました。
「先月したばかりだが、まあたまには贅沢をしてもいいだろう。私の大事な佳に、醜いキズをつけた罰だ」
そして佳の身体全てのパーツを、真っ赤な液体を含んだ布で丁寧に拭き上げていったのでした。丹念に液体を塗り込み、全身を拭うのにバケツ二杯もの量を費やしたようです。この赤い液体は何なのでしょうか。どこから手に入れているでしょうか。
「ああ、佳。私の可愛い佳。お前はずっとずっと、この父の側にいておくれよ……。その為ならば、どんなものだってお前に捧げよう」
薄暗い部屋。父親は悦に入った様子で作業をしています。佳の緑の瞳は、そんな父の姿をずっと見つめていました。
◇
あの日を境に、女中が一人消えました。佳に襲いかかった女中ではありません。彼女はすでに亡き人となっていたので、懇ろに弔われました。消えたのは、襲われた佳を最初に発見した女中です。ご主人は「とても恐ろしいものを見たのだから、逃げ出してしまったのだろう」と言っていました。後日、その旨を認めた書き置きが見つかったそうです。屋敷の女中達はたいそう悲しみました。二人とも皆に実の姉のように慕われていたからです。
佳を襲った女中、菊枝は十五になろうかという年頃で、他の皆同様に佳を大事に思っておりました。確かに佳は美しいですがまだ子どもでありますし、ここの女中たちは可愛らしい弟のように思っていたのです。佳にせまり、無理心中を計るなど、到底考えられませんでした。ただ、このところに表情が優れていなかったのは確かでした。仲の良かった女中が晴れて十六となり、嫁ぎに出た辺りから様子がおかしいのです。おそらく寂しいのだろうと、皆考えていました。
屋敷から居なくなった女中、巴は明るく朗らかな気質でした。そしてこのお屋敷で働くことをとても誇りに思っていました。身寄りのない自分を拾ってくれたばかりか、大きなお屋敷に住まわせ、栄養のある三度のご飯と、きれいな服を着せてもらえるのです。主人に心から感謝し、仕事にやり甲斐を感じていました。そんな彼女が逃げ出すでしょうか。……いえ、ショッキングな場面を見てしまったのです。こればかりは一概に言えないでしょう。
二人の姉代わりが居なくなり、言い様のない不安が残された女中達の間に広がりました。しかしそれを口に出すものはいません。ただただ目の前の事実が信じられず、お互いに抱き合い、涙を流しました。佳の緑色の瞳は、さめざめと泣く女中達の姿をただじっと見つめていました。
数日後、ご主人はまたどこからか二人の可愛らしい女子を屋敷に新しく連れてきました。彼女らも数年もすればきっと立派な女中になるでしょう。そうやってこの家には一定数の若く美しい女中が切れることなく存在しているのです。そして皆一様に、十六を迎える頃に屋敷からいなくなるのでした。彼女らは幸せに暮らしているのでしょうか。その後の彼女たちを知るものは誰もおりません。
◇
あの事件からさらに数週間が過ぎ、新入りの女の子二人も新しい生活に慣れてきました。姉代わりである先輩の女中は、ここでのルールをひとつひとつ教えていきます。
「離れにある小さな別館には近づかない事。あそこは旦那様と今は亡き奥様の思い出の場所なので、私たち女中が近づくことは禁じられています。以前、その決まりを破った女中が、その日に解雇させられ、このお屋敷から居なくなりました」
新入り二人の顔色がさっと青ざめました。
「もう一ヶ所、私たちが入ってはいけない場所があります。旦那様の書斎です。大事な書類がたくさんおありなので、管理は執事の大倉さんがされております。二カ所とも誤って立ち入る事がないよう、しっかり注意してください。旦那様は私たち女中にも大変お優しい方ですが、決まりを破るものに容赦はなさいません。いいですね」
新人の女中は「はい」と返事をしました。前の生活に比べるとここでの暮らしは天国です。住む場所も、待っている家族も、この子達にはありません。この家から追い出されたのなら、どうやって生きていけば良いでしょう。絶対に決まりを破るまいと、この少女達は胸に誓いました。緊張した面持ちの新人達に、先輩女中は優しく微笑みかけます。
「私も、あなた達と同じよ。ここにいる女中皆が同じ。家が貧しかったり、身寄りがなかったり。生きるのが大変だった時に、旦那様に手をとってもらえたの。旦那様がこのお屋敷に連れてきてくれなかったら、生きていたかも分からないわ。礼儀も知らず学もない汚い小娘を、ここまで育てて頂けたの。本当に旦那様には感謝しているわ」
だから、と女中は続けます。
「私達にできる精いっぱいの恩返しのつもりで働いているのよ」
そう言って笑う彼女の笑顔は、晴れ晴れとして、とても綺麗なものでした。
◇
ある夜更けのこと。父親の書斎の前に、佳が立って居ました。辺りの様子を伺い、すっとその身体を扉の奥に滑り込ませます。入って左手の隅にカーテンで覆われた場所があります。カーテンをめくると、そこには小さな扉がありました。まるで何かから隠すようにひっそりと。佳はあらかじめ用意していた鍵で扉をあけ、中に入りました。
灯をつけるとそこには、不気味なほど精巧に作られた人形があちこちに置いてありました。どれも人間の子どもや女性くらいのサイズで、上半身だけのものが数体あったり、大きな瓶には腕や脚のパーツが何本も差してあります。陳列棚にあるガラス瓶の中には長さの異なる指や、色んな色彩を放つ眼球が入っており、綺麗に並べられています。指が六本ある手、三つの瞳がある頭という様なものもありました。異様としか言いようのない光景でした。
特に異彩を放っているのが、壁に掛けられたオブジェです。女性の上半身が額縁から飛び出て、まるで天に助けを乞うかのように腕を伸ばし、悲痛な表情をしています。その瞳は深い緑色。佳によく似た髪の長い美しい女性でした。とても精巧に作られており、一瞬本物の人間ではないかと間違えそうになるほどでした。
佳はその人形の悲しそうな表情を見て、瞳を揺らしました。
彼の手には父親からつい先日買い与えられた連発銃がありました。玩具扱いとはいえ、人形を壊すくらいの威力はあります。引き金を握る手に、ぐっと力が入りました。すると、佳の背後からガチャリとドアノブをひねる音が聞こえてきました。ギギギ、とゆっくりと扉が開きます。
——さあ、彼はこの銃口をどこに向けるつもりなのでしょう。この美しい女性の人形でしょうか。
「……佳か? なぜここにいる。どうやって入った。すぐにここから出なさい 」
——目の前に現れた哀れな父親でしょうか。
「……一体何を持っている。そんなものすぐに下ろしなさい」
「どうしたんだ、佳……」
「やめなさい、やめてくれッ……!!」
——それとも。悲しく微笑む、佳自身なのでしょうか。
緑色の瞳から、一筋の涙が流れ落ちました。
「 Doll 」 完